1対1の関係~約束の地へ

2021年11月7日主日礼拝 メッセンジャー:俊子姉

テーマ「1対1の関係~約束の地へ」/中心聖書箇所:「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

 

■はじめに

  9月23日(秋分の日)に女性信徒の会のブロック集会というものがありました。「コロナ禍における礼拝」というテーマで花小金井教会の藤井先生からとても興味深いメッセージがなされました。(またCDが配られますので、興味のある方はぜひお聞きください。)その中で、質疑応答の時間がもたれたのですが、「ひとりで礼拝するっていうことができるのですか?」と質問された方がありました。今コロナの渦中にあって、オンラインで礼拝をしておられる教会が多く、オンラインで参加しなければならない状況がありますが、オンライン視聴もできなくてひとりで礼拝をしなければない方も確かにおられると思います。藤井先生は「その場合、デボーションという言い方をすることもありますが、」と答えられ、はっきりと言われませんでしたが、「日曜の聖日礼拝は礼拝式と捉えています。」と答えられました。

  日曜日の聖日礼拝は大切にしなければならないものですが、私たちがひとりひとりで持つ礼拝もまた大切だと改めて思わされましたし、日頃からひとりでも礼拝できる者とされていくことが大切だと思わない訳にはいきませんでした。何か「礼拝」と言えば、仰々しく感じられるような気がしますが、私たちが主に心を向けるとき、主のみ前にひれ伏すとき、それが「礼拝」だと思います。賛美と祈りとみことばが読まれるときそこには礼拝があります。

  今日与えられている聖書箇所も正に「礼拝」と言えるのではないでしょうか。「奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れた所におられる父に祈る。」この世から自分を分離し、主をのみ求める。主に自分の心を注ぎ出し祈る。み言葉に聞く。そういう習慣をもうすでにもっておられる方も多いでしょう。忙しいこの世の生活にもまれながらも、奥まった部屋に入るという大切な時間を何とか確保して行きたいものです。

  自分のことですが、江別に住んでいるとき、奥まった部屋がありませんでした。唯一の奥まった部屋はもう使っている人がいたし、私には自分の部屋がなかったのです。それで、どうしてもひとりになって集中して祈りたいときには、車の中で祈りました。自分の家の駐車場で祈るのも気が引けたので、近くのショッピングセンターの駐車場の隅に車を停めて祈りました。自分にとってかなり厳しい時代だったので、ひとりで主に向かうことが必要でした。ひとりだと人の目を気にする必要がありません。思いっきり祈れるのです。私たちひとりひとりはこういう時間をこそ重んじることが大切です。

 

■エリヤとエリシャ

 ここで突然にエリヤとエリシャに話を変えます。エリヤは神の預言者でしたが、カルメル山で450人のバアルの預言者と400人のアシェラの預言者にひとりで立ち向かって勝利した出来事で有名です。イスラエルの北王国のアハブ王の時代に活躍しました。

 第2列王記2章になります。聖書を持っておられる方はお開きください。ちょっと長いので、私の方で読ませていただきます。(第2列王記2:1~15を読む。)第1列王記19:16で、エリヤは神様に命じられてエリシャに油を注ぎ、エリヤに代わる預言者とすることになります。エリシャは畑を耕す者でした。エリシャは父母に分かれを告げると、エリヤについて行って、彼に仕えたと書かれています。おそらくエリシャはエリヤと共にいて、預言者としての手ほどきや訓練を受けたのだろうと思われます。その後エリシャが出て来るのは今読んだ第2列王記2章です。

 ここでエリヤとの別れがやって来ます。エリシャはエリヤとの別れが来ていることを知っていましたが、そのことをエリヤに知られたくなくて黙っていました。エリヤは主に導かれてギルガルからベテル、エリコ、ヨルダンへと回ります。エリヤが出かける度にエリヤはエリシャに「ここにとどまっていなさい。」というのですが、エリシャはその都度「私は決してあなたから離れません。」と言い、エリヤに付いて行きます。ふたりがヨルダン川のほとりに立った時、エリヤは自分の外套を丸めて川の水面を打ちます。すると、水は両側に分かれ、ふたりはかわいた土の上を渡ったと書かれています。ヨルダン川の東側に行きます。

 そして渡り終わったとき、エリヤはエリシャに尋ねます。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」するとエリシャは「あなたの霊のふたつの分け前が私のものになりますように。」と言います。エリヤは「あなたはむずかしい注文をする。」と言っていますが、これはエリヤの意志でできることではなく、神さまのみこころでなくてはできないことだったからではないかと思われます。でも、「もし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことがかなえられよう。できないなら、そうはならない。」と答えます。結局のところ、一台の火の戦車と火の馬とが現れて、エリヤとエリシャの間を隔てます。エリヤはたつまきに乗って天に上って行き、エリシャはそれを見ることになります。エリヤは死ぬことなく天に上っていきました。「エリシャは自分の着物をつかみ、それを二つに引き裂いた。」と書かれていますが、着物を裂くという行為は深い悲しみ、また怒りや憤慨、悔い改めのときになされたようです。エリシャはすごく悲しみ失望したのではないかと推察されます。それから、エリシャはエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、ヨルダン川の水を打ち、「エリヤの神、主は、どこにおられるのですか。」と言い、再び水を打つと、水が両側に分かれたと書いてあります。エリヤと同じことができたのですね。そこでエリシャはかわいた地面を歩いてヨルダン川の西側に渡ります。それを遠くから見ていた預言者のともがらが、「エリヤの霊がエリシャにとどまっていると。」証ししています。エリシャはエリヤの霊のふたつ分を得たのでしょう。

 

■ヨルダン川

 ちょっとここでヨルダン川に注目していきたいのですが、イスラエルの地図をご覧ください。ガリラヤ湖からヨルダン川が出て、死海に流れ込みます。死海の東側西側には低い山が連なっていて、死海の北の端を西に上って行くと、エルサレムがあります。ヨルダン川は断層になっているところで、そこに川が流れているという地形です。神様がイスラエルの民に与えられたカナンの地というのはヨルダン川の西側でした。地中海とヨルダン川、死海に囲まれた地域です。今のイスラエル・パレスチナもヨルダン川が国境になっています。ヨルダン川の西側がイスラエル・パレスチナですね。

 エジプトからモーセに率いられてカナンの地を目指して進んできたイスラエルの民もまたヨルダン川の東側から渡って西側に出たのです。この時にもヨルダン川の水が分かれて民はかわいた地の上を渡ったとヨシュア記3章には書いてあります。契約の箱を担ぐレビ人の足がヨルダン川にひたると同時に上流から流れて来る水が突っ立ってせきを成し、完全にせき止められたと書いてあります。ヨルダン川まで民を率いてきたのはモーセでした。でも神さまはモーセがヨルダン川を渡ってイスラエル人に与えられた約束の地に入ることを許されませんでした。民を率いてヨルダン川を渡ったのはヨシュアだったのです。

 エリヤとエリシャに似ていませんか?これまでの指導者はヨルダン川の東に留まり、新しい指導者がひとりでヨルダン川を渡り、約束の地に入って行ったのです。そこには以前の指導者はいませんでした。私たちもまた、自分を導き育ててくれた人と別れて、たったひとりでヨルダン川を渡る時が来ます。いっとき悲しく寂しく思われるかもしれませんが、それは神様があなた方に所有させようと言っておられる約束の地へ入る入口になるのだと今日の聖書箇所は語っているのではないでしょうか。

モーセの後を継いだヨシュアもそうでしたが、エリヤと別れたエリシャもその後また素晴らしい主の働きをして主の栄光を表す者とされました。

 

 

■まとめ

私は、いざというときに頼りになる先輩を失ってしまいました。そしてそれから私は神さまを全くの一人で求めるようになりました。それもいいものです。そういう歩みになってからも主は私に、実に誠実に答えてくださいました。エリシャもそうでしたよね。主と私の間に誰も入ることはなくなったのです!今、当時のことを振り返ると、この方に出会い、いろいろと学ばせてもらったことは本当に感謝でした。そしてちょうど良いときにこのようにお別れしたこともまた、本当に感謝なことだったなと思います。というのも、私と神様の間に誰も入れてはいけないからです。私と主が本当にダイレクトな関係になって行くことが好ましいと確信します。実際私たちと主を取り持ってくださるのは聖霊だけです。

 信仰の仲間を持つことはすばらしいことですし、教会に集うことは本当に大切なことです。両方ともこれからも大切にしていきたいと思います。そして私たちを励まし、育ててくれる牧師たちや信仰の先輩たちも素晴らしい存在です。でももう一方で主との1対1の関係を確立し、保っていくことが非常に大切です。そこが信仰の土台となり、鍵となっていきます。神様との密室での交わり、1対1の礼拝をさらに進めて行きましょう。まだ確立されていない方は一歩を踏み出していきましょう。主への飢え渇きが与えられるように求めましょう。「隠れた所におられるあなたの父」はあなたを導き、ヨシュアやエリシャのように約束の地に入らせてくださいます。主を信じる者に与えられた物を所有していく者としてくださるのです。