見えない世界・見えない力(前篇)

2021年11月14日主日礼拝「見えない世界・見えない力(前篇)」

エペソ1:19~2:3 佐々木俊一牧師

■今日の説教聖書箇所は、目に見えない世界のことや目に見えない力のことについて書かれていると言ってもよいと思います。みなさんは、目には見えないけれども、この世とは別の世界があることを信じているでしょうか。また、目には見えないけれども、この世で働く霊的な存在の力を信じているでしょうか。もちろん、私たちは、信仰によって、聖書が神の霊感によって書かれた書物であることを信じています。ゆえに、そこに書かれてあることが真実であり、神様からのメッセージであると信じています。聖書は、明らかに、目には見えないけれども存在する世界があり、また、目には見えないけれども力をもって働く霊的な存在があることを語っています。

 たとえば、神の王国であるとか、天国であるとか、また、黄泉であるとか、地獄であるとか、このようなことばによって、この世以外の世界があることを聖書は述べています。また、今日読んだ聖書箇所からも、この世には目に見えない霊的な存在があることを語っているのです。エペソ6:11を見るならば、パウロは、かなりはっきりと、そのような存在について語っています。今日は、いつもとは少し違うアプローチで聖書を見て行きましょう。目に見えない世界とそこにある力なるものについて見て行きたいと思います。

■19節~20節 「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることが出来ますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、」とあります。神様は目に見えない世界にお住いまいのお方です。ですから、私たちはこの目で神様を見たことはありませんし、見ることもできません。しかし、今からおよそ2000年前に、神様は人となってこの地上に来られました。その出来事が、12月になると私たちが毎年お祝いするクリスマスです。神様は人としてこの世界にお生まれになったのです。そのお方が、救い主なるイエス・キリストです。私たちは神の御子イエス・キリストの誕生を喜び、そして、お祝いするのです。

 この時に生きていたイスラエルの人々は、神の御子イエス・キリストを目撃した人類史上、極めて稀な人々でした。聖書には、イエス・キリストの目撃者が多くいたことが書かれています。また、イエス様が十字架に死んでから数年後に生まれた、軍人でもあり歴史家でもあったヨセフスの書いたユダヤ古代史という歴史書に、短くはありますが、イエス・キリストの事が書かれています。「イエスは、奇跡を行なう者であり、教える者であり、キリスト(救い主)と言われ、ポンテオピラトの時に十字架に架けられて死んだ。その後復活し、人々の前に現れた。神の預言者たちが彼のことについて驚くべき事柄を無数に語り、それらのことは実現している。」などの記述がなされています。

 イエス・キリストは、神様がどのようなお方であり、どれほど偉大であり、そして、どのような意図をもってこの地上に来られたのかを教えています。イエス・キリストを通して神の全能の力が現されました。人々は奇跡やいやし、そして、死んだ人が生き返るのを見ました。神の全能の力はイエス様ご自身のうちにも働いて、十字架に架けられて死んだはずのイエス様の体がよみがえりました。そして、今は天にいて父なる神の右に座しておられます。

 19節をとおして、神の全能の力が私たち信じる者にも働いているのだと言うことがわかります。イエス・キリストの弟子であり使徒であったペテロやパウロのように、彼らを通しても多くの奇跡やいやしがなされたことが使徒の働きに書かれています。初代教会時代、イエス・キリストを信じる者たちは、神の偉大な力によってその働きを行ないました。そして、この神の偉大な力は、十字架で死んだはずのキリストの体を復活させたように、罪で死ぬ運命にある私たちの体をも将来復活させてくださり、エペソ2:6にあるように、ともに天のところに座らせてくださるのです。

■21節「(神はキリストを))すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」とあります。支配とか権威とか権力とか主権とか、ふだん、あまり使わないことばです。日本人はよく平和ボケしていると言われます。日本で女性にも選挙権が与えられるようになったのは1945年の事でした。まだ、70年しかたっていません。それより以前は、女性には選挙権はありませんでした。男性の選挙権にしてもたいして変わりはありません。選挙権というもの自体が日本ではまだ新しくて、長い間、主権は天皇や将軍にあったのです。現在は、せっかく選挙権があるのに、それを用いない人がたくさんいます。確かに、それも自由なのですが、そんなことをしていると、私たちの自由さえもいつか奪われてしまうことになるかもしれません。

 コロナ禍において、中国共産党による香港弾圧やウィグル族ジェノサイド(民族集団破壊)の問題がエスカレートし、クローズアップされるようになりました。香港は2047年まで一国二制度により、社会主義国でありながら民主主義を50年間認められていました。しかし、中国はその約束を破りました。このような出来事を通して、私たちは、以前よりも支配とか権力について考えるようになってきているように思います。香港の事から始まって、次には中国共産党による台湾支配の現実化が否定できない状況になってきています。中国の軍事力は増大し、アメリカの軍事力を追い越す勢いです。20年、30年後には、日本も危うい状況に置かれているのではないかと危機感を感じます。

 日本は現在、民主主義の国です。ですから、主権は国民にあります。国民主権とか主権在民と言われています。中国は社会主義の国ですが、主権は人民にあることになっています。ですから、形式的に政治の末端である地方においては選挙があり、人民には選挙権があるそうです。しかし、中国共産党がすべてをコントロールしています。人民によって選ばれると言いながら、中国共産党の価値観に合わない人は選ばれない仕組みになっているのです。中国は共産党による一党独裁であり、習近平による独裁体制が強化されています。どこに行っても、大きな習近平の肖像画が飾ってあるそうです。政府公認の教会も同じです。壁には大きな習近平の肖像画が飾られ、聖書のことばではなくて、習近平のことばが壁に書かれているそうです。中国共産党は無神論者の集まりです。神を否定する中国共産党の国においては、毛沢東がそうであったように、習近平が神様のようになってきているのです。牧師や神父が語る言葉も管理されています。最近では、聖書のことばも中国共産党の価値観に合わない部分は書き変えられたり、削除されたりしていると言うことです。しかし、聖書には何と書かれていますか。旧約聖書にも新約聖書にも、聖書のことばに付け加えてはならない、取り除いてはならないと書いてあります。申命記4:2やヨハネの黙示録22:18~19を見てください。もしもそんなことをしたならば、神様は放って置きはしません。

 この世には多くの支配者、権威者、権力者がいます。過去を遡ると、数えきれないほどです。パウロの時代には、この地上で最強と言われるローマ皇帝カエサルがいました。しかし、誰一人としてイエス・キリストにまさる者はいません。たとえ、この世で権力を振りかざすことはできたとしても、この世が終わって次に来る世においては、必ず、イエス・キリストの足の下に従わされます。イエス・キリストにまさる者は誰一人としていないのです。なぜならば、イエス様は神なるお方だからです。

■22節~23節「また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」と書かれています。この世においても、次に来る世においても、イエス・キリストにまさる者は誰一人としていません。いっさいのものがキリストの足の下に従わされています。ローマ皇帝カエサルでさえもキリストの足の下に従わされているのです。そして、神は、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを教会にお与えになった、とパウロは言います。この世にはたくさんの支配者、権威者、権力者がいて、国や世界を動かしています。政治家だけではありません。経済界にも宗教界にもそのような人々がいます。しかし、彼らも、同じ人間です。彼らがコントロールできるのはほんの一部だけであり、ほんの一時期だけです。すべては神様のみ手の中で動いていることなのです。

 現在も未来も、キリストが世界を治めるのにふさわしいお方です。そして、その世界のかしらなるお方を、神は教会に与えた、と言うのです。ここで言う教会は、教会の建物の事ではありません。教会(エクレシア)とは、神に呼び集められた者たちの集合体です。オープン・ドア・チャペルの建物が教会なのではなくて、ここにいるお一人お一人のクリスチャンからなる集まりが、オープン・ドア・チャペルと言う名の教会なのです。教会はキリストの体であり、キリストが満ちておられるところなのです。そのように言われる教会には、神様の特別な計画があり、特別な使命があります。神様はご自身の御心や計画を成し遂げるために、いかなるものも用いることのできるお方です。しかし、教会は神様にとって特別なものです。教会でなければなすことのできない事柄があるのです。それは、福音を宣べ伝えることもそうですし、世の光や地の塩としての使命を果たすこともそうなのです。

 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。そして、教会はイエス様を救い主と信じる人々の集まりです。そこにおいては、クリスチャンとは言え人の集まりですから、この世の価値観や法則が働くところでもあります。しかし、反対に、人とは言えクリスチャンの集まりですから、神の御国の価値観や法則が働くところでもあります。また、時には、法則さえも越えて、神の大いなる力があらわされるところでもあります。

 たとえば、アフリカやイスラム圏などにある経済的に貧しい教会が何らかの働きにお金を必要としている時に、私たちの教会もお金が余っているわけではないけれども、「与えなさい。そうすれば与えられます。」との神のことばに促されて献金をささげるときに、後になって自分たちが必要な時にその必要が備えられたりとか、収入がたくさん増えるというわけではないけれども、いつも十分に必要な分は与えられるというような祝福を体験するのです。みなさんは、きっと、それ以上の事を個人的に体験されているでしょう。私も体験しています。

 教会は、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。教会は、目に見える世界と共に、目に見えない世界もそこにあるところです。私たちは目に見えるところだけに従って生きているのではありません。私たちは目に見えない神様の領域にも目を配りながら生きているのです。いっさいのものをいっさいのものによって満たす方は今日も教会に満ちておられます。教会は、目には見えないけれども、確かに、キリストが働いておられるところなのですから、私たちはその教会に喜んでつながって行きたいと思います。

 「見えない世界、見えない力」の後編は、エペソ2章1節から3節を中心に、次回、お話ししたいと思います。それではお祈りします。