見えない世界・見えない力(後篇)

2021年11月28日主日礼拝「見えない世界・見えない力(後篇)」エペソ2:1~3佐々木俊一牧師

■前回に引き続き、「見えない世界・見えない力」と言うタイトルで、その後半をお話したいと思います。この前は、まとめとして、教会は、目に見える世界と共に、目に見えない世界もそこにあるところです。だから、私たちは目に見えるところだけに従って生きているのではなくて、目に見えない神様の領域にも目を配りながら生きているのです、と言うことを言ったと思います。教会は、目には見えないけれども、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ、キリストが満ちておられるところである、とパウロは言っています。教会とはキリストが満ちておられるところであって、そこはキリストが愛と力をもって働いておられるところなのだとお話したと思います。

 今日は、エペソ2:1から見て行きたいと思っていますが、もしかしたら、聞いていてあまり気分の良いものではないかもしれません。けれども、聖書に書かれてあることなので、それらのことを避けないで、できる限り、どういうことなのかを一緒に見て行きたいと思います。1節から3節を読むと、この世には、目に見えないけれども、しかし、私たち人間に何か悪い影響や力を及ぼす霊的存在があることは否定できないことであると思われます。エペソ6章を見るならば、そのことがさらにはっきりと示されていて、それらに対する対処の仕方までパウロは教えているのです。

■1節 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」とあります。ここに、「罪過(パラプトーマ)」と「罪(ハマルティア)」とあります。原語によると別々のことばですが、意味としてはそれほどの違いはないようです。人によっては、自覚のある(故意)罪の行為と自覚のない(知らず知らずの)罪の行為という違い、または、心の中だけにとどまっている罪と心の中の罪が行為となって現れた罪という違い、そのように分けて解釈する人もいるようです。また、ここでは、罪過も罪も複数形ですが、罪(sin)が単数の場合は、アダムとエバが罪を犯して以来、生まれながらにして人が持つ罪の性質、いわゆる原罪のことを意味します。

 また、1節には、「死」ということばが出てきます。1節によると、私たちは、キリストを信じる前までは、罪過と罪との中に死んでいた者でした。私たちが「死」とは何かと考える時、一番最初に思い起こすことは、肉体の死です。私たちはこの世に生まれて、だんだんと成長していきますが、それを過ぎると、私たちの肉体は衰え、ついには死んでしまうのです。このように、死と言うと、私たちが1番に思うのは、肉体の死です。

 また、もう一つの死があります。それは、霊的な死です。聖書を読んで命とは何かと考えると、肉体の命と霊的な命があると言ってよいと思います。たとえば、ヨハネ3:6でイエス様がニコデモにこのように言っています。「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」肉によって生まれた者には命があります。その命は肉の命です。それに対して、御霊によって生まれた者にも命があります。その命は霊的な命です。そして、それは永遠の命です。同様に、肉体の死があり、霊的な死があると言ってよいと思います。創世記2:17には、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と書いてあります。この箇所は、みなさんがよく知っている箇所です。アダムが善悪の知識の木の実を食べた時、アダムは死んだでしょうか。すぐには死にませんでしたが、ずっとずっと後になってから死んでしまいました。それでも、アダムは930年生きたとあります。先ほど読んだところに、「あなたは必ず死ぬ。」とありました。ある英語のサイトを検索したところ、原文では、「死んで、あなたは死ぬ。」になっているようです。これは、死ぬということを強調しているのだと言うことです。また、その人の解釈によると、霊的な死があって、次に肉体の死があるということです。神様はアダムに、「善悪の知識の木からは取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と言いました。死とは、霊的な存在が神様から離れることであり、また、霊的な存在が肉体から離れることであるのです。アダムとエバが罪によって神様から離れた時、霊的な死がもたらされ、それは後になって、肉体の死をもたらすことになってしまったのです。人に罪が入って以来、完全に神様から離れてしまった人間は霊的に死んだ者となり、この世界に生まれてきても、その肉体はいつか死ぬものとなってしまいました。このように、私たち人間はこの世界に肉の命を受けて生まれて来たとしても、霊的に神様から離れた状態にあるならば、それは、罪過と罪との中に死んでいる者であるのです。

■2節「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」

 前回、今の世においても、次に来る世においても、キリストにまさる権威はなく、キリストがすべての権威の上にあることをお話しました。キリストが最高の権威なのです。しかしながら、2節を見ると、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊がいることを示しています。聖書によるならば、目には見えませんが、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊がいるのです。すべてを支配しておられる神様は、今のところ、このようなことを許しておられるようです。

 ルカ4:5~7を見てみましょう。このところは、イエス様が悪魔の試みに会われたところです。「また、悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。』」もちろん、そんな誘惑に対してイエス様は、「聖書にこう書いている。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』」と言って、まったくサタンの言うことを受け付けませんでした。このところで、この国々のいっさいの権力と栄光は自分に任されているのだ、とサタンは言っています。しかし、もとはと言えば、この世界は神様から人間に任されていたものでした。ところが、人間は悪魔に欺かれて罪を犯し、この世界を悪魔に奪い取られてしまったのです。それについては創世記2章と3章を見ればわかると思います。

 また、Ⅰヨハネ5:19で、「・・・全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」とヨハネは言っています。この悪い者とは前後の文脈から判断して、悪魔や悪霊たちのことであることがわかるかと思います。ヨハネは、福音書と3つの手紙と黙示録の中で、他の誰よりも目に見えない霊的な存在である悪魔や悪霊について多く語っています。たとえば、ヨハネ8:44では、悪魔は初めから人殺しであり、真理に立っていない、また、悪魔は偽り者であり、偽りの父である、と言っています。そんな悪魔が自分の企てをこの世界に表すために人間を用いているのです。それはすべて、神様への反抗と神様の良き計画を壊すためです。現在、世の流れは悪魔によってコントロールされていると言ってよいのではないでしょうか。神様は今はあえてそのことを許しておられます。

■最近、浄土宗の僧侶であり、ジャーナリストでもある鵜飼秀徳(うかいひでのり) さんという人が書いた記事を読みました。その記事の中で、欧米で「教会離れ」が進んでいる、ということについて書かれていました。そのようなことは随分前から私たちも聞いて知っていたかと思います。特に、ヨーロッパの国々においては、日曜日に教会に行かない人の方が圧倒的に多いのです。米国の調査機関によると、信じている宗教は何かと聞くと、「キリスト教」と答えた人は、2009年には77%だったのが、2019年には65%まで減少したということです。そして、定期的に教会に行っている人は、2009年では52%だったのが、2019年では47%でした。それに比べて、増えているのは無神論者で、2009年に17%だったのが、2019年には26%でした。特に20代から30代(ミレニアル世代/Z世代)のようなITにたけた人々の教会離れは顕著で、教会のつながりよりも、ネット上の無宗教コミュニティーを求める傾向があるそうです。たとえば、アップルやグーグルなどが提供する瞑想や禅などに関心を持つ人が増えて、中には仏教徒になる人もいるようです。

 世界の宗教構造は変化しています。将来、最も多くなるのはイスラム教徒であると言われています。それは、イスラム教徒の出生率が一番高く、イスラム教の家族に生まれた者はその多くがイスラム教徒になるからです。イスラム教国においては信仰の自由がないのが現状です。現在の世界の流れでは、キリスト教は衰退し、イスラム教は勢いを増しています。無神論者が増加し、物質主義的な価値観がますます広がっています。霊的な関心は多様性を増して、仏教やヒンズー教の瞑想などに入っていく人も増えています。特に、欧米に見るキリスト教離れの現象については、2節に書いてあるように、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊の影響を受けた結果ではないかと私は思います。

■3節「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子でした。」

 以前も今も、このような世の中の流れの中に生きている私たちですが、イエス・キリストを信じる前と信じた後では、同じ流れの中にあっても、私たちの心と生き方は異なります。私自身、イエス・キリストを信じ、私を造られた神様を信じ、神様に受け入れられ、愛されていることを信じ、神様に従って生きていきたい、生きて行こうと決めてから、私の心のあり方はだんだん変えられました。不安や恐れや憎しみや妬みや自己嫌悪や劣等感や高慢や自己中心に満ちた思い、そんな思いから、平安や感謝や喜びや勇気や満足や正しく自分を愛し、人を愛することやありのままの自分を受け入れる(自己受容)ことやへりくだることや他の人のことを思いやること、そんな思いに入れ替わってきているように思います。否定的な思いから肯定的な思いへ、破壊的な思いから創造的な思いへと変えられてきました。まだ、まだ、不完全で修復の余地は十分にあることは言うまでもありません。

 古い自分の欲の中に生き、古い肉と心の望むままを行ない続けて行くならば、私たちの内には平安はありません。空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊、悪魔や悪霊たちは、私たちにそのような生き方を再びさせようと一生懸命働きかけています。どのように働きかけているのでしょうか。私たちの思いに働きかけているのです。目には見えませんが、彼らは巧妙に誘惑してきます。

 終わりに、一つの聖書箇所をお読みしたいと思います。ヤコブ4:7、「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。」神様に従いましょう。そうしたら、思いに働きかける悪魔は逃げ去ります。神様の御心に従う時、私たちの心に平安が与えられます。神様の御心に従わない時には、私たちの心から平安が取り去られます。しかし、私たちは弱いものです。誘惑に乗ってしまうこともあるでしょう。その時、私たちは平安を失い、とても苦しみます。そのような時、どうすればよいのでしょうか。まず、私たちが知らなければならないことは、それでも、私は神様の子であり、神様は私の霊の父であると言うことです。神様はけっして私のことを見捨てはしません。ですから、このような時は、自分の罪を認めて、神様のみ前に言い表しましょう。そうしたら、平安が戻って来ます。それでは、お祈りします。