約束の聖霊

2021年9月12日主日礼拝

「約束の聖霊」エペソ1:8~14

メッセンジャー:佐々木俊一牧師

■使徒の働きの後半を見るとわかるように、ユダヤ人に捕えられて殺されかけたパウロは、ローマ軍による取り調べを受けることになりました。その後、パウロはカイザリアに移送されて、少なくとも2年間をそこで過ごすことになりました。パウロはその間に、総督や王の前で救い主イエス・キリストと自分の体験を語る機会が与えられました。こうして、パウロが救い主イエス・キリストを受け入れたときにアナニヤによって語られたパウロへの預言のことばが成就したのです。そして、パウロは、ユダヤ人による裁判を回避するために、ローマ皇帝カイザルに上訴しました。この時もまた、パウロが神様によって言われたように、不思議な導きの中、ローマへ向かって出発することになるのです。ローマへの船旅は命がけの旅となりましたが、激しい嵐で船は座礁したにもかかわらず、乗員も囚人もすべての人の命は失われることなく、ついにローマに到着することができました。そして、それから2年間は拘束状態ではあるけれども、ある程度の自由が与えられてユダヤ人や異邦人に神の国を宣べ伝えることができたのでした。この時に書かれた手紙が獄中書簡と言われるもので、前回言ったように、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙がそうです。それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■8節 「この恵み」とはどんな恵みを言っているのでしょうか。それは、前の節を見ればわかります。神の御子イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪の代価を代わりに支払ってくださり、それにより私たちを罪のない者、つまり、罪赦された者としてくださり、神の子としてくださったことです。私たちにはこの恵みがあふれるほどに、気前よく、豊かに与えられているのです。それは、神様の愛と知恵と思慮深さによって成し遂げられたことなのです。

■9節~10節 「奥義」とは何を指して言っているのでしょうか。それは、神様が御子イエス・キリストにおいてあらかじめ立てていた計画のことです。その計画について神様は私たち(ここで言う私たちとは、ユダヤ人のこと)にずっと時間をかけて知らせてくださったことである、とパウロは言っています。神様はどのようにその奥義を知らせてくださったのでしょうか。それは、まず、旧約聖書を見ればわかることでしょう。旧約の一つ一つの書を通して、ユダヤ人の歴史の中に、慣習の中に、人物の中に表され、そして、預言者たちの言葉を通して知らされてきました。救い主の到来と救いの計画(十字架の死と復活)、および、その救いはユダヤ人だけにとどまらず異邦人にまでおよぶという奥義が、旧約聖書の中に見ることができるのです。

 そして、その奥義は、時がついに満ちて実行に移されました。神の御子、救い主なるイエス・キリストはこの地上に人として来られ、そのことばと行動、十字架と復活によって、その奥義は明らかにされたのです。さらに、パウロに与えられた啓示によって、その奥義というものがもっとはっきりとわかるように示されました。その奥義は、天にあるものも地にあるものもすべてのものがキリストにあって一つとされるために実行されたのである、とパウロは言います。エペソ人への手紙を通してパウロが伝えたいことの一つは、キリストにあってユダヤ人と異邦人が一つとされ、一つの神の家族となることであると言えます。神様がそのことを考えた上での神様の奥義、神様の計画を、エペソ人への手紙を通して私たちは受け取らなければならないと思います。

■11節 「私たちはキリストにあって御国を受け継ぐ者となったのです」とありますが、御国を受け継ぐ者として「選ばれた」、あるいは、「あらかじめ定められていた」と言う意味を含んでいるようです。私たちがイエス・キリストを救い主として信じることを選んだと言う事実があるのだけれど、それは、すべてを知っておられる神様にしてみると、私たちがそのような選択をすることをすでに知っていたことであって、私たちが選ぶ前に神様がすでに私たちを選んでおられたと言う事実でもあるのです。イエス様が、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(ヨハネ15:16)と言われたのを思い起こします。

■12節 「前からキリストに望みを置いていた私たちが」とありますが、ここにある「私たち」とは、9節にあった「私たち」と同じでしょう。それは、パウロも含めて、ユダヤ人の人々のことです。彼らユダヤ人は、キリストがこの地上に人として来られる以前からキリストに望みをおいて待ち望んできた人々です。キリスト・イエスのなされたみわざのゆえに、彼らユダヤ人が神の栄光をほめたたえることは、神様が望んでおられることなのです。

■13節~14節 ユダヤ人を通して現わされた神の奥義は異邦人にも及び始めました。それは、五旬節の日に聖霊が降臨されて以来、はっきりと現わされたのです。キリストの福音を聞いて信じる者はみな、ユダヤ人も異邦人も、約束の聖霊を受けました。その聖霊が神様の約束の印であるとパウロは言っています。ですから、キリストを信じる私たちはみな、目には見えませんが、約束の聖霊をもって証印を押されている者なのです。約束の聖霊は私たちが(約束の地である)神の御国を受け継ぐことの保証であるとパウロは言います。

 また、聖霊は神の民の贖いのためである、とパウロは言っています。「贖う」には、いくつかの意味があります。一つは、「買い戻す」と言う意味があります。人手に渡ってしまった親類の土地・財産等を、彼らに代わって買い戻すことです。二つ目には、身代金を払って奴隷を自由にすることです。三つ目には、神様に動物などのいけにえをささげることによって、罪のつぐないをし、罪を赦してもらうことです。三つともに代わりに代価を支払ってもらうことです。神様は私たち人間をサタンの手から買い戻すために、神の御子イエス・キリストの血潮をその代価として支払いました。また、神様はサタンの奴隷、罪の奴隷となってしまった私たち人間を自由にするために、神の御子なるイエス・キリストの命を身代金として支払いました。そして、救い主イエス・キリストは人の罪の償いと赦しのためにご自身の体をそのいけにえとしてささげました。そのことのゆえに、イエス・キリストを信じる者は聖霊を与えられ、聖霊は贖われたことの印なのです。

 神の栄光とは、イエス・キリストの十字架の死と、死からの復活に現わされた贖いのわざなのです。続いてそのことを信じる者たちが聖霊を受けて贖われることも含めて神の栄光であり、奥義なのです。一連のこれら神様のみわざをほめたたえることは、神様が望んでおられることであり、喜ばれることなのです。

■約束の聖霊 今日のメッセージのタイトルは、「約束の聖霊」です。「約束」とはどういうことなのでしょうか。何が約束なのでしょうか。「約束」と言うと、旧約聖書では、「約束の地、カナン」を思い起こします。創世記12章と13章を読むと、神様は確かに、アブラハムとその子孫に永久にカナンの地を与えることを約束しているのです(創世記13:14~18、縦と横に歩き回りなさい⇒十字架)。そして、その約束の印としてすべての男子に割礼を施すこと(創世記17:10~14)を神様はアブラハムに命じました。その約束と割礼と言う慣習はアブラハムの子孫であるイスラエルの民に継承されました。そうして、イスラエルの民はどんな時もその約束を希望として持ち続けて来たのです。

 神様の約束はこの地においても天においても成就すると私は信じています。イスラエルの民にとっての約束の地は、霊的には、私たちクリスチャンにとって神の御国です。イエス・キリストを信じる者は神の御国を受け継ぐのです。そして、イスラエルの民にとっての約束の印である割礼は、霊的には、私たちクリスチャンにとって聖霊です。聖霊は、信じる者が神の御国を受け継ぐことの保証、印なのです。

 聖霊についての約束は旧約聖書にも見ることが出来ます。イスラエルの慣習や祭りの中にも見られますし、旧約の預言者や王様に関わる出来事の中にも見られます。また、詩篇の中にあるダビデのことばや預言者たちのことばの中にも見ることが出来ます。たとえば、エゼキエル11:19を見てみましょう。「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」とあります。下の注釈を見ると、エゼキエル書の他の箇所やエレミヤ書やヨエル書などに聖霊が与えられることに関連した箇所があります。「新しい霊」とは、聖霊のことです。石の心とは、イスラエルの民の頑固さ、あるいは、石に刻まれた十戒に代表される律法です。そんな心の代わりに肉の心を与えると言っています。肉の心とは、肉欲的な思いに満ちた心の事ではありません。硬い石に刻まれた決まりによるのではなくて、生身の人間の心に新しい霊を与えると言うことです。Ⅱコリント3:4を思い起こします。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。」律法は人を罪に定め、人に死の裁きを宣告するものです。けれども、御霊は人の罪を赦し、人を永遠に生かすものなのです。

 イエス様ご自身も約束の聖霊について重要なことばを残しています。たとえば、ヨハネ14:16~17です。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおあられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたと共に住み、あなたがたのうちにおられるからです。」そして、ヨハネ14:26では、その方のことをはっきりと聖霊とイエス様は言っています。「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」このように、イエス様ご自身が聖霊が来られ、信じる者のうちに住まわれることを約束しておられるのです。

■私事になりますが、母が高齢者施設に入ってから8年くらいになります。それまでは、母の家に家族でよく遊びに行ったものです。多くの思い出があり、帰るところがあるというのは本当に感謝なことでした。ところが、母が施設に入ることにより、帰る家がなくなると、とても寂しい気持ちになりました。しかし、この地上の家や土地を失ったとしても、私たちの取り分は十分に確保されています。聖霊が私たちの取り分であり、天の故郷、神の御国が聖霊によって保証されていることは、私たちにとって大きな希望なのです。  

■コロナパンデミックは、もう2年になろうとしています。その中で私たちが見るいろいろな出来事を通して、人の命のはかなさや、どんなに大きな幸せや成功をつかんだとしても、それらはいつまでも続くものでないことを思い知らされるのです。何と多くの有名人がこのコロナ禍において亡くなられたでしょうか。また、コロナによって自宅療養中に亡くなってしまうという悲惨な出来事が最近起こっています。医療従事者の方々は大変なご苦労をしています。にもかかわらず、このようなことが起こると、私たち人間の力の限界を感じずにはいられません。しかし、そのような中にあっても、神様の内に秘められた計画は止まることなく進んでいることを覚えます。私たちはこの地上のことだけに心捕らわれるのではなくて、目には見えないけれども確かな希望に目を向けていきたいと思います。約束の聖霊が私たちのうちにいて私たちと共に生きてくださっています。私たちにとって一番重要なものはすでに手に入れているのです。その大きな幸いを覚えたいと思います。それではお祈りします。