この時、イエス様はぶどう酒を飲まなかった!?

2021年10月10日主日礼拝

「この時、イエス様はブドウ酒を飲まなかった!?」マタイ26:26~29 

佐々木俊一牧師

■10月になって緊急事態宣言が解除されてから10日経ちました。私たちの生活は9月よりも自由になったでしょうか。まだそのような実感がないのが現実です。コロナの影響を受けてから、もう少しで2年になろうとしています。この間、長くも感じ、また、短くも感じます。この長くもあり短くもあるこの2年の間に、世界のあり方が激変したと言ってよいでしょう。今までとは異なる世界の潮流の中に私たちは進んで行っているように思います。しかしながら、激変する世界情勢の中にあっても、変わらないことがあります。何よりも、神様がいつも共におられるということが、1番目に変わらないことであり、それは、私たちの平安の源です。そして、変わることなく、朝が来て、夜が来て、また朝が来る。春になり、夏になり、秋になり、冬になり、また、春になる。このように、神様が定めたサイクルの中で、私たちはなおも可能な限りの日常を生きています。

■日本では、秋はお祭りのシーズンです。でも、コロナ禍にあっては、今年もまた、実施を断念するところが多いようです。昨年よりは状況は良くなっているのかもしれません。ですが、日本中で以前のような祭りの実施は難しい状況にあるようです。

 祭りと言うのは万国共通、人間特有の活動です。どこの国でもやっています。国や民族によってそれぞれの特徴や違いがありますが、それ以上に、大きな共通点があります。それは、収穫や無病息災の祈願が目的となっていることです。秋祭りは、どちらかと言うと、収穫の感謝と次の収穫を祈願するものが多いのではないでしょうか。

日本は毎月どこかで必ず祭りをやっているほど、祭りの多い国です。そして、日本と同じかそれ以上に祭りの多い国が、イスラエルです。聖書を読むと、イスラエルの多くの祭りの起源が旧約聖書の時代にあることがわかります。イスラエルには三大祭りというのがあって、それらは、モーセの時代、3500年前まで遡ります。その時から絶えることなくずっと行われて来ました。昔も今も、世界中のユダヤ人たちがエルサレムに集まって祭事を行ってきたのです。エルサレムに集まれない時代には、シナゴーグや家庭でその伝統を守ってきました。それらは、過越しの祭り、五旬節(ペンテコステ)、仮庵の祭りと言われているものです。すべてが収穫祭であり、また、イスラエルの歴史的な出来事を記念する祭りでもあります。

 ちょうど今頃、イスラエルでは仮庵の祭りがあります。太陰歴なので、その年によって祭りの日は変わります。2021年の仮庵の祭りは、9月20日から27日までの8日間でした。この時期の収穫は、小麦はもちろん、ブドウやナツメヤシの実(デーツ)です。しかし、これは昔のことであって、現代のイスラエルでは、年中、多種多様の果物や野菜が生産されています。食糧自給率がなんと90%以上だそうです。それに比べて、日本は40%です。イスラエルの農産物の生産は輸出するほどに非常に豊かになっています。

 そして、イスラエルの新年が仮庵の祭りの2週間くらい前に始まります。ちょうど収穫の忙しさが落ち着いて来た頃で、雨が降らない乾季から雨の降る雨季が近づいた時なのです。ですから、この時に、収穫を感謝すると共に、次の収穫を願って雨乞いする時でもあるのです。こうして、イスラエルの新年は秋に始まります。

 海外ではたいてい、学校などの新年度は秋に始まります。日本の新年度は春です。実は、もともとイスラエルでも春が新年でした。3月中旬から4月中旬にかけて、それが新しい年の初めの月でした。しかし、バビロン捕囚後、紀元前500年頃からパレスチナに戻ったユダヤ人たちは秋の月を新しい年の初めとしたようです。それが現在に至って続いているわけです。出エジプト記12章を見ると、神様は春の月、アビブの月を新しい年の第一の月にするように言っています。この時のお祭りが、最も有名な過越しの祭りです。イエス・キリストが十字架に架けられて死んで三日目によみがえられたのが、この過越しの祭りの時でした。この過越しの祭りこそが、イエス・キリストの十字架の死の意味をあらかじめ表しており、週の初めである日曜日にイエス・キリストは復活されました。私たちはこの日をイースターとして毎年お祝いしています。

■今日の聖書箇所は、ちょうど過越しの祭りの時の事です。木曜日から金曜日にかけてあった出来事です。太陰暦ですから、午後6時に日付が変わります。イエス様と弟子たちは木曜日から金曜日にかけて、過越しの食事をしていました。みなさん、ご存知かと思いますが、これはキリスト教の2つの礼典のうちの一つ、主の晩餐式の発端です。一般的には最後の晩餐と呼ばれていますが、正しく言うと、過越しの食事です。

 過越しの祭りの始まりは、出エジプト記12章に書かれてあります。430年間、エジプトで強制労働を強いられていたイスラエル人が、モーセの指揮の下、エジプトから脱出しようとする際に、エジプトの王パロが頑なにそれを阻止しようとしました。それに対する神様の裁きが過越しの祭りの始まりです。

 神様はイスラエル人に1頭の子羊をほふって、その血を各家の入口にある門柱と鴨居に塗るように言いました。ちょうど、神社の鳥居のような形で赤色に塗ったのです。イスラエル人のすべての家は、このように小羊の血が塗られました。そして、神様の裁きがやって来た時に、子羊の血が塗られている家々だけは神様の裁きが及ぶことはありませんでした。神様の裁きは、子羊の血が塗られていた家々を過越して行ったのです。このことを記念として、この時期に後の世代へと語られて行きました。どのようにしてエジプトでの奴隷状態から自由にされたのかを言い伝えるために始まったのが、この過越しの祭りなのです。

■26節 イエス様と弟子たちは、過越しの祭りを祝うために、過越しの食事をしていました。その時、イエス様はパンを取りました。私たちがいつも食べているような柔らかいパンではありません。過越しの祭りの間、1週間はマッツァと言う種なしパンを食べなければなりません。ふくらみのない硬いパンです。このところには書かれていせんが、慣習として、袋の中からマッツァを取り出します。この袋は3つの部分に分かれていて、それぞれにマッツァが入っています。この3つのマッツァには名前がついています。アブラハム、イサク、ヤコブです。イスラエル人の代表的な先祖の名前です。慣習によるならば、イエス様は真中のマッツァ、イサクの袋からマッツァを取り出したはずです。イサクと言えば、有名な話があります。それらの話はすべてイエス様の事を表しています。イエス様を表しているとも言える真中のマッツァを取り出して、それを二つに割ります。片方は袋に入れて、しまっておきます。それは、アフィコメンと呼ばれています。意味は、「後に来られる方」、と言う意味です。イエス様はもう片方のマッツァを裂いて弟子たちに与えて言いました。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」イエス様が裂いたパンはイエス様のからだの象徴です。これは、イエス様のいのちを象徴するものです。ですから、そのパンを食べることによって、イエス様のいのちが私たちに与えられたことを意味します。こういう習慣を知っているでしょうか。結婚式で、新郎と新婦がお互いに、一つの大きなケーキから一切れのケーキをとってお互いに口の中に入れてあげるのです。そんなシーンを見たことはないでしょうか。これは一つの契約の儀式です。私のいのちがあなたに入って、あなたのいのちが私に入る。そして、一つになる。そのようなことを意味します。このような事柄は、時や場所を超えて、世界中の人々の間に見られる共通の観念でもあります。

■27節~28節 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みなこの杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」

 杯の中には何が入っていたと思いますか。イエス様の血そのものですか。いいえ、そうではありません。ぶどう酒です。色は白ではなくて、赤です。なぜですか。それは、血を象徴しているからです。イエス様はヨハネ7章で言っています。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」この話を聞いて、多くの人々がイエス様から離れて行きました。イエス様は、本気でご自分の肉を食べ、血を飲むように言ったのでしょうか。そうではありません。それは、あくまでも、象徴的に、あるいは、比喩的に表現されたことです。

■28節で、イエス様は「契約の血」と言っていました。そこで、契約について少しお話したいと思います。ヘブル語で契約の事をべリースと言います。本来の意味は、「切る」と言う意味です。契約は、「切る」と言う意味なのです。体を切るとどうなりますか。血が出ます。アフリカや中東では、契約をする過程において体の一部を切るという行為は日常の中でよく行われていたようです。19世紀の冒険家や研究者がそのことを報告しています。20世紀に入っても中東のベドウィン族と言われる人々の間でそのような習慣が観察されたそうです。私はそのことを本で読みました。また、アフリカにおいては、互いに手のひらに傷をつけて血が出た状態で、握手をするのです。それによって、血が混じり合い一つとなった証しとするのです。契約は、ある意味一つになると言うことでもあるのです。手のひらにたくさんの傷があればあるほど、その人にはたくさんの仲間がいると言うことになります。アフリカを探検したある冒険家は現地の人々との間にたくさんの契約を結びました。そのため、手のひらは傷だらけでした。ジャングルで見知らぬ人に出会ったときに、手を上げて手のひらを見せると相手は逃げて行ったそうです。手のひらの傷が多ければ多いほど、彼に危害を加えれば自分の身が危なくなるからです。

 日本でも血にまつわる慣習があります。印鑑はその典型です。朱肉の色は赤色です。赤色は何を表しているかと言うと、血の色です。契約や約束はいのちをかけて行うものであったのです。血はいのちの象徴です。これは人間が持つ普遍的な観念です。「肉のいのちは血の中にある」と聖書にも書かれてあります。命と血の関係は誰でもわかります。私が小学生の頃、よく鼻血を出していました。小学2年生のことだったと思います。ある日、鼻血が出たのでちり紙をまるめて鼻の穴に入れ、止血しようとしました。止まったかなあと思って、起き上がってちり紙を取ると、また、ぽとんと血が出てきました。そんなことを何度も繰り返していくうちに、鼻血がなかなか止まらないので、死んでしまうのではないかと不安になって泣き出したのを覚えています。小学2年生であっても、血が止まらないと自分の命が危ないということぐらいはわかります。

 28節で大切なことは、イエス様が十字架で流された血は、罪を赦すために多くの人のために流されたということです。

■29節 「ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」このようにイエス様は言っています。イエス様はここで、何を言いたかったのでしょうか。また、この時、イエス様はぶどう酒を飲んだのでしょうか、それとも、飲まなかったのでしょうか。弟子たちは、この時、ぶどう酒を飲みました。イエス様も同じように飲んだのでしょうか。その答えは、飲まなかった、です。ユダヤ人の婚礼の慣習を知るとそのことがわかります。

 ヨハネ2章に、カナという町で婚礼があった時のことが書かれています。この時に、イエス様も弟子たちも、そして、イエス様の母、マリアもこの婚礼に招かれました。たぶん、マリアはこの時、ぶどう酒係か何かをしていたのでしょう。ぶどう酒がなくなったとき、マリアはイエス様のところに来て言ったのです。「ぶどう酒がありません。」全部飲みつくされてしまったのです。そうしたら、イエス様が、「・・・わたしの時はまだ来ていません。」とマリアに応えました。いったい、どういう意味なのでしょうか。本当にイエス様は不思議なことを言うお方です。しかし、イエス様の答えはその通りだったのです。イエス様はご自身の婚礼の時を指して、このようなことを言っていたのです。

 以前、聖書の中で、教会はキリストの花嫁にたとえられていることをお話ししたことがあるかと思います。教会とは私たちキリストを信じる一人一人のことです。キリストとそのお一人お一人との関係が新郎と新婦の関係に象徴的に表されているのです。

 イスラエルの婚礼の慣習では、祝宴が2回あるそうです。1回目は婚約式の時の祝宴です。これまた、結構長い間祝宴を催すようです。ですから、カナでの婚礼に見られるようにぶどう酒が無くなってしまうということも起こりえるのです。興味深いことに、この時、新婦になる女性はぶどう酒を飲んでも、新郎になる男性はぶどう酒を飲まないそうです。男性は、結婚式まで自分の身を清め慎むために、ぶどう酒を控えるのです。さらに、花嫁を迎えるために住居を用意し、部屋を整え、必要な家具をそろえたりして準備をするのだそうです。

 イエス様が、「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」と言ったのは、この過越しの食事が、婚約式の時のような祝宴の時であったからです。花婿が花嫁を迎えに来る時が将来計画されています。ヨハネ14章でイエス様は何と言っていますか。「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」と書いてあります。その後に再び祝宴が催されるのです。これが結婚式に当たる祝宴です。

 ここで、興味深いことは、新婦をいつ迎えに行くかを決めるのは新郎ではなくて、新郎の父です。これが何を意味するかと言うと、皆さんもうお分かりかもしれません。新婦をいつ迎えに行くかをきめるのは、イエス様ではなくて父なる神様です。その日、その時がいつなのかは、天の父なる神様だけが知っているのだとマタイ24章に書かれているとおりです。その時がいつ来てもよいように、新婦は備えておくように導かれているのです。

 今日これから、婚約式が行われます。お二人が結婚の時を迎えるまでに、それぞれにしなければならない準備があるかと思います。実際的な準備もあれば、心の準備もあります。感謝なことに、結婚式の日程は、新郎の父が決めるわけではありません。当人であるお二人が決めます。それまでに自分たちのペースで準備を進め、その準備が守られ祝福されるように願います。それでは、お祈りします。