神のことばに生きる

2022年1月2日主日礼拝「神のことばに生きる」<詩編19:7,8>佐々木俊一牧師

■以前、「聞く力」とか「伝える力」など、人間同士のコミュニケーションをはかるための本がよく売れていたことがありました。最近では、岸田首相がリーダーシップに必要なこととして「聞く力」を強調していたかと思います。聞くことも伝えることも、言葉に関わることです。人と人とが共に生きるために、言葉はなくてはならないものです。家庭でも教会でも職場でも学校でも、人の集まるところでは必ず言葉が必要です。そして、言葉は互いに影響を及ぼし合うものです。ある時は、言葉は良い関係を作りますが、ある時は、悪い関係を作ります。言葉は、一方では人を感動させたり、喜ばせたり、楽しませたり、励ましたりしますが、他方では怒らせたり、悩ませたり、悲しませたり、落胆させたりします。このように、言葉が働くと力があり、影響力があるのです。

  私は教会で一人で仕事をすることが多いのですが、一人でいると相手がいないので言葉を発する機会があまりありません。言葉を使わないでいると、だんだん言葉を忘れてしまい、以前使っていた言葉がなかなか出て来なくなります。ですから、私は神様とお話をすることにしています。「神様、私はこのように考えますが、あなたはどのように考えますか。」と話しかけるのです。ほとんどの場合、応答がありません。独り言で終わってしまいます。けれども、時々、これは神様からの応答に違いないと思われるようなアイデアが心の中に与えられたりすることがありますし、または、聖書のことばが浮かんで来たりする時に、そのことが私の感情にふれて何かしら喜びが湧いて来たり、慰められたりすることがあります。そんな神様のことばの力について、今日は、詩篇19:7、8から見てみたいと思います。そして、神様のことばが私たちにとってどんなに頼りになるものなのかについて、もっと気づくことができたらと思います。

■7節 「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。」

  「主のみおしえ」とは、ここでは律法のことですが、神のことばと言ってよいでしょう。私たちにとって神のことばとは、旧約聖書と新約聖書のことばです。その聖書のことばは、完全であると言っています。聖書の中身について誤りや矛盾点を指摘する人々がいます。言われてみれば、確かに、そのような箇所があります。しかし、聖書全体を見るならば、それは取るに足らないことです。それ以上に、1600年もの長い時をかけて、また、40人以上もの著者によって書かれた聖書が、一つのテーマ、救い主なるキリストの来臨とその救いのわざについて書かれているということが、本当にすごいことだと思います。時間と空間を超えて、直接、接触するはずのない人々が、神様の導きによって共通のテーマについて書き続けてきたのです。

  私は、牧師という立場にありますので、その役割を果たすためには聖書を否定的にとらえていてはならないと考えています。聖書は、聖書に書かれてあるように、神の霊感によって書かれた、誤りなき神のことばとして受け取っています。人々の信仰を建て上げるために、神のことばを語ることが必要です。人々を神様にしっかりとつなぎたいならば、神のことばを語る牧師が聖書のことばに不信感をいだきつつ語ることはできません。もしもそんなことをするならば、神のことばは力を発揮することはできませんし、十分な働きをなすことはできないのです。神のことばは、私たちの信仰とともに働くからです。

  それでは、7節では、神のことばをどのように言っているのでしょうか。

①  神のことばは、私たちを生き返らせる!

  このことには、この地上のことと、神の御国のことの二つのことがあると思います。私たちがこの地上に生きている間、神のことばは、私たちを守り、祝福してくれます。私たちの体も心も霊もすべてが健康に、そして、健全に保たれることが神様の願いです。人は誰でも病にかかり、年をとって体は弱くなります。けれども、そのような中にあっても、神様の助けがあり、守りがあり、いやしがあります。また、人は誰でも恐れたり、心配したり、不安になったり、腹がたったり、怒ったり、憎しみや妬みが湧いて来たり、心が弱り果てたりすることがあります。けれども、そのような中にあっても、神様は私たちから離れず、共にいて私たちを守り、導いてくれます。体が弱るときも心が弱るときも、神のことばは私たちにとって力になります。神のことばは言います。「クリスチャンは倒れそうで倒れない。死にそうで死なない。大丈夫だよ。」と。聖書には、このようなことを意味することばや話がたくさんあります。探してください。見つかります。神様のことばには、私たちの体も心も元気にしてくれる力があるのです。

  次に、神の御国におけることというのは、永遠の命のことです。この肉体はいつか朽ち果てます。しかし、神のことばによるならば、救い主なるイエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストが十字架に死んで三日目によみがえられたように、終わりの日によみがえるのです。ですから、信じる者にとって、死は終わりでもなく絶望でもありません。新しい命の始まりであり、この永遠の命こそが、私たちの希望です。

②  神のことばは、信頼するに値する! 

  「主のあかし」も、神のことばと言ってよいでしょう。「確か」とは、信頼するに値する、信じるに値するということです。神のことばは、この世の何ものよりも信頼するに値します。この点について私は、信頼するに値するものに出会えて本当に幸運だったと思っています。若かった時よりも、年をとった今のほうがずっとそのように思えてなりません。

③  神のことばは、わきまえのない者を賢くする! 

  私は本当にそう思います。体験者だからそう言えるのです。私の若い頃は、実にわきまえのない者でした。けれども、真の神様に出会い、聖書を読み、神様のことばにふれてから、自分のことばかりではなく、他人のことも考えることができるようになりました。自分のことしか考えていなかった自己中心の人間が、両親や家族のありがたさがわかるようになりました。結婚して、家族ができて、良い夫にもなることもできました。非常識な人間が、よくもまあここまで常識をわきまえた人間になれたものだと我ながら感心します。Ⅱテモテ3:16にはこのように書かれています。「聖書は・・・教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」わきまえのなかった私は、確かに、聖書のことばによって矯正され、訓練されたのだと思います。

■8節「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」 

④神のことばは、人の心を喜ばせる!

  「戒め」も神のことばのことです。神のことばは正しいのです。そして、「喜び」は、イエス・キリストを信じる者の大きな特徴です。イエス・キリストを信じる者は、喜びの心の状態が習慣化するように導かれていると言ってよいと思います。Ⅰテサロニケ5:16~18に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」とあります。みなさんは、この箇所をどのようにとらえているでしょうか。ある人は言います。「いつも喜ぶなんて無理。すべてに感謝するなんて無理。もしも、愛する人が死んでしまったら、その時も喜ぶの?そのことも感謝するの?パウロの言うことは律法的だ。」私は、このような考え方は一方の極端な考えだと思います。

  もう一方の極端な例はこうです。自分がどれだけ喜び、祈り、感謝できるかを目標とし、その自己評価により自分のクリスチャン度を評価するのです。こうなると、喜ぶことも、祈ることも、感謝することも、それらは理想のクリスチャンになるためのノルマになり、もはや、恵みではなくて律法になっているのです。このようなタイプの人は、愛する人を失って悲しみのどん底にいる人を見たときに、こう言うでしょう。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。これは、神様の命令です。神様の命令に従いなさい。」と。しかし、悲しみのどん底にいる人にとって、このような言葉ほど過酷なものはありません。喜んでいいこととそうでないこと、感謝していいこととそうでないこと、これらのことをわきまえることができないならば、人はその人の人格を疑うことでしょう。

  この二つの極端に共通することは、律法的な考えに縛られているということです。悲しいことがあった時には、悲しんでよいのです。辛いことがあった時には、辛いと言ってよいのです。ただ、気をつけなければならないことは、そのような心の状態が習慣化されることです。ストレスの多い現代社会において、人々があまり楽しくない気持ちで過ごすことは珍しくありません。物事が思うようにうまくいかない時には、不平不満が始終口から出てしまいます。人との関わりの中で、怒ったり、恐れたり、不安になったり、苦々しい思いになったりすることはよくあることです。また、私たちは、すでに与えられている恵みの大きさと多さに気づかないことがあります。与えられていることがあまりにも当たり前になっているので、与えられていないことに心を奪われてしまって、そのために、喜べない、感謝できない心の状態になっているのです。喜べない理由がいかなるものであっても、このような否定的な感情が習慣化することは、神様のみこころではありません。私たちは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」という神のことばによって気づかされる必要があります。そして、気づかされる時に、喜ぶことを選び、祈ることを選び、感謝することを選んで、私たちの心の向きを変える必要があるのです。このみことばは、私たちが良い習慣を身につけることを目的としています。けっして、私たちを裁いたり、評価したりするための基準ではないのです。律法的にとらえることのないように気をつけたいと思います。   

■神のことばは、キリスト・イエスを信じる者たちに良い心の習慣を身につけさせて、すべての良い働きのために十分に整えられた者にすることができます。良い心の習慣を身につけることは、人にとっての幸いと大きな関わりがあるのです。 

  2022年は、一つ一つのことを神様にゆだねて、神のことばに生かされる年となるように祈りたいと思います。そして、今、私たちは、神のことばに生きることを決心して、2022年を進んで行きましょう。それでは、お祈りします。