私たちが待ち望んでいるのは

2021年8月22日主日礼拝

「私たちが待ち望んでいるのは」ピリピ3:20~21 佐々木俊一牧師

■今日は召天者記念礼拝です。いつもは幕で覆われている絵ですが、今日は幕が上がっているので皆さんの目にはっきりと見えていると思います。富田敬二先生が描いた絵です。私はこの絵が大好きです。1年に1度はこのようにして見ることは、とても価値のあることだと思います。いつも言うのですが、私たちクリスチャンが目指すところはここにあるのだと思います。この絵によって、とても祝福されます。信仰に堅く立つように促されますし、希望がここにあるのだと再認識させられます。実物のイエス様にお会いするのは、私たちにとって最高の喜びです。

 天国と言うところは、イエス様が大好きな人々が集まるところです。天国にはイエス様が嫌いな人は一人もいません。なぜならば、イエス様が嫌いな人にとって、天国に住むことは我慢できないことだからです。イエス様をいつも直に感じるのですから、当然と言えば当然です。それでは、今日の聖書箇所を見て行きましょう。

■20節 パウロは、「私たちの国籍は天にある」と言っています。先日、東京オリンピック2020が行なわれました。世界中から206か国の人々が参加しました。ちなみに現在の世界の国の数を検索してみたところ、196か国という結果でした。数が合わないのですが、いろいろな事情があるのだと思います。とにかく、世界にはこれだけ多くの国々が存在します。オープン・ドア・チャペルには、国籍がアメリカにある人もいれば、カナダにある人もいます。また、イギリスにある人もいれば、日本にある人もいます。しかしながら、この地上では国籍は違っていても、クリスチャンはみな共通の国籍を持っています。それは、天国です。私たちは天国の市民権を持っているのです。イエス様は十字架に架けられる前にローマ総督、ポンテオ・ピラトに向かって言いました。「わたしの国はこの世のものではない」と。「つまり、天にあるのだ」と。私たちクリスチャンの国籍は、イエス様が王としておられる天にあるのです。そのところから主イエス・キリストが救い主としてこの地上にまたおいでになる、とパウロは言っています。

 イエス様は人類の救いを成し遂げるために、およそ2020年前に人となってこの地上に来られました。そして、人類のすべての罪の責任を取って十字架にかかって死なれました。しかし、3日目に復活して、弟子たちと多くの人々の前に40日の間現れました。その後、イエス様は地上に再び戻って来ると言って、エルサレムの近くにあるオリーブ山から天に昇って行かれました。今から1990年くらい前の出来事です。イエス様のことばのとおりに、イエス様は再びこの地上に戻って来ます。2度目の来臨、あるいは、再臨と言われている出来事です。

 パウロは言っています。「天から主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」と。これは、パウロとパウロの時代のクリスチャンだけが信じていることではありません。この信仰は、今生きているクリスチャンにも継承されている信仰です。私たちは、天から主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望むという信仰を継承しているのです。

■救い主(メシヤ)を待ち望んでいる人々は、世界に2種類の人がいます。それは、クリスチャンとユダヤ人です。旧約聖書では、救い主(メシヤ)来臨の預言を多く見つけることが出来ます。と言うよりも、旧約聖書全体が救い主の来臨についての書であると言って過言ではありません。

 ところで、多くのユダヤ人は、救い主(メシヤ)の到来は1度限りのことであると理解していることを、みなさんは知っているかと思います。長い間他国の支配下にあって苦しんできたユダヤ人にとって、救い主(メシヤ)のイメージは、異邦人の国々を裁き、その支配からユダヤ人を解放し、ダビデの子孫である救い主(メシヤ)を王とする神の国を建国してくださる力強いお方なのです。ですから、彼らにとって、十字架に架けられてしまったイエス・キリストが救い主であるはずがないのです。けれども、神の計画は人の思いをはるかに超えたものでした。そのヒントは旧約聖書の中にイザヤ書53章をはじめ、いろいろな箇所にちりばめられています。救い主(メシヤ)はこの地上に1度だけではなくて、2度来られるのです。一度目は、十字架にかかってその死によって全人類の救いの道を成し遂げるために、そして、二度目は、この世を裁き、イエス・キリストを信じる者とユダヤ人を救うために、力強い王の王としてこの地上に来られるのです。

■21節 「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって」とあります。イエス様は神なるお方です。ですから、イエス様にとって不可能なことは何もありません。イエス様は公生涯の3年半の間にも、カナでの結婚式の時に、水をワインに変えるという奇蹟をなさいました。また、イエス様は5つのパンと2匹の魚を祝福して、男だけでも5000人以上の人々が満腹するまで食べさせ、それでも、12個の籠にパンくずが余るほどの奇蹟をなさいました。また、弟子たちだけで舟に乗って向こう岸に行こうとしていた時に嵐に見舞われ、その時にイエス様は水の上を歩いて舟に乗り込み、嵐を叱りつけると嵐は収まりました。また、イエス様は多くの病人をいやし、悪霊に憑かれた者たちから、悪霊に命じて悪霊を追い出しました。イエス様にはすべてを従わせることのできる御力がありました。その御力によって死ぬべき私たちの体をも死ぬことのないイエス様と同じ復活の体へと変えてくださるのだ、とパウロは言っているのです。

 そのようなことがいつ起こりますか。Ⅰコリント15:51~52にこう書かれています。「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」と。ここでパウロは奥義を伝えています。奥義とは、ミステリーとかシークレットです。何か神秘的で重要な秘密事項、不思議な事柄です。終わりのラッパが鳴ると一瞬のうちに死者は朽ちないものによみがえり、その時生きている者は朽ちないものに変えられる、とパウロは言っているのです。

 また、Ⅰテサロニケ4:16~17にはこう書かれています。「主は、号令と、み使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主と共にいることになります」と。この時のことを富田先生はこの絵に描きました。ここにオープン・ドア・チャペルのメンバーが描かれています。私たちが知っている人もいます。また、知らない人もいます。そして、この絵には続きがあります。ここに描かれていない人たちも入っています。いつになるかわかりませんが、確実に、将来、先に天に召された方々と顔と顔とを合わせてお会いすることになるのです。

 みなさん、福音を語りましょう。この人にイエス様のことを語ったら、絶対、関係が悪くなるとか関係が壊れるとか、そのような心配があってなかなか語れないと言う現実があります。けれども、さらっとでいいですから、語りましょう。その時に、イエス様を信じますと言わなくても、その人がこの地上を去る時、意識がもうろうとしているときでさえも、イエス様のことを思い起こしてイエス様のことを信じる可能性があるのです。ですから、機会をとらえて、さらっとイエス様のことを言っておいてください。

■先ほど、Ⅰコリント15:51~52とⅠテサロニケ4:16~17を読みました。そこに書かれていた共通のことばとして、「ラッパが鳴ると」とか「ラッパの響き」と言うのがありました。ユダヤには3大祭りと言われている、大きな祭りがあります。AD70年にエルサレムがローマ軍によって陥落するまでは、毎年のように、ユダヤ人たちは世界中からエルサレムの町に集まってこれらの祭りを祝っていました。現在も、祝っているのです。春には過越しの祭りと七週の祭り(五旬節)があります。それぞれに、霊的な意味があって、イエス・キリストの十字架の贖いと聖霊降臨を表しています。それについては以前にお話ししました。そして、その大きな二つの祭りの間に、種を入れないパンの祭りとか、初穂の祭りと言うのがあります。特に、イエス・キリストが復活した週の初めである日曜日に行なわれていた祭りが、「初穂の祭り」でした。イエス様は死からよみがえられた者の初穂である、とパウロは言っています。初穂の祭りとは、その事を表しているのです。

 さらに、秋の大きな祭りとして、「仮庵の祭り」があります。以前、言いましたが、この仮庵の祭りは、受肉されたイエス・キリストを表していると言うお話をしたことがありました。つまり、これは、イエス・キリストの一度目の来臨を表しているのです。そして、これはまた、イエス・キリストの2度目の来臨も表していると言えるでしょう。実は、秋に行なわれる祭りの中に、仮庵の祭りの前に行なわれる、ラッパの祭りと贖罪の日と言うお祭りがあります。ラッパの祭りはイエス・キリストを信じる者たちがラッパの響きとともに一瞬にして朽ちない体によみがえらされると言う出来事と関係のあるお祭りではないでしょうか。そして、その後に続くと思われることが、ゼカリヤ書14章です。救いに与った異邦人とユダヤ人が一つにされてこの地上をイエス様と共に治めるのです。キリスト教神学の中に千年王国という用語があります。千年王国のとらえ方にはいくつかあります。どのとらえ方にしても断言はできません。ことばとして出てくるのがヨハネの黙示録20章です。また、それを表している箇所が旧約聖書の中にも断片的に見つけることが出来ます。

 ところで、ユダヤ人にとっての神の国の完結は、ダビデの子孫がメシア(救い主)としてこの地上に生まれ、王となって永遠にこの地上を治めると言うものです。しかしながら、クリスチャンにとっては、それが終わりではありません。ヨハネの黙示録20章から22章までを文字通りに理解するならば、その続きがあるのです。

 イエス様が2度目にこの地上に来られた時には、この世への裁きとイエス様を信じる者たちへの救いが実現します。そして次に、悪魔に対する裁きと最後の審判です。それからヨハネの黙示録21章に入って行くと、新しい天と新しい地が天から下って来る様子が描かれています。たぶん、この新天新地が私たちにとっての永遠の住まいとなるところなのだと思います。

■私たちが待ち望んでいるものは何でしょうか。私たちの絶対になくなることのない希望とは何でしょうか。私たちは今どこに希望を置いているでしょうか。もちろん、私たちには、この地上にも希望が必要です。それが、家族であったり、仕事であったり、夢や計画であったりすると思います。人によってそれぞれあるでしょう。しかし、それよりも、クリスチャンが共通して持っている希望、けっしてなくなることのない希望、何よりも重要な希望があります。それが、この絵です。富田先生が残してくれたこの絵なのです。たとえ、この地上では自分の思い描くように事がうまく行かないとしても、何よりも価値のあるこの希望を私たちはすでに手に入れているのです。

 イエス様は、救い主として天から下って来られます。その時に、ラッパの響きと共に朽ちることのない体、永遠の命を受けるのです。その時から私たちはいつまでもイエス様と共にあります。私たちにとって、これこそが何よりも重要な希望であることを覚えて、どんな時にも失望せずに進んで行きたいと思います。

■私たちには、私たちの愛する人々が先にこの地上を去ってしまったと言う悲しい現実があるかもしれません。しかし、聖書によるならば、それは、いつまでも続きません。また、会えると言う希望は、絵にかいた餅ではなくて、将来、必ず、実際に味わうことのできる希望であることを覚えて行きたいと思います。

 私たちが待ち望むのは、主イエス・キリストが救い主として天からおいでになることです。主イエス・キリストにお会いすることは、私たちにとって何にもまさる喜びです。そして、愛する人と再会することもまた、私たちに与えられている希望であり、楽しみとするところです。そのことを覚えて、神様に信頼して進んで行きましょう。それでは、お祈りします。