わたしは道であり、真理であり、いのちです。

2021年11月21日英語礼拝 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

ヨハネの福音書14章1〜6節

「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」

 

  皆さん、おはようございます。 今日もまた、オンラインでご参加の皆さん、そしてここオープンドアにおられる方々と共に、ヨハネの福音書からイエス様の「わたしは〜です」という御言葉を探求する機会が与えられたことを嬉しく思います。キリストは再び、ご自身を言い表すために「わたしはある」という神様の御名前を用いられ、再度抽象的な言葉をお使いになっています――今回は「道、真理、そしていのち」です。 これは先月私たちが学んだ、よみがえりでありいのちであるというイエス様のイメージに似ています。後にイエス様は、より具体的な象徴――「私はぶどうの木です。」に戻っておられます。

 

 

 ヨハネの福音書14章で、イエス様は弟子たちとの会話を続けておられますが、それはヨハネ13章で始まり17章まで続くものです。それは別れの談話とか 上の部屋(アパ・ルーム)の談話と呼ばれます。エルサレムの誰かの家の二階の部屋で過ぎ越しの祭日を祝いながら(ルカ22:7〜13)、イエス様が弟子たちに残す別れのメッセージです。その後でイエス様の逮捕、裁判、死などの出来事が起こるのです。

 

 イースターの物語、つまりエルサレム入場から死と復活に至るイエス様の生涯における一週間は、福音のメッセージ全体の重要な一部分です。マタイ、マルコ、ルカの福音書のおよそ4分の1から3分の1はこの週の出来事が占めています。ヨハネに至っては、その書の半分近くを占めています。ここではそのように極めて重要な時期に焦点が当てられているのです。

 

 ヨハネは主に会話を通してメッセージを伝えます。ヨハネ3章でのニコデモとのやりとりや、同じく4章では井戸端での女性との会話を覚えておられると思います。今日読む箇所は、もう一つの明確な例です。

 

 今日私たちの前にある有名なイエス様の御言葉「私は道であり、真理であり、いのちす。」は、とても幅広く多くの意味合いが詰め込まれているので、私たちを簡単にくじけさせることができます。 私がこれらの言葉を読み、十分には理解することができないと感じてしまう可能性が容易にあるのです。 そして、その同じ言葉がしばしばキリストが意図したものとは非常に異なる方向で理解されたり、用いられたりします。それらは誤解や誤用を招くものです。

 

 だとしても、イエス様は単にそれらの言葉を空から私たちに落としたのではありません。イエス様は明確な関わりの中で、特定の時と場所においてそれらを語られるのです。 そしてそれらに注意深く目を向けることは、私たちがイエス様のメッセージをより正確に受けとめる助けとなり得ます。私たちがより深く、より大きな愛を持ってキリストを知る助けとなることができるのです。 ですから、ヨハネ13章で今何が起こっていて、14章以降の中でイエス様が何を語り続けようとなさっているかの両方に注目してみましょう。 特に、ヨハネ14章の残りの部分は、イエス様が、道であり、真理であり、いのちであると語られることの意味をひも解くものです。 それでは、イエス様がそこで言わざるを得ないことについて見てみましょう。 このことは私たちが、道であり、真理であり、いのちであるイエス様をより完全に知ることを探求する道筋に光を当てるでしょう。

 

 14章は、付き従う者たちにイエス様が「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」(1節)と語られることで始まります。 ただし私たちは、聖書のその章と節はオリジナルの原本にはなく、あとで便宜的に追加されたことを覚えておく必要があります。 物語の各場面における出来事の間に何らかの然るべき中断があると仮定すると、それらをよく理解できなくなることがあります。 ここでは、例えるなら、イエス様は弟子たちに大きな爆弾をいくつか落としたところです。 イエス様は彼らのもとを去って、彼らが行くことのできないどこかに行くと言われたのです(13章33,36節)。 彼らのうちの一人がイエス様を裏切ろうとしている(13章21節)。 そして、彼らのリーダーと目されるペテロが、次の朝が来る前にイエス様を三度否定する(13章38節)というのです。 ですから彼らの心は、そのような悲報を聞いて間違いなく乱れています。

 

 ここで私たちは、イエス様の言葉が私たちの生活とどのように結びついているのかを知る機会を得ます。福音の核心は、世界中のすべての人々が、道で、真理で、いのちであるキリストを知る必要があるということです。 しかしキリストは、心を乱している人々に対し、個別の感覚で語っておられます。 私たちは自分にとってとても大事な人を失う経験をして、イエス様が今までどおり自分たちと一緒にいられなくなることを考え、恐れや孤独を覚える弟子たちと同じ気持ちになったことがあるかもしれません。 ユダ以外のイエス様に最初に従った者たちのように、信頼できる友人、あるいは信仰における兄弟姉妹として信頼できると思っていた人に裏切られる経験をするかもしれません。 もしくは私たちが、そのつもりはなくても誰かを裏切ってしまうことがあったかもしれません。ペテロのように、私たちが自分の信仰の強さを過大評価し、反対や誘惑に直面するとき、どれほどたやすく屈服し、そこから背を向けてしまうのかを知ってショックを受けることになるかもしれません。 これらのことが私たちの持つ感情や経験であるとき、イエス様が私たちにもまた、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と語りかけておられることに気づけるのです。

 

 実を言うと、ヨハネ13章21節によれば、イエス様が弟子たちに彼らの中の一人が自分を裏切るだろうとお話しになったとき、イエス様ご自身心に苦悩を抱えておられました。原本のこの部分には、14章1節で使われている(“troubled”「騒がせる」)と同じ言葉(tarasso)が使われています。そしてマルコ14章33〜34節によれば、この直後、イエス様は「深く苦しみ、悩み」さらに「悲しみに圧倒される……」ことになります。 ゲツセマネの園におられる時のことです。 私たちは、イエス様が人間としてどう生きるかの完璧なお手本であることを思い起こしながら、これらの言葉を読みます。 イエス様は決して罪を犯されませんでした。 ですから私は、そこには一種の神聖な「苦悩」があり、ヨハネ14章1節でイエス様が語っておられるのは、別の神聖ではない種類についてのものとして結論づけることしかできません。

 

 イエス様は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」と言うことで、単に私たちの気持ちを楽にしようとしておられるのではありません。 またキリストは、私たちの周りの悪い物事から目を逸らし、バラ色の眼鏡を通して世の中を見ることに基づく平安へと私たちを導いておられるのではありません。 同様に、イエス様は、苦悩する心からの自由の源がどこにあるかを明らかにされます。 それは私たちの内から来るものではありません。 もしも私たちが、心や精神に平安を与えるために自らの善性と内なる力に頼ったとしたら、私たちは常に心を騒がせていたことでしょう。 内側を見ているだけでは、平安を見つけることはできません。

 

 イエス様は、心の平安は信仰をとおしてもたらされると言われます(14章1節b):「神を信じ、またわたしを信じなさい」と。 皆さんの信仰は、皆さんの人生にどのように影響を及ぼしていますか?  ここでのイエス様の御言葉は、私たちに一つの道筋を示しています。 皆さんの信仰が真実であり、キリストが望まれる効果を持つものであるしるしは、たとえ悪いことが起こっている間であっても、平安の中に生きることを皆さんが学んでいることです。

 

 ここで主は従う者たちの注意を天国に向けます。 主はご自分が彼らのもとを去るつもりであるとお話しになると、今度はご自分の計画について更に説明をなさいます。 主はご自身についてだけお話しになっているのではありません。 主がいることになる場所は深い平安の源であり、彼らもまた受けることのできる場所です。 「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(2節)。  ユダヤの民はすでに、約束の地に入るために神様が彼らに先立って行かれるのを見ました(民数記10章33節)。また、婚約期間中の男性は花嫁に先立ち、結婚式の後で彼らが移り住むための家を準備するのが常でした。 イエス様がこのような言葉を話される際には、そのような事柄を念頭に置いておられるのかもしれません。 宇宙全体を創造した神様が、どういうわけかまだ天国ではすべての準備に取り掛かっていないなどというわけではありません。ではなく、これは神様のご計画の一部なのです。 イエス様はおそらく、十字架にかかり、私たちの罪の代価を支払い、私たちが天国に行くことを可能にすることにより、御自身に従う者たちのための永遠の住まいを準備することについて話されているのでしょう。 それなしには、私たちは天国にたどり着けません。それこそが福音に対して私たちが必要とするものです。 私たちが天国で私たちを待っている住まいを持つとき、そのことは私たちがこの世の視点で抱えている問題の見方を含んだすべてを変えるのです。

 

 イエス様は続けられます(3節)。 「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになります。」 これは天国のこと――神様と共に在るということです。キリストは、私たちの強欲や渇望や欲求のすべてが永遠に満たされる場所としての天国を私たちに約束しておられるのではありません。そこは、私たちの父であり、救い主であり、主である神様と共にいることを楽しむ場所です。また、私たちは今ここで、神様と共に在って、天の御国に生きることができます。 それこそが、イエス様がご自分の友人たちにしてもらいたいこと、とりわけ彼らがイエス様の死と天国への帰還という辛い試練を通るにあたって望んでおられることです。イエス様は皆さんや私にも、そのように望んでおられます。

 

 ところでキリストは、何か弟子たちから反応を誘うようなことを言っておられます。「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っています」(4節)。 イエス様はおそらくこう言いながらペテロを見ておられます。

 

 何故ならそれは、ヨハネ13章36節に戻って、イエス様が去って行こうとしておられることを聞いたペテロが「主よ、どこへ行かれるのですか。」と尋ねたからです。

 

 イエス様は、「わたしが行く所に、あなたは今ついて来ることはできません。しかし後にはついて来ます。」とお答えになります。

 

それはペテロにとってあまり満足のいく答えではないので、彼はこう返します。「主よ、なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。 あなたのためならいのちも捨てます。」 それは、ペテロが間もなくイエス様を知っていることさえも三度否定するという厳しくて悲しい真実を、主が彼に告げるときのことです。

 

さて、少し後の14章5節では、イエス様が弟子たちのついて来られない場所に行かれ、その上どういうわけか彼らはそこへ至る道を知っているのだと言われた際、イエス様の真意を理解することに苦心しているのはペテロひとりだけではないことに気づきます。トマスもまた困惑し、このように言います。「主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。 どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

 

 これは、キリストが「私は道であり、真理であり、いのちです。」という、最もよく知られている言葉のひとつを語られる場面です(6節)。今日の残りの時間をこれらの一言一句を確認することに費やしたいと思います。イエス様をあまり理解していないときに声に出して言ってくれるペテロとトマスから、この課題への助けが得られたことを、私はとても嬉しく思います。まもなく、ピリポも同じことをします。神様、 彼らの疑問や困惑、キリストへの理解の欠如を進んで受け入れる気持ち、そして彼らに教えるようイエス様を促していることに感謝します。 私がクリスチャンになってから何年も経った後にも、神様が私に言っておられることをまだ理解していないとき、彼らは私の気持ちを楽にしてくれます。

 

 この長い会話の中で何度も何度も、イエス様の弟子たちは、彼らはどうしても分からないと口にします。 しかしイエス様は、彼らが見る必要があることをさまざまな言い方で辛抱強くお話しになります。最終的に、彼らはイエス様にこう言っています。(16章29〜30節)。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたがすべてのことをご存じで、誰にも尋ねられる必要がないことが、今、わかりました。これで、あなたが神のもとから来られたと、私たちは信じます。」 まあ、彼らはまだ完全な信仰を持つに至っていません。そして今後の出来事が、驚くほど早くそれを明らかにするのです。 しかし、信仰の種は注意深く植えつけられており、キリストを信頼する彼らの意志と能力は高まっていきます。 やがて、神様のご加護の下、彼らは大いなる信仰の人々へと成長することになります。 私たちは同じ確信の中に生きることを学ぶためにここにいるのです。

 

 

はじめに、「わたしは(が)・・・である。」

 

 私たちが、道、真理、いのちであるというイエス様の主張を受け入れるとき、イエス様が私たちの最優先事項です。私たちはオープンドアが道で、真理で、いのちなのだと主張したりはしません。バプテストの宗派や福音主義のキリスト教を、道、真理、いのちであると主張することもしません。私たちの神様に対する理解が完璧で正確だから、私たちの信仰の体系が道で、真理で、いのちなのだと言うことはできないのです。 いや、上記すべては確かに良いものですが、私たちは最良のものを持っています。キリストに従う私たちにとって、私たちのいのちはすべて神の御子イエス・キリストを通した、生ける神様との関係によるものです。私たちはパウロと共に言います。(ピリピ人への手紙1:21)「私にとって、生きることはキリストです。」 そして、他のすべての優先事項は、それが主と私たちとの絆を強めるのを助けてくれるものであるときに、その意味を見出すのです。

 

 初期の教会にはまだ、私たちが今日持つような信仰告白として書かれた信条がありませんでした。 復活したキリストが弟子たちに会われた後、主は彼らを旧約聖書に引き戻しました。そして、そこに連綿と書かれている、ご自身がメシアであることに対するたくさんの言及箇所を彼らに示し始められたと、ルカ24章17節と44〜49節が述べています。 聖書を通してキリストを発見するそのプロセスは、キリストが天国に戻られてからもずっと続けられたに違いありません。 しかし、彼らが神様、神の御子、神様の世界についてもっとよく理解しようとしても、彼ら全員が共通認識に到達することはなかったのです。 たとえば、神様が聖霊を送られたのか、それともイエス様が聖霊を送られたのか?  聖書のいくつかの部分はひとつのことを言っているようで、他の部分は別のことを言っているように思えます。 おそらく現代のほとんどのクリスチャンが、これらの教えを読んで、それらが必ずしも対立しているわけではないと言います。しかし結局のところ、私たち全員が神様を全く同じように見ているわけではありません。また、たとえ聖書のすべてが神様の霊感を受けた言葉であると信じていても、一体どれだけの人がそれを完全に理解していると断言できるでしょうか。 その数字がゼロであることはおわかりですね。

 

 しかし、聖書の時代とそれ以降のすべてのイエス様の弟子たちが、非常に明確にしてきたのはこのこと:キリストご自身が生きている主であり、私たちの道であり、私たちの真理であり、私たちのいのちであるということです。 イエス・キリストとの関係は、私たちの信仰生活の本質です。 イエス様は、「わたしは〜を知っている」とか「わたしは〜を持っている」あるいは「わたしは〜を見せることができる」とか「わたしは〜を与えることができる」ではなく、「わたしが〜である」と教えておられるのです。 それがイエス様というお方のすべてであり、イエス様が望んでおられ、私たちが必要としている関係性を強く示唆するものです。クリスチャンとしての人生は、最初も、最後も、そしていつでもキリストを通した神様との関係にあります。それは、他の世界観や生活様式、宗教や哲学とは一線を画しています。 「わたしは道であり、 真理であり、いのちです。」

 

 次に、「わたしは道であり…」

 私たちはすでに、イエス様の以前の教えである羊囲いの「わたしは門です」の中で、「道」になることについてイエス様が意味しておられる多くのことを見てきました(ヨハネ10章7節)。 そしてマタイ7章13〜14節で、イエス様は死に対立するものとしてのいのちへ、つまり神様の王国へとつながる狭き門としてのご自身をお示しになりました。

 

 神道のような他の宗教も「道」について語っています。 たとえば剣道、柔道、合気道など、規律ある鍛錬を通して人間性を育む「道」がたくさんあります。宗教的なものもあれば、宗教的なルーツを持つものもありますが、現在では大部分が宗教色を持ちません。 さらにそれらは一つの重要な点で異なっています。それらは人間を土台としており、人間の努力に頼っています。キリスト教の信仰は基本的に人ではなく、神様ご自身に土台を置き、人として成長し生きるための力は、私たちを教え、導き、力づけてくださる神様に頼るという私たちの習慣から育まれるのです。そのような理由から、初期のクリスチャンがその道の信徒と呼ばれた(使徒22:4)のはうなずけます。それは彼らがクリスチャンと呼ばれる以前の彼らの呼び名でした(「小さなキリスト」はもっと侮辱的な呼び名でしたが、イエス様の信徒たちが持つことを誇りに思う名前になりました)。

 

 イエス様がヨハネ14章6節で語っておられる「道」とは、特に神様への道、神様との生活、天国への道のことです。天国に行くということは「父のみもとに来る」(6節b)ことです。「道」とは、御父とその家に至る道です。それは単なるこの世界での生活の様式や流儀、またはある種の人物になるために用いるテクニックではありません。 「道」は生きておられる神様との愛と信頼の関係に、いつでもつながっているものなのです。

 

 皆さんは、イエス様が死からよみがえられたと信じるのに苦労する弟子としてトマスを覚えておられると思います(ヨハネ20章25節)。 彼は、主の両手と脇腹に十字架上で死なれた時の釘跡を見て触れるまでは信じないと言います。 彼は合理的な人だと言えるでしょう。 現代の人々もまた、キリストの主張につまずくかもしれません。とりわけ私たちが唯物論的な世界観を持ち、人間の論理システムに適合しない考えを排除するように育てられているとするならば、その可能性があります。  トマスはイエス様に「どうしてそのようなことが確信できましょうか?」みたいなことを言っています。 にもかかわらず、彼が受け取るシンプルな答えは、「あなたは私を知っているではありませんか?トマス。それで十分です。」というようなものです。これは 私たちにとっても朗報です。 もし皆さんがイエス様を知っているなら、皆さんが知っていると自覚している以上のことを知っているのです。 皆さんは神様と共に生きる道を知っているのです。

 

 そして、「わたしは真理です……」

 イエス様は特に神様についての真理、つまりご自身(イエス様)と父なるお方(神様)についての真理を指しておられます。 イエス様と父なる神様は聖霊と共にひとつなのです。 キリストはこの真理を9〜10節で、ことのほかピリポに対して語っておられます。ピリポはイエス様にこう言いました(8節)。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」  彼はなにか特殊な視覚、あるいは尋常ではない類いの啓示を望んでいるように見えます。 しかし、代わりにイエス様は彼を叱っているようです。

 

  ピリポ、こんなに長い間あなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らないのですか。  わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。 わたしがあなた方に言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 

 神様についての真理とは何でしょう?  イエス様を見れば、それが分かります。イエス様が教えておられることに耳を傾け、どのように行動されるどんなお方であるかに目を向けるとき、皆さんは神様が何を教え、何をされる、どのような存在であるかを理解します。 イエス様は神様を正確に表現しているが故に、真理なのです。

 

 ところで私たちが真理について話すとき、それは皆さんや私の念頭にあるタイプのものではないかもしれません。 それはたぶん聖書時代の多くの人々にも当てはまることでした。 新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、私たちが読んでいる会話部分の原本は疑いもなくアラム語でした。 その部屋の人々の基本的な考え方はヘブル人とユダヤ人のもので、彼らはきっとそのような文化的背景から真理について考えていました。  ギリシャ的な世界観の人々は、真実(truth)か嘘か、あるいは現実か非現実かということを重視して考えました。 しかし、ヘブル人またはユダヤ人的なものの見方をする人々は、忠実さとか信頼性もしくは誠実さをより重視して、真理(truth)を理解する傾向がありました。 たとえば、本当の(true)友達について考えてみます。 ここで中心になるのは、主として考え方ではなく人間関係です。 そこで詩篇52:3のようなものを読んでみると、このように言っています。「おまえは、善よりも悪を、義(truth)を語るよりも偽りを愛している。」  もちろん、イエス様は事実や正確な情報が重要でないとは言っておられません。 しかしそれ以上に、イエス様はご自身がいのちへの信頼できる案内人であると言っておられるのです。 私たちはイエス様を信頼することができます。

 

 ですから、イエス様が真理の霊(16〜17節)、つまり聖霊を送り、私たちが知る必要のあるすべてのことをご自身に従う者たちに教えると約束されるとき、それは納得のいく話です。 繰り返しますが、イエス様は知識や手助けだけでなく、神様であるご自身、神様である霊を授けてくださるのです。

   

 わたしは父にお願いします。 そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。なぜなら、その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。 

 

 さらにまた、26節でイエス様は、キリストが人間のみ姿でこの世を去った後、神様がご自身の民にどのようにして真理を伝え続けようとなさっているかを語っておられます。 「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 次の章で、イエス様は再びこの話題に戻られます(15章26節)。 「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」 これは、起こっているすべてのことや、イエス様が彼らの心の中に置かれたたくさんの奥深い真理に、おそらく圧倒される思いの弟子たちにとって確かな励みになる知らせです。 この「上の部屋(アパ・ルーム)の談話」が続く中、イエス様はヨハネ16章12〜13節で再びこの点に戻られます。イエス様はこう言われます。「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」 そして、もう一度、この同じ話の中で、イエス様は真理の問題に立ち返られます。17章17節で、イエス様はご自分の友人たちのため、神様に祈り求められます。 「真理によって彼らを聖なる者としてください。あなたのみことばは真理です。」 ここで私たちは、いかに神様のみことばとイエス様ご自身が、真理が存在する場所として密接に結びついているのか、はっきりと思い描くことができます。ヨハネが彼の福音の記述をイエス様の名前としての「ことば」を用いることで始めた(1章1節)理由がわかります。 「ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」その真理をお与えになるほどに私たちを愛してくださっている神様をほめたたえます。

 

 そして最後は、「私は・・・いのちです。」

 イエス様はすでにヨハネ11章で「わたしはよみがえりでありいのちです。」(25節)と話されました。「わたしは道であり、真理であり、いのちです。」もまた、私たちに示唆してくれます。皆さんがイエス様と言うとき、皆さんは、神様がご自分の民に持たせようとしておられる、完全で終わりのないいのちへ向かう真理の道について話しているのだということを。

 

 「いのち」とは何でしょう?  イエス様は17章3節における祈りの中で「永遠のいのちとは」と問いかけ、それから「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」 と答えておられます。くり返しますが、それは肉体または感情、あるいは知性をも超えた関わりです。キリストの弟子である私たちのいのちは、キリストを知ること、キリストとの密接な関係の中で毎日を生きることがすべてです。 ですからイエス様は信徒たちに「わたしが生きるので、あなたがたも生きるのです。」と言われるのです(19節)。 そして20節では、「・・・あなた方がわたしの内におり、わたしがあなたがたの内にいる」 と言われます。それが「いのち」です。 23節後半でイエス様は、ご自分を愛する者について、イエス様ご自身と父であられる神様が「その人のところに来て、その人とともに住みます。」と述べておられます。 それもまた、キリストのうちにあり、キリストと共にある、キリストのいのちです。

 

 皆さんや私に対する神様の望みとご計画は何でしょうか?  ヨハネは彼の書の終わり近くでこのことを述べています(20章30〜31節)。

 

  このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

 

 イエス様のいのちとはどのようなものでしょうか?  私たちはすでに、イエス様が去って行かれるとき、ご自身に従うすべての者の心の中に住み「(その者たちを)助け、(その者たちと)永遠にともにおられる」神様の御霊を後に残しておかれるさまを目にしました。(16節) 。それはまた、キリストが弟子たちの中でいつでも、どこにいても「いのち」であり続け、私たちとともに、私たちの中に生きておられるさまでもあるのです。(17節)。

 

 今日、私たちはイエス様が「わたしはある」の神様ご自身であるとともに、道であり、真理であり、いのちであることを述べられるのを見てきました。 イエス様は漠然とした一般的な意味での道、真理、また命についてお話しになっているのではなく、とりわけ神様への道、神様についての真理、神様と共にあるいのちとしてのご自身を明らかにされています。 (ここでは定冠詞のtheがそれぞれすべてについています。イエス様は、ご自身を他とひとまとめに並べて扱うという選択権を私たちに許してはいません。) そういうわけで、イエス様はすぐさま「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」という、この極めて大胆な主張を補足されたのです。( 6節)

 

 もしも皆さんが、そのような壮大な真実の主張と矛盾する世界観や信念を持っておられるとしたら、先月のメッセージの中で言及したように、それは心が狭いか排他的であるように聞こえるかもしれません。しかし、イエス様が正しいならば 、イエス様が言われていることは、心が狭いとか悪影響を及ぼす排他的なやり方などでは全くありません。それは、永遠に神様と共にあるいのちにつながる言葉を信じようとするすべての人に、イエス様がお与えになれる、最も誠実で開放的で愛に満ちたことなのです。

 

 しかしイエス様がご自身を道、真理、そしていのちだと述べられることは、挑発的で動揺を招くものであることは否めません。それは私たちにイエス様への応答、イエス様に関する決定を強いるものです。 以前ここで聞いたのを思い出されるかもしれませんが、C.S.ルイスが書いた『キリスト教の精髄』によると、キリストの言葉は紛れもなく3つの選択肢を私たちに預けています。 私たちは、イエス様が正気を失った精神錯乱者「それも自分のことをポーチド・エッグだと主張するようなレベルの狂人」 (ルイス  p.41) であったと判断を下すことができます。もしくは、イエス様は嘘つきだと判断することもできます。 これほど人生を左右する部分について、たくさんの人々を意図的に誤った方向に導く人は、偉大な教師ではなく「地獄の悪魔」(ルイス  p.41)です。 第三の可能性は、イエス様が真実を語っているものと信じ、イエス様を主として受け入れることです。 私たちがイエス様を狂人、嘘つき、それとも主と見なすことを選択するかどうかにかかわらず、イエス様は今日もまた、ご自身の言葉を通して私たちのところに来られました。 そして私たちはそれぞれ応答する必要があります。 ですから、ご一緒に祈ることでイエス様に応えるようお招きします。

 

 天の神様、私たちは、あなたが御子イエス様を道として、真理として、またいのちとして送ってくださったことに対し、感謝の祈りをもって御前に拝することしかできません。 イエス様の最初の弟子と同じように、このように偉大で人生を変えるほどの教えを完全に理解し従うには、私たちは精神力も、人格も、意志も、そして信仰もあまりに足りないことを告白します。 しかし、あなたは私たちの心にも信仰の種を蒔いてくださり、それが日毎に成長し、あなたの目に美しく価値のあるものが実るのを助けることがおできになると信じています。 イエス様が私たちの心をその宮とすることをお約束になられた御霊の力を通して、私たちを引き上げてください。強めてください。満たしてください。 そして、キリストが開いてくださった、いつでもあなたと共にいられるようになるあなたの家へと続く真理の道に、日々私たちを導いて下さい。 イエス様のお名前によって願います。アーメン。

 

参考

Lewis, C. S. (1960). Mere Christianity. New York: Macmillan.

Piper, J. (March 30, 2013). I Am the Way, the Truth, and the Life. Retrieved November 5, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=MPm-TYv9gfk Robertson, A. T. (1960). Robertson's Word Pictures of the New Testament. Rev. ed. Broadman Press. Retrieved November 6, 2021 from https://www.studylight. org/commentaries/eng/rwp/john-14.html

Utley, B. (February 9, 2014). John 14:1-31 Sermon by Dr. Bob Utley. Retrieved November 10, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=FgRQAsdOjoY