知恵と啓示の御霊、そして、心の目

2021年10月3日主日礼拝「知恵と啓示の御霊、そして、心の目」エペソ1:15~19

佐々木俊一牧師

■15節~16節 「こういうわけで」とは、どういうわけなのでしょうか。その前に、「こういうわけで」は、直接的にどの文章につながるのでしょうか。「こういうわけで、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」とした方が文としてはわかりやすくなるのではないでしょうか。それでは、「こういうわけで」とは、どういうわけなのでしょうか。そのわけについて考えてみたいと思いますが、それは前の節や文脈にそのヒントがあるはずです。

 この頃はまだ、異邦人も神の救いに与れるのだということがユダヤ人クリスチャンの間で広く受け入れられていることではなかったように思われます。しかし、神の計画は彼らの思いをはるかに超えていました。異邦人の救いもまた神の計画の中にしっかりと盛り込まれていたのです。

 使徒の働きを見ると、確かに、イエス・キリストを信じた異邦人たちも、聖霊を受けたことが記されています。彼らも同じ様に聖霊を受けて神の御国の相続者とされたのです。その後、神の恵みに与った異邦人たちの信仰と愛が広く知られるようになっていきました。そして、そのことは、遠くローマの地で囚われの身になっていたパウロにも伝えられました。

 パウロは3年という年月をエペソでの宣教に費やしました。やりがいもあったでしょうが、きっとその労苦も大きかったことでしょう。なぜならば、異邦人の救いについて当時はまだ広く理解されないことであったからです。しかし、パウロのエペソでの労苦は豊かな実を結んでいました。エペソに住む多くの異邦人がイエス・キリストを信じてクリスチャンになりました。彼らは福音を聞いて、信じて、確かに約束の聖霊を受けたのでした。そして、彼らは神の御国を受け継ぐ者とされたのです。

 その後、時は経って、ローマで囚われの身になっていたパウロのところに、エペソのクリスチャンの様子が伝えられました。パウロは、彼らについて良い報告を受けました。彼らの主イエス・キリストへの信仰とすべての聖徒たちに対する愛は、パウロがエペソにいた時以上に大きく成長して実を結んでいたのです。実際に、エペソを中心にキリスト教は小アジアやギリシャにおいてますます広がって行きました。そのことを聞いたパウロは本当に喜びに満たされたのだと思います。異邦人への伝道は確かに神様の計画なのだということをさらに確信したパウロは、大いに神様に感謝し、また彼らの成長や働きのために日々覚えて祈ったのではないでしょうか。

 「こういうわけで」とはどういうわけなのか、このところに戻りたいと思います。それは、ユダヤ人だけではなくて異邦人も神様の救いに与ることはあらかじめ神様の計画によることであって、そのことをパウロは神様から使命として受けていました。しかし、そのことをすべてのユダヤ人クリスチャンに理解してもらうことは困難なことでした。ところが、パウロがローマで囚われの身になっていた時に、パウロのエペソでの労苦が実を結んで、エペソの異邦人クリスチャンの信仰とすべての聖徒に対する彼らの愛についてパウロは聞いたのです。キリストの救いを受けた彼らは、変えられて以前の彼らとは違いました。彼らは成長し、整えられて、良きキリストの証し人として主の働きのために仕えていたのです。そうして、信じる人々もますます増えて行ったのです。そのことによって、以前よりもユダヤ人クリスチャンの理解を得ることになり、異邦人クリスチャンとの協力関係が導かれていったに違いありません。それは、これから学ぶ2章の内容からも推測できることであると思います。こういうわけで、パウロはエペソのクリスチャンのために絶えず感謝をささげ、彼らのことを覚えて祈ったのです。

■17節 私たちの神は、父なる神と子なるキリストと聖霊なる神、三位一体にして唯一の神です。「私たちの主イエス・キリストの神」との表現によって主イエス・キリストの神性が否定されるわけではありません。主イエス・キリストの神とは、「すなわち栄光の父」とありますから、父なる神を表していることばであると言えます。その父なる神様が神を知るための知恵と啓示の御霊をエペソのクリスチャンに与えてくださいますように、とパウロはお願いしています。

 でも、考えてみると、何かおかしいと思いませんか。エペソのクリスチャンは主イエス・キリストを救い主として信じてクリスチャンとなったのですから、すでに聖霊が与えられているはずです。なのに、どうしてパウロはこのような祈りをするのでしょうか。考えてみたいと思います。

 今の時代に生きるクリスチャンはある意味恵まれています。なぜならば、私たちにはいつも聖書があるからです。少なくとも私たちには1冊以上の聖書が与えられています。いつでも、神様のことばを読むことが出来るし、聞くこともできます。聖書を読むだけで、神様についてかなりの知識を得ることができるはずです。しかし、初代教会のクリスチャンはそうではありませんでした。パウロがこの手紙を書いていた時代は、だいたいAD60年頃のことです。この頃には、旧約聖書はありましたが、新約聖書はまだなかったでしょう。もしもあったとしても、福音書の一部だけであったのではないでしょうか。ほとんどの人々は自分の聖書は持っていませんでした。集会のたびに誰かが旧約聖書を読んだり、もしかすると、福音書を読んだり、また、イエス様のことを知っている人がイエス様に関することを話すのを聞いたりする程度だったのです。知識や情報を得るための手段は本当に乏しかったと思います。

 そのような状況の中で得ることのできた神様の情報や知識というのは、本当に貴重なものでした。その貴重な情報や知識を最大限に生かすために必要なのが神を知るための知恵と啓示です。それらは聖霊の賜物であり、聖霊によって受け取ることのできるものです。知恵とは情報や知識を運用する能力であり、啓示とは神様から受けた知識や情報をきちんと理解して受け取ることです。それは、聖霊の助けと導きがあって初めてできることであると思います。たとえ、聖書を読んで神様について多くの知識や情報を知ったとしても、それらを受けて運用する知恵と啓示を御霊によって受けることができなければ、結局、それは信仰に結び付くことはなく、単なる知識で終わってしまいます。宝の持ち腐れです。しかし、私たちクリスチャンは聖霊を受けているのですから、私たちにはそのことができるのです。私たちはそのようにできるのだということを、信仰を持って受け取ることが大切です。パウロは、そのことに気づかせて、求めるように導くために、「神を知るための知恵と啓示の御霊をあなたがたに与えてくださいますように。」と祈ったのでしょう。

 また、前回、言いましたが、イエス様は聖霊について言われた時に、こう話されました。ヨハネ14:26に、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」とあります。このところからも、聖霊は、私たちに教えてくださるお方であると言うことがわかります。パウロが神を知るための知恵と啓示の御霊を与えてくださるようにと言っているのは、この事であると思います。

 さらに、Ⅰコリント12章に聖霊の賜物について書かれています。また、働きの役割分担についても書かれています。そして、それらは体の各器官として描かれています。各信者に神によって与えられた賜物(力や能力)があります。生まれつき与えられているものもあれば、努力して与えられたものもあります。さらに、聖霊の賜物として与えられたものもあります。私たちには人としての知識や知恵、考えたり理解したりする能力をクリスチャンになる前から与えられています。しかし、神様のことを知るために人としての能力だけでは十分とは言えません。聖霊の助けや聖霊の導き、ここでパウロが言う御霊による知恵と啓示もまた必要なのです。そして、私たちはそれらを頂いて、もっと深く神様のことや神様の奥義について知ることができるのです。

 礼拝や聖書の学びにおけるメッセージや教えや証しは、私たちに導きを与えたり、力となったりします。また、聖書辞典や聖書注解書や信仰書も同様です。しかし、神様と自分との間に人や書物などの媒体を挟むことなく、祈りと聖書と聖霊の導きによって神様を深く知ることも、信仰の成長や自立のためにとても必要なことです。

■18節 私たちの心の目がはっきり見えないことによって、私たちが見落としてしまう、または、気づかないままでいる、神様からの賜物や祝福や恵みがあるようです。ですから、パウロは、「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになるように。」と祈っているのです。Ⅰヨハネ2:16に、「目の欲」と言うことばがあります。この目とは、肉の目、肉眼のことでしょう。私たちの目は、この世の中で見える物なら何でもとらえることが出来ます。美しいものや奇麗なものを見ることが好きですし、美味しいものやおもしろいもの、かっこいいものを見るのが好きです。それらを見て私たちは楽しみます。また、私たちは私たちが見るものの中から何か価値あるものを見つけたりお金になるものを見つけたりして、それが欲しいと思ったら手に入れようとします。そうなってくると、私たちが肉の目で見える世界は私たちの欲しいものでいっぱいになって来ます。それがいつの間にか制御できない欲望になってしまったりすることがあります。神様がよしとされる境界線を越えてしまうと問題が起こり始めます。アダムとエバは、そのようにして境界線を越えてしまいました。このように、私たちは肉の目によって、いつの間にか制御不能に陥ってしまうことがあるのです。

 私たちには肉の目の他に心の目があります。心の目は一体何を見るのでしょうか。心の目には見えないものを見る力があるのだと思います。肉の目は見える物に対するその価値を見出しますが、心の目は見えないものに対するその価値を見出します。私たちがこの世界で見える物にあまりにも大きな価値を見出してそのことに心が支配されてしまうと、目に見えなくても、もっと価値のある大切なものを見失ってしまいます。ですから、パウロは祈っているのです。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、あなたがたが知ることができますように。」と。心の目には役割があります。それは、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを、はっきり見ることです。しかし、その目の働きを妨げるものがあります。それは、肉の目です。この世の中に満ちている素晴らしいものに目が奪われて、夢中にされているために、目には見えないけれども、もっと大切な価値あるものに心の目が反応できないでいるのです。日本人の多くが今そんな状態です。

■19節 肉の目に妨げられて見えないものが、もう一つあります。パウロは祈っています。「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」と。イエス・キリストは十字架の上で私たちの罪に代わって死んでくださいました。けれども、三日目によみがえられました。これは、全能の神の力によるものです。そして、そのことを信じる私たちにもまた、この偉大な全能の力によってよみがえらせてくださるのです。私たちはすべてがわかったわけではありませんが、心の目によって、また、知恵と啓示の御霊の助けによって、このことを信じているのです。

 心の目は、クリスチャンでもそうでなくても、みなが持っています。しかし、クリスチャンの心の目はかなり強化されています。何によって強化されているのかと言うと、聖霊によってです。私たちの心の目は前よりも機能が増えているはずです。たとえば、以前は気づくこともなく平気で行なっていたことを、今では、それは良くないことだと気づかされて、改めたことってありませんか。多くのクリスチャンからそのような証言を聞いています。私にもそのような経験がたくさんあります。女性に対する態度とか、妻に対する態度とかです。時間がないので、具体的には言いませんが、たくさんあります。

■私たちは神を知るための知恵と啓示の御霊を受けています。私たちが知恵と啓示の御霊によって神を知れば知るほど、私たちの心の目の機能は強化されて、さらに、神を知るようになりますし、また、私たちの思いや行動も変えられて行きます。神の働きを妨げていた者が、そうではなくて、神の働きの助け手として主の働きのために大いに用いられていくようになるのです。エペソのクリスチャンのように、また、エペソの教会のように、私たちも、ますます、そのように進んで行きたいと思います。それではお祈りします。