形ではなく、真心から

2021年12月26日主日礼拝「形ではなく、真心から」ミカ6:6~8 佐々木俊一牧師

■イヴ礼拝のメッセージに続き、今日もまた、ミカ書から神様の御思いに触れて行きたいと思います。この前、ミカは、イザヤと同時代に生きた預言者であったことをお話しました。紀元前700年代に、北王国から南王国まで、広く神様と人とに仕えていた預言者でした。堕落の一途をたどるイスラエルの民に向かって悔い改めを促しましたが、人々はますます悪くなってゆきました。そして、紀元前722年には、北王国がアッシリアに滅ぼされ、多くの人々がアッシリアへと連れて行かれたのです。

 ミカは、ただ裁きと警告のメッセージだけを語ったのではありません。赦しと救いのメッセージも語りました。それらのメッセージは、ユダとイスラエルの人々に向けて語られていますが、しかし、それは、すべての民、全世界の人々に向けられたメッセージでもあるのです。このことが、人類すべてに向けられているメッセージであることは、旧約聖書全体をとおして見るときに、はっきりとわかることです。特に、イザヤ書をとおして、神の救いがイスラエルの民だけにあるのではなくて、全世界のすべての民のためにあることが明確に見ることができます。

■それでは、ミカ書6章を見て行きましょう。ミカ6:6には、「私は何をもって主の前に進みゆき、いと高き神の前にひれ伏そうか。」とあります。これは、神様の御前に出るには、私はどのようにしたらよいのか、と言っているのです。そして、「全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって、御前に進みゆくべきだろうか。」とあります。これは、神様がモーセに与えた律法に示された、神への捧げものの形です。全焼のいけにえとして、一歳の子牛を持って神様のみ前に出るならば、神様は私を受け入れてくれるだろう。もしそうでないのなら、いったいどうすればよいのだろうか、という気持ちがあるように思われますが、その言い方には何かしら高ぶりや憤りを感じるのです。

■それでは、ミカ書6章を見て行きましょう。ミカ6:6には、「私は何をもって主の前に進みゆき、いと高き神の前にひれ伏そうか。」とあります。これは、当時の民の声を代表しているのだと思います。言っていることは正しいのですが、それは口だけのようです。そして、「全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって、御前に進みゆくべきだろうか。」とあります。これは、神様がモーセに与えた律法に示された、神様への捧げものの形です。これも、言っていることはりっぱなのですが、どうやら形だけのようで、心が伴っていないようです。

    次にミカ6:7を見てみましょう。「主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。」とあります。一歳の子牛一頭で足りないのなら、数を多く増やせば、神様は喜んでくださり、自分の罪を赦し、受け入れてくれるだろうか、とだんだん大げさな発想へと展開していきます。

 そして、次に、こう言うのです。「私の犯した背きの罪のために、私の長子を捧げるべきだろうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子を捧げるべきだろうか。」神様への捧げものについての考え方がさらに過激なものに展開していきます。これは、当時の異教の習慣に影響を受けていたイスラエルの民が、実際に、長子や子どもをいけにえとしてささげていたことを表わしています。もちろん、神様は律法の中で、人をいけにえとしてささげる行為を禁じています。神様は形だけのささげものを喜ばれません。ましてや、異教の習慣に従って、子どもをいけにえとして捧げるなんてことは、もってのほかです。神様はそんな恐ろしい異常な要求をするようなお方ではありません。

■それでは、次に、ミカ6:8を見てみましょう。ここには、神様が人間に求めていることが書かれてあります。ここに書かれてあることこそが、私たちが神様に捧げるべきことなのです。3つのポイントでそのことについてお話をしていきたいと思います。

①公義を行う: 公義とは、正義、正しいことです。何が正しくて、何が正しくないのかは、良心があれば、クリスチャンでなくても常識としてだいたいはわかることです。ただ、時代によって、常識は変化します。昔正しくなかったことが今は正しいということがあります。でも、神様の見方は、変わることがありません。正しいことはいつの時代にあっても正しいのです。神様が私たちに求めておられることは、正しいことを行うことです。

②誠実を愛する。

 他の聖書では、憐れみを愛するとか、慈しみを愛する、となっている訳があります。神様が私たちに求めておられることは、愛するということです。愛するとは、親切にすること、同情すること、憐れむこと、赦すこと、与えること、助けることなど、相手の立場に立って考え、思いやり、行動することです。

③へりくだって、神と共に歩む。

 へりくだること、自分を低くすることは、人にとって難しいことです。私自身、そのように感じています。一時的にへりくだっても、いつのまにかまた高ぶる自分を見出します。自分が自分の力で生きているのではなく、創造者によって生かされているものであることを知る時、私は本当に低くされるような気がします。私たちが真にへりくだるために、いつも創造者を覚えることが大切です。へりくだって、神と共に歩む者になりたいと思います。

■神様が私たちに求めることを3つのポイントでお話しました。①広義を行なう。②誠実を愛する。③へりくだって、神と共に歩む。このように日々歩むことが出来るならば、何て素晴らしいのだろうと皆が思うのではないでしょうか。私たちは神様の求めに従いたいと思います。

そこで、注意しなければならない二つの誘惑についてお話をしたいと思います。一つは、これら三つの神様の求めを、私たち自身ではなくて、他の人に向けて求めることです。広義を行なうことも、誠実を愛することも、へりくだって、神と共に歩むことも、それらは自分に対して適用すべき神のことばであるべきです。他人に対して適用する時、他人を裁く結果になります。もちろん、人の行為があまりにもひどくて周囲への悪影響を考えると放って置けない時には意見することも必要です。しかし、基本的に、それは自分に対して適用すべきです。

もう一つは、これら3つの神様の求めに対してあまりにも厳しく自分に適用してしまうことです。神様の求めに対して完璧に応えられない自分が赦せないのです。しかし、私たちが神様の求めに完璧に応えることができないことは、神様ご自身が一番ご存知です。神様は私たちに完璧を求めてはいません。神様が私たちに求めておられることは、神様が言われることが正しいと認めることです。そして、正しいことを行いたいと願い、愛を示すことを願い、へりくだって、神と共に歩むことを願うのです。でも、そう願ったからと言って、いつもできるわけではありません。失敗することもあります。だからこそ、私たちには救い主なる主イエス・キリストが必要なのです。神様が求めておられるのはそのところです。私たちには、救い主主イエス・キリストが必要であるということに気づくことなのです。それが、神様が私たちに与えておられる公義なのです。

■いろいろなことについて言えることですが、できない自分を赦すことは、人として成長するために必要なステップです。現在、一般的なカウンセリングにおいても、自分も含めて「人を赦す」ことの効果について言われています。私が随分前から思っていることですが、クリスチャン世界で良いと思われていることの中で、特に、お金になることは一般社会が目を付けてそれを金儲けに利用します。私たちクリスチャンは、聖書から「人を赦す」ことを学びます。赦すことだけではなくて、赦されることの重要性も聖書から学んでいます。「赦されること」の恵みを多くの人々に知っていただきたいと思います、一般のカウンセリングはそこにはまだ注目していないように思います。「赦される」恵みを体験するには、私たちはへりくだる必要があります。なぜならば、自分が悪い、自分には罪がある、自分には非があることを認めるには、へりくだりが必要だからです。へりくだって、悔い改めることによって、赦されることを体験します。これこそ、へりくだって、神と共に歩むことの大きな恵みなのです。

■ミカ7:18~19にこう書かれています。「あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度、私をあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。」

 私たちのすべての罪を海の深みに投げ入れてくださったのが、救い主、主イエス・キリストです。このお方には、形ではなく、私たちの真心からの捧げものを、今年以上に、来年も捧げて行きたいと思います。それではお祈りします