ゆとりを与えてくださる神

2021年9月26日主日礼拝「ゆとりを与えてくださる神」詩篇4:1

佐々木俊一牧師

「私を呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。」

■人生を1日にたとえるならば、私の人生は現在、1日のどのあたりに当たるのかを割り出してみました。人生80年として、私は今64歳ですから夜の7時半くらい、夏であれば外はまだ明るいけれども、冬になるともう真っ暗です。

 人の齢には限りがあります。詩篇90:10に、「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」とあります。このところはモーセの祈りの一部です。モーセの時代の平均寿命は70才くらいだったのでしょうか。長生きする人は80才くらいまで生きたのでしょうか。しかし、モーセ自身は120歳まで生きた人でした。

 それに比べると、創世記の人々は長生きでした。創世記5章を見るとびっくりするほど長生きです。けれども、6章に入ると、神様はおもしろいことを言っています。3節に、「わたしの霊は永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人は肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう。」それから、ノアが600歳になった時に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂けて、天の水門から水が大雨となって40日40夜、地の上に降ったと書いてあります。これがノアの大洪水です。創世記1:7を読むと、神様は大空をつくり、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別されたと書かれています。神様が天と地を造られた時、大空の下と大空の上には水の領域、水の層があったかのように語られているのです。どのようにしてあったのかは明らかではありません。しかし、大空の上にあった水の層は張り裂けて地の上に大雨となって注がれ、大空の上にあった水の領域は消滅してしまったということになります。このノアの大洪水の後から、人間の寿命はだんだんと短くなり、創世記6章にあるように、長くても120年になっていきました。アブラハムは175歳、イサクは180歳、ヤコブは147歳、ヨセフは110歳で死んだ、と聖書には書かれています。神様が言われたように、人の寿命は徐々に120歳に近づいて行きました。

 最近のニュースで言っていました。日本では現在、100歳以上の人が8万人を超えたそうです。そのうち、88%が女性です。最高が117歳です。聖書の通りですね。ちなみに、北海道はおよそ4000人もいるそうです。

■先ほど読んだ詩篇90篇で、長生きしたとしても、その誇りとするところは労苦とわざわいであり、それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去って行くのだ、とモーセは言っています。そう考えると、人生というのは本当に短い間のことであり、何と空しいものだろうかと思えてしまいます。労苦とわざわいを繰り返しながら、人生の結末を迎えることになるとしたら、それは、本当に悲しい運命としか思えません。

 モーセが生きた120年間は、彼にとって労苦とわざわいに満ちた大変な人生であったのだと思います。しかし、神の計画の中でモーセが果たした役割は非常に大きなものでした。モーセによって残されたモーセ五書や、そこに描かれた多くの人物や出来事の中に、神様の救いと救い主なるお方の到来の約束が人類のために備えられていました。そう考えると、モーセの受けた労苦とわざわいは彼自身にとっては非常に苦しいことであったけれども、それによって、人類の救いの計画が構築されて進んで行ったのです。それはついに、救い主なるイエス・キリストが人となってこの地上に来られ、十字架にかかって死んで三日目によみがえることによって実を結んだのです。

 このように、神様の計画のために用いられる人々の人生がいかに労苦とわざわいに満ちたものであったとしても、それはけっして、それだけで終わってしまうことではないのです。それらには目的があり、その人々への報いもちゃんと天の御国に用意されています。それは、私たちにとっても同じことです。何でこんなことが起こるのだろうかと思われることについて、この地上にいる時にはその理由がわからないとしても、天のみ国に行った時には明らかにされることであると思います。そして、ちゃんとその報いを受けるのです。

■今、私たち自身の人生をふり返ってみたいと思います。私たちの人生は、ふり返ると、どうだったでしょうか。労苦とわざわいの連続だったでしょうか。でも、多少は楽しいことや嬉しいこともあったのではないでしょうか。

 私の場合を少しお話ししたいと思います。私がイエス様を信じて生きて行こうと決心したのは、22歳の時でした。クリスチャンとして歩み始めた頃は、特に熱心に神様を求めたり、聖書を学んだりということはありませんでした。ただ、教会という場所がそれまでに経験したことのないほどに、居心地の良いところであったということです。はっきり言って、親の家よりも居心地がよくて、教会での交わりが楽しかったのです。

 1980年頃は、まだ教会が社会の中でもちょっと流行の先端を行っているような印象が私にはありました。教会に行けば、手作りの美味しいケーキやパイを食べることができました。お店に売っているのよりも、ずっと美味しかったのを覚えています。安い料金で英語も習うことができました。当時はアメリカやヨーロッパなどの外国に憧れていましたから、外国人に会える機会があるというのは魅力的なことでした。ですから、私は、水曜日の夜の祈祷会は必ず出ていましたし、土曜日の夜から教会に泊まり込んで次の日の準備をしていました。それがとても楽しかったのです。日曜日の朝になると、9時から教会学校のヘルパーをしていました。10時半から12時半までは礼拝です。1時間くらいのメッセージは普通で、眠い目をこすりながら真面目に聞いていました。それが終わると、昼食をみんなで一緒に食べて、その後、みんなでボーリングや遊びに出かけたりしていました。夏にはキャンプ、冬にはクリスマスディナーパーティがありました。当時としては世の中のイベント以上に楽しめる場であったように思います。

 しかしながら、そのような楽しみがあったにもかかわらず、2年、3年と時が経つにつれて、いろいろな悩みが生じて来たのも事実です。長くいると奉仕も増えていきます。人間関係の問題も出てきます。お互いにお互いの言動に傷ついたこともありましたし、つまずいたこともありました。私自身の心や罪の問題が自分を苦しめたり、他の人に迷惑をかけたりしてしまうこともありました。逆に、他の人の心や罪の問題によって苦しめられたり、迷惑を被ったりすることもありました。そんな中で、私は以前よりも神様の導きや助けを求めるようになりました。将来の自分の進路や信仰生活についても真剣に考え、決断しなければならない時が来ていました。24歳頃のことです。その時、私は、神様の事をもっと知りたいと思うようになりました。また、神様の自分へのみこころは何だろうか、と考えるようにもなりました。そして、以前よりも、聖書を読んだり、祈ったりする機会が多くなっていきました。

 このようなことをきっかけに、私自身の内面に変化がありました。以前の私は、思い煩ったり、悩んだり、心配したり、不安や恐れにとらわれたりすることがよくあったのですが、そのような状態が軽減されていきました。自分の思い通りに行かないことがあっても、自分のことが認められていないように思えても、自分が粗末に扱われているように感じても、そんなに心が揺れ動かなくなりました。意識が自分に向かうのではなくて、神様に向かうようになったことが良かったのだと思います。神様がともにおられるのだから大丈夫とか、人は自分を認めてくれなくても神様は認めてくれるからそれだけで十分とか、人が自分をどう扱おうとも最終的には神様のみこころがなるのだからそれまで我慢しようとか、神様のみこころがなるならばそれだけで大成功とか、神様に従っている限り自分は何によっても揺るがされることはないとか、このように、自分のことを意識するのではなくて、神様のことを意識するように導かれたのです。そのことは、私自身の精神的な弱さをカバーしてくれたと思います。また、以前の否定的で破壊的な思いや感情を軽減し、プレッシャーを和らげてくれたと思います。実際に、以前よりも、人間関係が随分楽になり、楽しいものになりました。このように、神様との関係が深まれば深まるほど、私たちの否定的で破壊的な感情や思いは軽減され、より安定した歩みへと導かれるのです。

■詩篇4:1を見てみましょう。神様は私たちの祈りや叫びに応えてくださるお方です。ダビデが苦しみの中にあった時に、ダビデは神様に祈り求めました。そうしたら、神様はそれに応えてくださって、その結果、ダビデはこう言うことができたのです。「あなたは私の苦しみの時にゆとりを与えてくださいました。」と。私はこの言い方が大好きです。「あなたは私の苦しみの時にゆとりを与えてくださいました。」もっとわかりやすく解説するならば、「あなたは私の苦しみを和らげてくださり、恐れや不安に翻弄されることなく、落ち着いていられるようにしてくださいました。」と言うことです。神様は苦しみの中にいる私たちのことを憐れんでくださり、その苦しみに押しつぶされることのないように守ってくださるお方です。その苦しみの中に私たちがいる間、私たちがその苦しみに耐えられるように神様は私たちと共にいて支えてくださるお方です。

■詩篇4:3 主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ、と言っています。聖徒とは誰のことですか。ここではダビデのことでしょう。しかし、主イエス・キリストを信じる私たちはみな聖徒です。そして、私たちは特別に扱われるのです。特別に扱われるとは、大切に扱われるということではありますが、それは、私たちが思っている以上のことを意味しています。私たちが神様に呼び求める時、神様は聞いてくださると言っています。だとしたら、神様が私たちに呼び求める時、私たちも神様に聞く者であるべきだと思いませんか。私たちは神様に大切に扱われています。だからこそ、この点において、父なる神様の訓練があることも意味しているのです。

 へブル12:5~6にこう書かれています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」このところはもともと、箴言3章にあることばです。懲らしめとは、訓練を意味しています。自分の罪がもとで痛い目に合うのはこれは当然のことです。この時に、しっかりと訓練を受けて悔い改めて再度前に向かって進むべきです。けれども、時として、他人の罪のためにわざわいが降りかかってきたり、特に何もしていないのにわざわいに襲われたりすることもあります。このような時、私たちはどんな気持ちになるでしょうか。私が何をしたと言うのでこんなことが起こるのですか、と言って、もしかしたら怒ってしまうかもしれません。怒るまでは良しとしましょう。でも、私たちは怒りにまかせて罪を犯すことのないように気を付けなければなりません。さらには、このような時でさえも、私たちは自分の心を調べ、静まって主を覚えるようにするのです。そして、このような時でさえも、ただ主に信頼し、主の正しさに従うようにするのです。これこそが、詩篇4:5にあるように、義のいけにえをささげるということなのです。誰かに八つ当たりしたりしたくなるような、そんな時でも、ただ、主に信頼して主の正しさに従うことが、義のいけにえをささげることです。できそうもない状況の中で、主の正しさを行うことが義のいけにえをささげることなのです。そして、主に信頼して主を待ち続けるのならば、主は見えないところで働いてくださいます。主が必ず私たちに主の平安と喜びを戻してくださいます。私たちが主に従っているのならば、主は必ず私たちの心に平安と喜びを与えてくださいます。私たちのうちに平安と喜びがあるときは、だいたい、私たちが主に従っているときです。労苦やわざわいの中にあって、主に信頼して主を待ち望むときに、主は必ず私たちの心に喜びと平安を戻してくださいます。

 へブル12:11にこう書かれています。「すべての懲らしめは、その時は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるのですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」とあります。先ほど、詩篇4:5に義のいけにえというのがありました。主の正しさに従うことが難しい時に、それでも主の正しさに従うこと、それが、義のいけにえをささげることです。これは、主が私たちに与える一つの訓練です。私たちが義のいけにえをささげることを通して、私たちは平安な義の実を結んでいきます。また、それは、私たちの苦しみの時に、主が私たちにゆとりを与ええくださるので、そのようにできるのです。神様は、私たちが苦しみにある時にゆとりを与えてくださるお方です。ですから、私たちは苦しい時にも神様に従って行きたいと思います。それではお祈りします。