天にあるすべての霊的祝福

2021年8月8日主日礼拝「天にあるすべての霊的祝福」エペソ1:1~7

佐々木俊一牧師

 

■8月から月に一度、エペソ人への手紙1章から6章を一緒に見て行きたいと思います。エペソ人への手紙を読むと、恵みということばが他の手紙よりもたくさん出てきます。今日は、この恵みについて特に見ていきたいと思います。

■エペソ人への手紙は、パウロがAD62年頃、ローマで投獄されている時に書いた手紙です。ですから、これを獄中書簡と呼んでいます。他に、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙も同じように獄中書簡と呼ばれています。

 使徒の働き28章を見ると、「(パウロは)大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」で終わっています。パウロはこの時、投獄中とはいえ、ある程度の自由が許された軟禁状態にあったのだと思います。そして、それから数年後、パウロはあの悪名高きローマ皇帝、ネロによって殺されました。伝承では、パウロはネロによって斬首されたと伝えられています。しかし、使徒の働きの終わりには、そのようなことは一切触れられていません。なぜならば、使徒の働きはパウロの死で終わるのではなくて、次の世代に引き継がれていくからです。そうして、パウロの死後も神の働きは全世界に向けて進んで行ったのです。その働きは何によっても妨げられることなく、西回りですでに日本にも福音が宣べ伝えられています。

■エペソの教会は、コリントの教会と同様に、パウロの働きをとおして教会として確立しました。パウロはコリントに1年半とどまって働きをしていたことが、使徒の働き18章に書かれてあります。また、エペソには3年とどまって働きをしていたことが、使徒の働き20章をとおしてわかります。コリント人への手紙には、コリントの教会の多くの問題について書かれてあります。コリントの教会には、分裂・分派、不道徳、偶像礼拝、異端などの問題がありました。それらの問題への対応をパウロは手紙に書いているのです。それに対して、エペソ人への手紙を見る限り、コリントの教会のような問題があったようには思えません。比較的落ち着いた教会であったように思われます。

 しかしながら、ヨハネの黙示録2章によるならば、エペソの教会にも大きな問題があったことがわかります。それは、主イエス・キリストの愛と恵みから離れてしまった状態、信仰と恵みによる義ではなくて行いによる義を主張する律法主義的な傾向が生じていたことです。パウロが関わっていた頃には、まだそれらの問題が現われていませんでした。しかし、パウロが死んで、ヨハネが関わるようになった頃にはそういった問題が生じて来ていたのでしょう。使徒の働き20章で、パウロはエペソの教会の長老たちとのお別れの際に最後のことばを語りました。そのパウロのことばから推測すると、ユダヤ教の律法主義が入り込むことが暗示されているようにも思われます。それでは、エペソの教会についてスライドで見て行きましょう。

■エペソは、現在、トルコにあります。トルコは、AD1世紀は、ローマ帝国の一部でした。現在は、ほとんどの人がイスラム教徒です。しかし、当時は、パウロたちの伝道によって多くのクリスチャンが住むところとなっていました。

 トルコは、ローマ帝国時代の遺跡がたくさん見られる場所です。その中には、キリスト教に関係する遺跡もたくさんあります。聖書に出てくる地名には、現在も多くの遺跡が残されています。また、当時の地名の名残のある地名も多くあります。(カッパドキヤの奇岩とそこを住居として生きたクリスチャンたち、カイマクルの地下都市、エペソの遺跡のスライド)

■1節~2節 「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」、とあります。イエス・キリストを救い主として信じている者はみな、聖徒です。私たち自身は罪ある者ですが、しかし、イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、神のみ前にまったく聖い者として立つことができるのです。問題の多いコリント人に対しても、忠実なエペソ人に対しても、パウロはともに聖徒と呼んでいます。これは、まったくの恵みです。自分の力や行いで勝ち得るものではありません。受ける資格があるから受けるのではなく、受ける資格がないにもかかわらず、神様からの一方的に受けさせてくれる賜物なのです。私たちは、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、平安と恵みを、信仰をとおして豊かに受けることができるのです。

■3節 「父なる神がほめたたえられますように。」という祈りと願いは、もともと主イエス・キリストから来ていることです。イエス様ほどに、父なる神様がほめたたえられることを望んでいた方はいないでしょう。ペテロもヨハネもパウロも、その他の使徒たちもこのことをイエス様から学んだのです。私たちも、父なる神様がほめたたえられるように、祈り、願い、望みたいと思います。そして、父なる神様がほめたたえられるように、私たちは、語り、行動したいと思います。自分がほめたたえられるためではなくて、父なる神がほめたたえられるように、望み、語り、行動しましょう。栄光はすべて、主に帰しましょう。主のみ名がほめたたえられることこそが、私たちの喜びとなって行きたいと思います。不思議なことに、そのような歩みの中にこそ、神様の祝福と恵みを大きく豊かに見る機会が与えられるように思います。そのことを体験していきましょう。

 天にあるすべての霊的祝福とは何でしょうか。父なる神様は、キリストにおいてこの天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。その霊的祝福は今も終わることなく続いており、将来においても続くのです。天にあるすべての霊的祝福については4節以降を読んでいくと徐々に明らかになるかと思います。

■4節~5節 ここには、私たちの頭で理解するには少々難しいことが書かれてあるように思います。神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選んでおられたというのです。私たちの存在は世界の基が置かれた後であると思うのですが、どうやら、違うようです。初めも終わりもない、永遠のお方である神様が考えることを、この地上では始めと終わりがある、限りある私たちが理解することは無理といえば無理なことです。私たちには理解できないことがあって当たり前です。ただ、わかることは、私たちは一応、選ばれた存在であるということです。そして、神様は私たちをキリストによって聖く、傷のない者にしようとしているということです。さらに、それは何を意味するかというと、神様は私たちをキリストによって神の子にしようとしているということです。神様はそのことをあらかじめ定めておられました。私たちが神の子とされるということが、天にあるすべての霊的祝福の中に含まれていることです。

■6節~7節 次に、「恵みの栄光」とは何でしょうか。恵みの栄光とは、神の御子、イエス・キリストによって私たち人間にもたらされた救いの道です。それは、十字架にかかって死なれた御子の血によって私たちの罪の代償が支払われ(これを贖うと言う)、それによって私たちの罪は赦され、罪のない者、聖なる者、神の子とされたことです。これは、神様の豊かな恵みによることなのです。この恵みがもたらされたのは、救い主イエス・キリストが十字架のみわざを成し遂げてくださったからです。罪の赦しも神の子とされることも、すべては主イエス・キリストのおかげなのです。それゆえに、私たちは恵みの栄光の基である主イエス・キリストの十字架のみわざをほめたたえるのです。

■天にあるすべての霊的祝福を受けるために、私たちは何をすればよいのでしょうか。それは、信じることです。神の御子、イエス・キリストが自分の罪のために代わって十字架に死んでくださったことを信じることです。恵みの栄光を信じ、さらに、恵みの栄光をほめたたえて歩むならば、私たちは天にあるすべての霊的祝福をもっともっと受けて行くことでしょう。次回は、天にあるすべての霊的祝福についてさらに見て行きたいと思います。それではお祈りします。