イエス様からのエール

2022年2月6日主日礼拝 「イエス様からのエール」マルコ8:34~38佐々木俊一

■2020年1月、中国湖北省武漢市において新型コロナウィルスの感染拡大が報じられました。それ以降、新型コロナウィルスは世界中に拡大し、パンデミックと化してしまいました。世界は、コロナ禍にあってますます混沌とした状態へと加速しています。中国共産党による人権侵害、ジェノサイド問題、台湾攻撃の可能性、ミャンマー軍のクーデターによる民主主義の破壊、北朝鮮の弾道ミサイルによる挑発行為、ウクライナをめぐってロシア軍とアメリカ、及び、NATO軍の一触即発の危機的状況、民主主義国家の衰退と専制・独裁政治の台頭等々、世界は今、1990年以来の時代の変わり目にあるように思います。それに加えて、世界的な気候変動と自然災害の規模の大きさと頻度の多さに、不気味な足音さえ感じます。

 アフガニスタンにおいては、イスラム過激派組織であるタリバンが昨年8月に政権を掌握しました。アメリカを初め、多くの民主国家の援助を受けて民主国家建設を目指して活動してきた多くのアフガニスタン人が、タリバンによる制裁を回避するために国外へと脱出しました。しかし、取り残されて、いまだにアフガニスタンから脱出できないでいる多くの人々がいます。その中には、すでにタリバンの犠牲となってしまった人々がいるのです。 

 アメリカ軍がアフガニスタンを撤退する直前に、アメリカの民間組織が献金を募って、およそ1200人のアフガニスタン人クリスチャンを民間航空機で国外へと脱出させた、と言うニュースを聞きました。彼らは、タリバンが勢力を盛り返す以前に、アメリカ人を中心とするキリスト教団体の宣教活動によって救われた人々です。アフガニスタンはイスラム教国ですから、宣教することには難しさがあります。しかし、その中で、イエス・キリストを救い主として信じた人々がいました。これら1200人のアフガニスタン人クリスチャンは、その働きによって結んだ実です。アフガニスタン国内には他にも多くのクリスチャンがいるのではないかと思われます。タリバン政権下では、キリスト教に改宗したアフガニスタン人は処刑の対象になることは間違いありません。

■このように、イエス様を信じて、従って生きていこうとするとき、それまで自分が大事にしてきたものを捨てなければならない場合があります。たとえば、わかりやすく説明するために極端な例になるかもしれませんが、アフガニスタンのように、クリスチャンにとってきびしい状況にある国々においては、クリスチャンであることによって、国を捨てなければならなかったり、社会的地位を失ったり、財産を失ったり、家族との関係を失ったり、時には身の安全を失い、命が危険にさらされたりすることさえあるのです。それでもクリスチャンであり続けようとするのは、厳しい現実の中にあっても、神の御国と永遠のいのちが何にもまさる彼らの希望となっているからでしょう。

■今日は、マルコ8:34~38のみことばをとおして、福音の祝福と信仰への後押しをするイエス様からのエールというタイトルでお話したいと思います。

 まず、34節から36節を見てみましょう。「それから、イエスは群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得たとしても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。』」

私はこの箇所から、福音の祝福についてお話ししますと言いましたが、皆さんは、この箇所の中にその祝福を見つけたでしょうか。あるいは、この箇所を読んでどのような印象を持たれるでしょうか。イエス・キリストについてゆくためには、一大決心をしなければならない、自分をきびしく戒めて、不自由な生き方をしなければならない、そんな印象を持たれたでしょうか。そう受け取られても仕方がないかもしれません。けれども、他の聖書箇所に、「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31)と書いてあるように、イエス様は私たちに、不自由な生き方ではなくて、もっと自由に生きられるようにと、これらの教えを語っているはずです。

イエス様は、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せました。群衆とは多かれ少なかれ、イエス様に関心のある人々です。しかしながら、彼らはまだはっきりとイエス様についていくかどうかを決心していません。そんな人々に対して、イエス様は今日のみことばを語っています。

■随分昔の事ですが、私が会社勤めをしていたときに、よくこのようなことを耳にしました。「クリスチャンになったら、酒もタバコもだめだから、なりたくてもなれない」、「教会っていうところは敷居が高い、自分みたいな人間が行くところじゃない」、「酒もタバコもだめなら、生きててもおもしろくない」、「教会に行ったら寄付しないとだめなんでしょ」、「日曜日に教会に行ってたら好きなことができない」、「家は先祖代々仏教で、長男なので仏壇や墓の世話をしないといけない」、等々。

 酒とタバコについて、私が思うことは、もしも、酒やタバコのことで教会に来ることをためらっているとしたら、それは大変残念なことだと思います。仏壇のことや墓のことについても同じです。まずは、教会に来ること、聖書を読んでみることです。そして、イエス様のことを知ってもらいたいと思います。

■イエス様を信じることやイエス様の教えを受け入れることを公言することは、当時のユダヤ人社会から追放されることを意味していました。それによって人は、家族との関係を失ったり、社会的地位を失ったり、何かを失うという恐れがあったのです。そのことをほのめかす箇所が聖書にはいくつかあります。たとえば、ヨハネ12:42~43に書かれてあるような事柄です。指導者たちの中にもイエス様を信じる者たちがいました。しかし、会堂から追放されることを恐れて告白しませんでした。ですから、34節の「自分を捨て」とは、ユダヤ人社会から追放される覚悟ができているかどうかを問うことばであったと、私は思います。自我を捨てるとか、禁欲的な事柄を意味するのではありません。自分のしたいこと、たとえば、酒を飲むことやタバコを吸うことを捨てることではないのです。もちろん、酒やタバコはやらない方が健康的であるとは思いますし、やっても、過度にならないように自己管理が必要だと思います。

 そして、「自分を捨て」の次には、「自分の十字架を負い」とあります。「自分の十字架を負い」と聞くと、私は、創世記22:6の出来事を思い起こします。イエス様ご自身のことやイエス様のことばは、旧約の出来事や人物に象徴されていることがよくあります。創世記22:6には、アブラハムがイサクにいけにえを焼くためのた木々を背負わせたことが書かれています。このとき、神様は、アブラハムにイサクを捧げるように求めていました。しかし、神様は本気でそのようなことを求めたのでしょうか。そうではありません。霊的な真理を表すために行なわせたことです。結局のところ、イサクはいけにえとされることはありませんでした。神様がいけにえとなるべき雄羊を備えてくださったからです。 

 私たちはイサクのように自分の罪を焼き尽くすための十字架を背負ってイエス様についてゆきますが、私たち自身は十字架にかからなくてよいのです。イサクのために雄羊が備えられたように、私たちのためにイエス様が罪のいけにえとして備えられたからです。ここで言う十字架とは私たちにとってどのようなものでしょうか。イエス様の跡について行くとき、楽しい事ばかりではありません。苦しいこともあるのです。もしかすると、人によっては楽しい事よりも苦しいことの方が多いかもしれません。イエス・キリストを信じて、イエス・キリストについて行くとは、時として苦しみをも伴うことであるのです。

■次に、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです」とあります。「それ」のところに、何が入るでしょうか。「いのち」です。「いのちを救おうとする者はいのちを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はいのちを救うのです。」となります。この中で、「いのち」の意味は二つあるのではないでしょうか。一つはこの地上のいのちです。もう一つは神の御国でのいのち、永遠のいのちです。「この地上のいのちを救おうと思う者は神の御国でのいのちを失い、わたしと福音のためにこの地上のいのちを失う者は神の御国でのいのちを救うのです」とすればよいでしょうか。

 当時の宗教家の多くのように、イエス様と福音を公の場で否定し拒絶するならば、まことのいのちを失うことになるかもしれません。しかし、宗教家の中には、イエス様と福音を大きな声を出さずとも徐々に信じるようになった人々もいました。たとえば、パリサイ人のニコデモです。彼は十字架に架けられたイエス様のからだをアリマタヤのヨセフと共に引き取って墓に葬りました。二人はイエス様への信仰を隠していたと書かれてありますが、しかし、二人がイエス様のからだを丁重に葬ることによって、彼らの信仰はユダヤ人たちの間では公然のこととなりました。彼らは彼らの信仰を行動で表したのです。イエス様と福音を恥とせず、その信仰を表す者は、この地上で失うものがあったとしても、確実に真のいのちを得るのです。このとき、私たちが負う十字架とは、もしかすると、この地上で失うものや失うこと、ある人々にとってはそれが財産であったり、社会的地位であったり、家族との関係であったり、この地上では価値のあるものとされているものであるかもしれません。それらのものを失うことは非常に辛いことであるかもしれませんが、もっと大切なものを私たちは得るのです。それは、真のいのちであり、朽ちることのないいのちであり、永遠のいのちです。たとい、全世界が自分のものになったとしても、この真のいのちを自分のものにしなかったら何の得にもならないと、イエス様は言っています。

■37節~38節 マルコ8:31~33を見ると、今日のところをイエス様が語るちょっと前に、イエス様は長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないことを、弟子たちにはっきりと教えたとあります。その時弟子たちはそのことをほとんど理解していなかったのではないかと思われます。しかし、彼らの心の内にそのことがとどめられていたのでしょう。瀕死のイエス様が十字架を背負ってゴルゴタの丘へ向かって行くのを見たときには、果たしてそれでもイエス様についてこうという気持ちになれたでしょうか。次はわが身に同じことが起こるのではないだろうか、と恐怖に怯えたのではないでしょうか。そして、イエス様が十字架につけられるのを見たときには、多くの群衆と弟子たちの気持ちはイエス様から離れて行ったのではないでしょうか。イスラエルを救ってくれる力強い救い主を期待していた人々は、弱々しいイエス様に落胆し、弱々しいイエス様を恥じたのではないでしょうか。しかしながら、イエス様は、ご自身が言われたとおりに、三日後によみがえられました。そして、イエス様は弟子たちの前に現れたのです。真の神と真の救い主を否定する世の中にあって、多数派を恐れて、真の救い主とそのことばを恥ずかしいと思うなら、この地上にそのお方が戻って来られたときには、そのような人を恥ずかしいと思うと言われました。私たちは、わざわざ、必要もない時に自分がクリスチャンであることを公表する必要はありませんが、しかし、どうしてもその必要がある時には、私たちはイエス・キリストの福音とイエス・キリストご自身を堂々と告白する者でありたいと思います。弱い私たちは、そのためにもお祈りをしていく必要があると思います。

 信仰的にもう一歩前に踏み出すために、イエス様からのエールが今日の箇所にはあると思います。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」これは、群衆だけに語られたことばではありません。弟子たちにも語られたことばです。私たちはこのことばを、イエス様からのエールと受け取りますか、それとも、脅しと受け取りますか。もちろん、これは、私たちにとってもイエス様からの励ましであり、応援のことばです。イエス様のことばに応えていきましょう。それではお祈りします。