ユダヤ人とクリスチャン

2022年2月13日主日礼拝「ユダヤ人とクリスチャン」エペソ2:11~18佐々木俊一牧師

■11節~13節 「ですから、思い出してください。」とあります。ここでパウロはエペソの教会の人々に思い出してほしいことがあったのです。新共同訳では、「だから、心に留めておきなさい。」と訳されています。心に留めておくほどに、それは、とても大切なことであったのです。私たちにとって、とても大切なことは、何度も思い起こしては確認し、自覚しなければなりません。横道にそれず、目標に向かって真っすぐに行くためです。

ここでパウロが言いたい大切なこととは何でしょうか。それは、まず、あなたがたは以前肉においては異邦人であったということです。イスラエル人、あるいは、ユダヤ人とは、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫です。しかし、異邦人との大きな違いは、男性が割礼を受けているかどうか、と言うことです。このことは、ユダヤ人にとって大きな問題であり、それは、彼らのアイデンティティを保ち、かつ誇りでもあったのです。割礼こそが神の民であるイスラエル人としてのしるしであり、神様との間にある祝福の契約を証明するものでした。ですから、もしも割礼がなければ、それは、彼らからしてみると、神様からの祝福を受けられない無価値な人々、それが異邦人であったのです。この世にあって希望もなく、神様のことなど思うこともなく生きている人々が異邦人であり、彼らは、神様の約束と救いから遠く離れた人々でした。

 しかし、そんな異邦人にも、キリストにおいて、神様の祝福の約束を受ける道が開かれました。以前は神様から遠く離れていた異邦人、神様の祝福の約束から遠く離れていた異邦人、この世にあって望みのない、ただ死をもって終わる異邦人、そんな異邦人が、キリスト・イエスの血によって、神の民となり、神様の約束に近い者とされ、祝福の約束を受けることのできる者とされました。パウロが言うように、私たちが心に留めなければならない大切なことの一つは、キリスト・イエスの血によって、神様の約束から遠くにいた者が、イスラエル人と同様に、キリスト・イエスにおいて神の契約の民とされたことです。ただし、その契約のしるしは、人の手による肉体の割礼ではなくて、聖霊による心の割礼なのです。

■14節~15節 ユダヤ人は神様から律法を授かっており、また、それが彼らの誇りでした。それゆえに、律法を持たない異邦人を見下していました。ユダヤ人の中でも宗教指導者たちは、特にそうでした。しかし、異邦人の方としては、そんなユダヤ人に対し嫌悪感を持っていました。律法の戒律に従っていたユダヤ人たちは、一見、異邦人よりも道徳的に正しい生活をしていましたし、衛生面においても高い意識を持っていました。それらの違いは、ユダヤ人と異邦人との間に、互いに相入れない壁を築いていたのです。

 そんな中、パリサイ人や律法学者の中にもクリスチャンになった人々がいました。彼らの中には、彼らの律法や慣習を異邦人クリスチャンに押し付けようとする者がいました。そして、異邦人のクリスチャンや教会が、それを良いこととして受け入れてしまう場合があったのです。しかし、それは神様の御心ではありません。パウロの手紙からもそのことが伺えますし、そういった動きに対してパウロは厳しく警告しているのです。

 キリスト・イエスはユダヤ人と異邦人の間の壁を打ち壊しました。ユダヤ人には彼らだけが神に選ばれた民、特別な民という自負がありましたが、しかし、それは、キリストによって取り除かれました。キリストは、敵意、つまり、規則と戒律ずくめの律法をご自身の肉体の死によって廃棄しました。つまり、キリスト・イエスが罪そのものとなって処罰されることのより、すべての罪の償いが完了されてしまったのです。ですから、もはや、律法を守り通すことによって神に選ばれた民、祝福の約束を受ける民としての立場を守り通す必要が無くなってしまったわけです。と言うか、そのようなことは最初から不可能であるとわかっていたことなのです。律法の与えられた理由は、人が罪人であることを示すためであり、そのことを認めた上で恵みによって救いへと導びかれるためでした。律法を完全に守ることなど、実際のところ、ユダヤ人にとっても異邦人にとってもできることではないのです。ユダヤ人は、彼らの授かった律法を守ることによって神の約束を受ける道は断たれてしまったのです。しかし、だからと言って、旧約聖書にあるユダヤ人への神の約束が取り去られたわけではありません。その約束はユダヤ人への賜物と召命のゆえに必ず成し遂げられるのです。

 今から約2500年前にユダヤ人たちはバビロン捕囚からパレスチナの地へ帰還し、神殿とエルサレムの再建を果たしました。しかし、いつも帝国の支配下に置かれほとんど独立国家でいることはありませんでした。AD70年にはローマの属国としてのイスラエルも消滅し、ユダヤ人は世界中に散らされました。この時、彼らは祖国を失ってしまったのです。しかしながら、旧約の預言にあるように、離散したユダヤ人が世界中からパレスチナへと集められ、イスラエル国家が再び建国されました。その事が成就したのは1948年の事です。それ以来、ユダヤ人のイスラエルへの帰還は今現在も続いているのです。

 イスラエルについて成就していない預言がまだまだあります。それらは将来成就することでしょう。なぜならば、ローマ11:29でパウロがこのように言っているからです。「神の賜物と召命とは変わることがありません。」パウロがイスラエルについて言っていることです。イスラエルに語られた神の約束は神の賜物(恵み)と召命のゆえに、必ず成就することなのです。ですから、アブラハムの系図にあり、また、ダビデの系図にもある、救い主イエス・キリストがこの地上に戻って来て世界を治めるときには、イスラエルという国には、キリストにおいて一つになったユダヤ人と異邦人とが同じ国民となり、同じ神の家族となり、そこには平和なるキリストが治める世界が訪れるのです。

■16節~18節 キリストにおいて平和がもたらされたのは、ユダヤ人と異邦人との間の事だけではありません。神様と人間との間にも平和がもたらされたのです。ユダヤ人も異邦人もキリストの十字架によって神との間に和解が成立し、平和の関係がもたらされました。キリストの十字架の血潮によって一つにされたユダヤ人と異邦人は、神様との間にあった律法という敵意が取り除かれ、平和な関係となったのです。神の約束の内側を歩んでいたユダヤ人も神の約束の外側を歩んでいた異邦人も、キリストによって聖霊を受けた者たちは、神様に近づき、神様と交わることができるようにされたのです。

■以前、イスラエルへ帰還するために各国のユダヤ人を支援しているクリスチャン団体の集会に行ったことがあります。「どうして、イスラエルのために祈らなければならないのか」というテーマで講師はお話しをしてくれました。イスラエルのために祈る理由としてよく取り上げられる聖書箇所が創世記12章です。そのところはアブラハムに向けて語られているところですが、アブラハムをイスラエルと解釈して、イスラエルを祝福する者を神様は祝福される、と言っているわけです。

 イスラエルの民も霊的イスラエルであるクリスチャンも、ともに神の民です。イスラエルの民は終わりの時に民族として救われる、と言うことが、ローマ11:26~29に書かれています。しかし、現実は、キリスト教国におけるユダヤ人迫害によって、ユダヤ人はイエス・キリストもクリスチャンもサタンの仲間だと思っている、と言うのです。ですから、この二者間の平和のために祈ってほしい、と言っていたのを覚えています。長い歴史の中でユダヤ人がクリスチャンに迫害されるようになった理由は、イエス・キリストを十字架にかけたのはユダヤ人だ、ということになっているからです。しかし、実のところ、これもまた神様の御心であった、と言えるのです。

 ローマ11:11を見てみましょう。見ると、彼ら、ユダヤ人の違反によって救いが異邦人に及んだ、と書かれています。違反とは、ユダヤ人がキリスト・イエスを拒絶したことです。ユダヤ人宗教的指導者たちは、イエスはメシヤ(救い主)ではないと断言しました。それによってユダヤ人の多くがイエス・キリストを拒絶し、そして、十字架にかけて殺しました。しかし、それは、救いが異邦人に及ぶために神様が許された方法であった、とパウロは言うのです。ここに、神様の測り知れない知恵があります。そして、異邦人の救いが完成と見なされたその時には、ついにイスラエルの救いへと事は進んで行くのです。

 ゼカリヤ12:10に、「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見」とあるように、ユダヤ人が、彼らが突き刺したイエス・キリストがメシヤであることが明らかになる時が来ることを示している箇所です。また、黙示録1:7にも、「見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべての目、事に彼を突き刺した者たちが彼を見る。」とあります。彼とは、救い主イエス・キリストのことです。このように、イスラエルの民がイエスをメシヤとして迎える時が必ず来るのです。

■パウロは、異邦人への使徒として神によって立てられた器です。また、パウロ以外にも、今から2000年前に多くのユダヤ人が異邦人に福音を宣べ伝えました。このように、異邦人は多くのものをユダヤ人から受けているのです。ユダヤ人とクリスチャンは同じキリストのからだに属するものとして召されています。将来、必ずそうなります。今日の説教聖書箇所にもそう書かれてありました。ですから、ユダヤ人の救いのために祈りましょう。クリスチャンとユダヤ人の間にある敵意が取り除かれるように、その平和のために、祈りましょう。ユダヤ人と異邦人はキリストにおいて一つになり、同じ国民、神の家族となるのです。エペソ3:3に書かれていますが、この事は、神様がパウロに啓示として示してくださった奥義なのです。パウロが心に留めておくべきこととして語ったことは、この奥義についてです。私たちはこの奥義を心に留めておきたいと思います。それではお祈りします。