神様の物語における無意識の役者達

2022年3月20日英語礼拝 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

ルカの福音書18章31〜34節 「神様の物語における無意識の役者達」

 

  オンラインで、そしてここオープンドアチャペルで本日参加くださっている皆さん、またご一緒できて嬉しく思います。 神様の御言葉に関する私自身の学びの中から、神様がこの時代において私たちに語られているように感じることを、再度皆さんと分かち合いたいと思います。 私が受けていると信じるこれらの教えを――願わくは、忠実かつ明確に――お伝えすることで、皆さんの助けになりますよう祈ります。私の祈りは、より深い信仰と愛の中でキリストに従うことにおいて、それらが皆さんを教え導き、励ましてくれることです。

 

 キリストのご生涯に関する福音の説明を読み進むに連れて、著者たちがいくつかの主題に繰り返し立ち戻っていることに気づきます。 そのひとつは、イエス様のご生涯における出来事が、どれほど確かな預言の成就であるかということです。 これらは大抵、現代に生きる人である私たちの耳に、少しばかり奇妙に聞こえます。 しかし、聖書が書かれた当初の読者にとって、それらは非常に重要なことでした。 そして、それらは実際、私たちにとってもまた大きな意味を持っています。私たちが生きる特定の文化や時代のレンズを通して見るために、理解できないことが多々あってもです。

 

 私たちはこの地上でのイエス様の時代の物語を、歴史の教科書か古い新聞のように読もうとする傾向があります。 陥りやすい誤りは、それらが福音として書かれたことを忘れてしまうことです。 聖書作家たちは、良い知らせ(福音)を私たちに伝えようとしているのです。その知らせとは、救われること、すなわち救い主であるイエス様との関係の中ですぐに手に入れられる命を持つことを、私たちが必要としていることです。 真実を伝えるためだけでなく、自分達のメッセージを最初の読者たちに対して説得力のあるものとするため、彼らは特定の事柄に焦点を当てます。それは、ナザレのイエスこそが、世紀に渡って神様がご自身の民に送るとお約束なさっている救い主キリストそのものであるという真実を、明らかに示していると彼らが信じる事柄です。

 

 ひとつはキリストの教えです。 中でも鍵となるのは、イエス様が神の御子であり、また人の子であるという点です。 私たちが昨年のクリスマス礼拝で共に学んだように、イエス様は神様によって選ばれ、この世界を救うために世に遣わされました。イエス様のメッセージのすべてをさまざまな方法で繰り返し伝えながら、福音の伝道者たちは、イエス様が真理を語っていることを私たちに示してくれます。 イエス様がやって来て、世紀に渡り神様が語っておられたことと矛盾する何かを、私たちに信じさせようとしているわけではありません。 そうではなく、イエス様の教えは、神様と神様の世界を理解し、聖書が常に授けてくれる私たちの命について知ることと一致します。 このことの故に、イエス様は頼りがいがあり、信頼に値するお方なのです。

 

 キリストの御言葉とは別に、福音の伝道者たちが私たちに知ってほしいと願う特別なものに、その御業があります。 それらは、イエス様が、単に何かいかした計画を思い描いていたのではないというしるしです。政治的もしくは社会的なことなどで多大な人気や力を得るために実行しているのではないのです。イエス様は全能である神様がお選びになった方であり、神のひとり子です。そして、それは言うまでもなく大きな力を伴うことです。 ですから、著者たちは、イエス様がどのように奇跡の御業を行ったかに関するたくさん物語を伝えてくれます。 奇跡は助けるためにあります。 福音書にある奇跡の物語のひとつの特徴的な鍵は、その背後に、愛の神様が御子を通して健康を回復させ、地域社会に復帰させるという特別な方法で手を差し伸べておられる、本当の窮状にある実在の人々がいるということです。奇跡はまた、教えるためにもあります。 目的のひとつは、天国にある私たちの将来の家がどのようなものになるのかを私たちに見せることです。

 

 しかし、神様が奇跡を行なわれるもうひとつの理由は、この世界に平和と正義と完全性をもたらすこと――つまり救いをもたらすこと――について、キリストの御業の中にある無二の領域だと私たちに確信させるためです。キリストが生きたのは非常に宗教的な時代で、奇跡の力を持っているとかで、自分がメシアだと主張する様々な人達がその時々にいました。 正直者がどうやって偽物と本物の違いを見分けることができましょう?  それを私たちが確かめる助けとして、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネは、イエス様の行動について抽象的な考えではなく、イエス様に出会って癒された特定の人々についての詳細で具体的な物語を書いています。 彼らは、イエス・キリストが、ご自身で主張される人物――つまり神様の御子でない限り筋が通らないことを行なっておられたのを、私たちに見てもらいたいのです。 彼らは、イエス様が「この人の子を、父すなわち神が認証されたからです。」と言われたとき(ヨハネ6章27節)、イエス様が真理を語っていると論じています。  これは、日本で商品にラベルが貼られているJASの品質シールのようなもの――しかし、それよりはるかに大きな意味と権威を持つものです。

 

 さらに、それだけにはとどまりません。キリストの御言葉や御業さえも超越して、キリストのご生涯で起こる確かな出来事は、神様ご自身だけが生み出すことができる結果をもたらすために、ご自身が舞台裏で働かれて、起こることを管理し、動かしておられることを示しています。 イエス様の時代の人々が行動として選んだ事柄は、長い間そこにあった預言の成就に行き着きます。 意識的に進んでこれを行う者もいますが、他の人々は自分たちがそれを行なっていることすら知りません。 福音書の著者はこのことに注目させるため、しばしば物語を中断しますから、私たちがそれを見逃すことはありません。 彼らはこのようなことを言います。「それは聖書の言葉が成就するためであった」(ヨハネ19:24) これらは私が今日のメッセージの中で、皆さんと共に注目したいことであり、できるなら他の人たちが従ってくれることを望みます。

 

  今日の聖書箇所のルカの福音書18章は、イエス様がご自身に従う者たちに、自分は殺されることになるが、それはよみがえりにつながるものであることを前もってお話しになる、いくつかの物語のひとつです。神様はしばしば聖書の中で、それがどれほど確かなことであるかを示すため、またそれらが特別な重要性を持つことを示すために、ある物事を繰り返されます。 この箇所でもそれがわかります。 イエス様は弟子たちに、ご自身の死と復活が、単に起ころうとしている無作為の出来事ではないと語られます。 それらは「預言者たちが人の子について書いた」(31節)ことなのです。

 

  具体的にはどのようなことが起こるのでしょうか?

 

  人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。(32〜33節)

 

  この話においてルカは、旧約聖書のどの預言がこれらのことが起こると語っていたのかを、正確には教えてくれません。 しかし、はっきりとした複数の例があります。ひとつはイザヤ書53章3〜5節です。神様がご自分の民を救うためにお遣わしになる人物の描写として、イザヤはほとんどの人たちが期待していたような、剣を手にした力強い戦士の王とは異なる人物像を描いています。 私たちは、たくさんの敵を葬った人が、白い馬に乗って都に入る姿を想像できます。 しかし、イザヤは何か違ったことを言います

 

  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 

 このメシアが経験する苦しみは、自然災害、病気、あるいは事故によるものではありません。 それは意図的に彼に負わせたものです。 受けるに相応しいものではないのに、とにかく彼はそれを受け入れます。 彼が私たちのために「刺し通され」たり、「砕かれる」(イザヤ)のは、公正でも正当でもありませんが、イエス様があざ笑われ、唾を吐きかけかれ、鞭打たれ、そして殺されるときに起こることなのです。 これは悪です。 にもかかわらず、イエス様がそれを耐え忍ぶことを選ばれるのは、神様がそれを世界の人々に必要な救いをもたらす方法として用いられるからです。 これが、イエス様が私たちの罪の代価を支払う方法です。 イザヤの預言が「実現する」(ルカ18:31)とき、それらのことは神様が私たちと共に、また私たちのために苦しむに足るほど、私たちを愛しておられることを明らかにするのです。 皆さんは孤独を感じたり、正当に評価されていない、あるいは誤解されていると感じることがあるかもしれません。他の面で苦しんできたかもしれません。 しかし聖書の神様は、苦しみのさなかで神様に触れるようにと、皆さんをお招きになります。 その苦しみが、この世に生きる人間としての暮らしの一部に過ぎないものであれ、あるいは人々の罪によって直接もたらされた不当なものであれ、それは私たちが神様と出会うことができる場所です。 神様の賢明なご計画の中で、それはしばしば私たちが神様を見つけ、そのご臨在を最も強く感じる場所なのです。

 

 主の愛に加え、十字架の出来事は驚くべき方法で主の力を示します。 この預言が成就するために、神様が用いることをお選びになるのが何か、お分かりになりますか? それはイエス様を十字架につけて死なせる人々の憎悪と残忍さです。そしてその人々は、自分たちが神様の救いの物語の一部を織りなす神聖なドラマで、ひとつの役を演じていることを知りません。 イエス様を嘲笑し、唾を吐きかけ、鞭打ち、死に追いやる人々は、自分達が勝利していると思っているように見えます。 宗教指導者たちは然るべき時に政治的および社会的な圧力をかけ、政府の指導者たちは彼らが望むものを手に入れるために彼らの法と軍隊の力を使います。 そのような過程の中で、罪なき神の御子は、かつてない最大級の不正行為によって命を奪われるのです。

 

 けれども、物語の悲劇的な終わりのように見えるものは、結果的に別の喜びの始まりになることがわかります。 キリストの死は、キリストの命と、それによってキリストが十字架上で私たちに与えてくださった贈り物を受け取るすべての人の命の式典なのです。 ここで浮かび上がる永遠の真理とは、深刻で計り知れない悪に直面する中であっても、神様が主導権を握っていることです。 たとえどんな不正や残忍さが神様とその民に突きつけられても、神様は王として支配されます。 私たちの神様は統べ治める方です。神様が統治されるのです。 それが、今日再び、皆さんにお示しする良い知らせ(福音)です。

 

 今日の私たちの世界には、たくさんの悪が存在していますね。 ロシアのウクライナに対するいわれのない攻撃と、そこで命を奪われている一般の人々について来る日も来る日も耳にすることが、この悪事を見ることを余儀なくさせていますよね。 私たちの世界に戦争がないという時が、本当に長期間続くことは決してないと私たちは知っています。 ほんの数例を挙げるだけでも、最近のイエメン、シリア、ナイジェリアでは、神様の似姿に造られ、神様に深く愛されている人々が殺され続けています。1日に 24時間、1週間に7日、1年に365日の報道サイクルによって、これらの恐ろしい出来事を昔よりはっきりと目にすることが、それに気づかぬふりをし難くしています。もしもそれらの出来事が目に見える形で私たちの生活に影響を与える可能性があるなら、私たちはもっと心配するのかもしれません。一度に多くの問題について考えるには私たちの能力は限られているので、ある意味当然のことかもしれません。しかし、当事者たちが私たちと違うからという、心の狭さや人々への思いやりの欠如である可能性もあります。 それが真実であるとしても、神様は私たちを許してくださいます。

 

  私たちの国に「ホット・ウォー(武力による戦争)」がないとしても、私たちの多くは、物事が逆行しているやり方に対して、失望を感じたり、ひどく落胆したり――時には憤ったり、他の否定的な感情でいっぱいになります。 「コロナ疲れ」の影響は、今やいつでもどこにでもあるように思われます。 私たちが政治的分裂のどちらの側に位置しようが、多くの人々が、自由や安全、さらにはより良い未来への希望さえも失ってしまいそうなことに腹を立てています。 ひとつの例として、世界中の多くの国々で、宗教の自由が攻撃にさらされることが懸念される理由がいくつかあります。かつては信仰が文化において力強い求心力となっていた国々でさえ、例外ではありません。 私たちは、恨みや恐れに屈することで、それらの中で日々生活することを許してしまいたくなるかもしれません。

 

 悲しくなるほどの残虐さに満ちたこの世界で、もう一度良き知らせを聞きましょう。神様が主導権を握っておられます。 神様がそれを許す選択をされるか、積極的に引き起こすことなしには、何事も起こりません。 また神様は、最も重要な御業を行うために、最悪の状況や、人間たちの本当に邪悪な行動を用いることを常としています。 罪が人間の生活に入り込んで以来、神様はいつもこのようにされておられます。 エジプトにおけるヨセフの物語では、兄達がヨセフを奴隷として売ってしまうことで、彼の人生を台無しにしてしまったかのように見えるとき、ヨセフは、たとえ奴隷の身であろうと牢獄にいようと、神様はヨセフと共におられ、彼の人生に良い計画を持っておられると知ることになります。 自分の人生を神様の御手の中に置く習慣を身につけるにつれ、やがてヨセフは兄達と向き合うようになり、彼らに言います。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためです。ですから、もう恐れることはありません。」(創世記50章20〜21節a)

 

 イエス様がお生まれになる時代にたどり着くと、クリスマスの物語の中に神様の預言の成就――つまり神様が約束を守られることの例をいくつか目にします。これについて今年の後半にさらに目を向けるかもしれませんが、ここでは一つの例を挙げます。

マタイ2章16〜18節には、次のようにあります。

 

  その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常に怒って、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。そのとき、預言者エレミヤを通して言われたことが成就した。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。(エレミヤ31:15)」

 

 悪意のみならず、ほとんど言葉にならないほどの邪悪さを通しても、はっきりと、神様は救い主を世にもたらす方法を見つけられるのです。

 

 それから、イエス様が成年となられ、 公の場に出て宣教なさっているとき、イエス様はご自身の不当で暴力的な死について語られますが、それを私たちの世界で神様が御心を行うことを意味する選択の重要な鍵だとわかっておられます。(ヨハネの福音書10章17〜18節)

 

  わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。

 

 恥と屈辱に直面してもなお、神様はご自分の約束を守るためにそれらを用いられ、私たちの世界で素晴らしい御業を行われるのです。

 

 また、イエス様が間もなく死刑を宣告されようというとき、ご自分がその扱いにふさわしくないことを知りながらも、イエス様は逃げようとなさいません。(ヨハネの福音書19章10〜11節)

 

  そこで、ピラトは言った。「私に答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、この私にあることを知らないのか」 イエスはお答えになった。「神から与えられているのでなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。」

 

 ここでもまたイエス様は、ご生涯を通してそうであったように、神様が主導権を握っておられるというご自分が持つ深い信念に基づき、言葉と行動を選ばれます。 私たちが、神様がそれを行う方法の選択を神様にお任せするとき、神様はご自分の民を助けることを約束されました。キリストはご自分の将来を神様に信頼し、ご自分の愛する父が示される道を行くことによって、起こり得る最大級の勝利と祝福を獲得なさるのです。

 

 それが私たちの主であり救い主であるお方が、ご自分の人生における不正や苦しみに対処される方法であるのなら、イエス様に従う者として、私たちは、人生が好ましいものでなくて人々から正当に扱われないとき、どのように反応すべきでしょうか? 一例を挙げると、私たちがイエス様のようになることを学んでいる最中であるなら、悪い状況から逃げるのではなく、主の助けを借りてその状況に入り、通り抜けるという習慣を築いているところなのです。 どのようにして、神様は私たちをこの世界の不正の中に遣わそうとしておられるのでしょうか?  もしかすると、他の国の戦争難民たちのため――あるいは、ここ日本で私たちが最も手を差し伸べやすい立場にある、私たちの周りの個人や少数の人たちのために、救済事業を見つけることを通してでしょうか? 私は、ひとつのプロジェクトから別のプロジェクトへと飛び回ることよりも、奉仕事業(たとえばボランティアの働き)に直接寄与することにおいて一貫性を保つことが必要だと感じます。リベリアのコミッション・バプテスト・インスティテュートの校舎建設は、神様が継続して支えるように私たちを導いて下さっている一つの活動であると信じています。主が自分たちを導いておられると皆さんが感じる奉仕は、この特別な奉仕か、あるいは他の機会なのかもしれません。  しかし、いずれにせよ、キリストが教えてくださったメッセージと共に、私たちの内に住まわれる聖霊によって力を与えられ、御父の導きに仕えることに信仰を持って踏み出すことができる方法について祈りましょう。

 

 すべてを治めておられる神様、とりわけこの苦難に満ちた時代において、挑戦と危険と好機を伴う日々を通じ、あなたのみそばを離れずに歩けるように助けてください。 私たちの周りにある苦悩と不正の只中であなたに出会い、その出会いを通してあなたをより完全に知るようになりますよう助けてください。 あなたと、私たちの暮らしの中で起こる悪いことを好転させられるあなたの御力とを、より深く知ることができるようにしてください。 また、御霊の力により、あなたの御名によって、あなたが私たちに送ってくださる人々のところに赴き、効果的に思いやりを持って奉仕することができますよう助けてください。 イエス様のお名前によって祈ります。 アーメン。

 

   (※聖書引用部分の日本語訳は、基本的に新改訳聖書による。一部、共同訳聖書を引用。)