信仰の仲間が共有するもの

2022年2月27日主日礼拝 メッセンジャー:佐々木俊子姉

テーマ「信仰の仲間が共有するもの」/中心聖書箇所:Ⅱコリント4:5-7 「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」

 

■はじめに今日のみ言葉から

 今日選んだ聖書箇所は私がこの頃すごく気になっている箇所で、皆さんと共に学んで行けたらと思っているところです。ここは使徒パウロとテモテからコリントにある神の教会とアカヤ地方全土にいる聖徒たちに書かれたものです。コリントは今のギリシャの南部、アカヤはギリシャ中部にある地方です。

5節から7節までを読みますと、いくつかのことが解ってきます。1節ずつ見て行きましょう。まず5節を見ますと、「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」パウロとテモテは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、イエス・キリストを宣べ伝える者たちである、ということです。私たちはイエス様より自分を目立たせてしまうという誘惑に会いますが、イエスだけを掲げる者にさせていただきたいと思います。そしてパウロとテモテは自分たちのことを、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべだと言っています。私たち主にある者たちはしもべとして主に仕え、周りの人々に仕えるようにと導かれています。

 6節に行きましょう。「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」神さまは私たちの心を照らしてくださった。そして、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった、とあります。ここまでは解りますね。

でも、7節とのつなぎが分かりにくいと私は感じました。7節は「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。」と書かれているのですが、「この宝」って何だろうと思いませんか。6節に戻って、「この宝」を探しますが、はっきりとは分かりません。(実は英語だとはっきりわかります。)新共同訳を開けてみました。6節、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」これですね。これで解りました。「この宝」とはキリストの御顔の輝く神の栄光を悟る光です。キリストを通して神の栄光が現わされているということに気づく、解る、悟るための光ですね。神は私たちの内に神の栄光を悟る光をくださったのです。

 7節その「光」を私たちは自分の肉体という土の器の中に入れているらしい。また、その宝は測り知れない力があって、私たちから出たものではなくて、神のものだと書かれています。パウロにもテモテにもその宝が与えられていて、その宝によって彼らの福音宣教が進められて行ったと想像できます。

 

■ルカによる福音書からひとつ

 ここからはルカによる福音書に入ります。5:17-20です。(読む。)皆さんよくご存じのところです。イエス様が病気の人々を直しておられるのを見て、男たちが中風の人を床に寝かしたまま運んできたという出来事です。大ぜいの人がいて、病人を家の中に運び込む方法が見つからないので、屋上に上って、屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床をイエス様の前につり降ろした、と書かれています。

 以前、シェリーさんがここのところから証というか、ご自分もこのような信仰をもってこのことに臨むと話されていたことがありました。うろ覚えで、間違っていたらごめんなさい。以前、シェリーさんのお姉さまか妹さんがご病気になられて、自分たち親族はこの屋根の瓦をはがして、病人をイエスさまの前につり降ろした男たちのように、信仰によって病気の家族をイエス様の前につり降ろすんだと話しておられたことを思い出しました。ひとりの人のために周りの信仰をもった人々が心を合わせて仕えるというところで、まさにこの出来事が生きて現代の私たちに語っている、そんな気がします。

 

■母の葬儀から

 先週の日曜日に私の母のことをざっとお話しさせていただいたのですが、母の葬儀のことをもう少し詳しくお話させていただきたいと思います。母の葬儀を家族葬で行うということは、本人も承知していたことで、親族だけでと思っていましたが、今、コロナのまん延防止措置期間で、遠くにいる親族に来てもらうことはできるだけ避けて、ごく近くに住む親族だけで行うことにしていました。94歳という高齢で、残っている親族も超高齢、友達も超高齢、ほとんどが先に亡くなられていて、生きておられても来てもらうのは、はばかられるそんな方ばかりです。実際に来られる親族は5人で、司式してくださる牧師を含めて6人で行う予定でした。

 でも、母は生涯信仰を貫いた人でしたので、私は親族以外にも信仰をもつ方々が来てくださるようにと密かに祈っていました。すると、何人かの方が、葬儀に出たいのだけれどと言ってくださったのです。でもやっぱりコロナの時だから万が一感染したら大変だと、お断わりすることにしました。そうしたらまた他にも、葬儀に参列してはだめだろうかと言ってくださる方があって、またそちらも一旦お断わりしました。でも、何だか気持ちが収まらなくて、一晩考えて、自分の正直な気持ちに戻ることにしました。私の望みは、クリスチャンの方たちに「葬儀に出てほしい!」「母を信仰の仲間で送り出してほしい!」ということだったのです。それで、声を掛けてくださった方たちに「やっぱり来てほしい。」とお願いして、来ていただくことにしました。

 当日、9人の主にある方たちが参列してくださり、司式の牧師の奥様も来てくださって、総勢17人。その中でクリスチャンが13人という、予想もしなかった葬儀になりました!司式してくださった牧師も母が敬愛し、10年以上牧会してくださった方でした。みなさん母と共に信仰生活を送られた方々で、母のことをよく知っていてくださり、天国への希望を持って母を送り出してくださいました。本当に幸せな祝福された葬儀になりました。もしも主にある方々が来てくださらなかったら、と思うと、本人が行くところは一緒だったかもしれませんが、なんか寂しく物足りない葬儀になったのではないか、主の栄光がここまで表されただろうか?と思ってしまいます。信仰の仲間たちは主からいただいているものを通して、私たち家族に仕えてくださったのだという感謝が残りました。

 そして、改めてこのルカ5:17-20の物語を思い出しました。中風の人を運んだ男たちのように、信仰の仲間である皆さんが母や私たち家族に仕えてくださったのです。もちろん、その背後にオープン・ドアの皆さんの祈りがあり、励ましがあったことを忘れてはいません。オープン・ドアの仲間も祈りを通して私たちのために仕えてくださいました。

 葬儀に参列してくださったひとりの方から次のようなメールが送られてきましたので、それを紹介させてください。葬儀の最後に棺の中に皆さんでお花を入れてくださったのですが、そのときのことを書いてくださいました。「こちらこそ、葬儀に参列させていただき、ありがとうございました。お母さんのお顔がきれいで、優しくて、神様が地上での最後の最後まで共にいて守っておられたことを、はっきりと知りました。」と書かれていました。すごく慰められました。

■まとめ

 今日中風の人を運んだ男たち、そして、私の母の葬儀に出てくださったクリスチャンの方たちのことについてお分かちしましたが、この二つのことに共通するものがあります。それは、神さまが主を信じる者たちを用いて、主のご栄光を表してくださったということです。彼らは単に集められたというのではなくて、それ以上のことをするために集められました。内に与えられている「宝」で主と人々に仕えるためです。主が与えられた「光」によって仕えるためです。だからこそ栄光が現わされたのです。そしてそれは私たちから出たものではありません。

 Ⅱコリント4章を読み進めて行きますと、13節に、「信仰の霊」ということばが出て来ます。また、5章には、救いの保証として、私たちには聖霊が与えられていると書かれています。今日Ⅱコリント4;5-7に書かれていた「この宝」「イエス・キリストの御顔に輝く栄光を悟る光」は「信仰の霊」であり、「私たちの内に与えられている聖霊」です。

 教会の中で主と人々に仕えるとき、もちろんある程度の努力は要ります。人を不快にさせない気配りや思いやりが必要です。でも、本質的には肉から出た、自分自身から出たものではなく、主が与えてくださった「この宝」によって仕えることが大切になって来ると思わされます。主は個人個人の人柄や人格を通して主ご自身を現わそうと願っておられます。内に与えられた「この宝」を意識して受け止めると共に、「この宝」に導かれ、「この宝」によって変えられ、「この宝」を自分を通して輝かせていただくことを求めて行くことが大切です。「この宝」によって主と人々に仕えましょう。主の栄光を表していただきましょう。