しみも傷もない者

2021年8月1日主日礼拝 佐々木俊子姉

テーマ「しみも傷もない者」/中心聖書箇所:「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」(第二ペテロ3:10~14) 

■今日の聖書箇所から

  今日の聖書箇所には世の終わりのことについて書かれています。今日このことについてお分かちする予定ではないのですが、少しだけこのことに触れたいと思っています。

というのも、この世も私たちの人生も一つの流れに乗っているというか、一つの流れに運ばれているというか、この箇所を通してそういうことが読み取れるのではないかと思います。創世記で創造されたこの世界は間違いなく黙示録へと動いています。この流れの中に入っているのです。コロナ禍が始まり、世の終わりについてのメッセージがずいぶん多くなってきました。いつ黙示録に記されている世の終わりが始まるのかは誰にもわかりません。父なる神様だけが知っておられると聖書には書かれています。主の日は盗人のようにやって来ると今日の聖書箇所にもあります。「平和だ。安全だ。」と言っている矢先に来るとも書かれています。でもそれと同時に時のしるしを見分けなさいとも書かれています。いついつと断定はできなくても、私たち主を信じる者には終わりの時代が近づいて来ているかどうかをある程度見分けていくことができるのではないかと思います。私たちは霊の目をしっかりと見開いてこの世の中の動きを見張っていかなくてはいけないと思います。

  そして、私たちの人生にも流れがあります。私たちはどこに向かって流れているのでしょうか。主を信じる者にとってのゴールは天の御国です。私たちの歩みはこの世から突然に天に引き上げられるというより、この世から天に続く歩みだということはできないでしょうか。天に向かって一歩一歩歩んでいるのです。この間、祈祷会での学びの中で(ジム先生がこの日は導いてくださっていましたが。)「私たちの中には天国に行くとき、突然に魂が清められて天に上るのだと思っている人がいるでしょうけど、どうもそうではないように思います。この世でのそのままの人格を天に持って行くのではないかと思います。」というようなことを言われました。他の方のメッセージの中でもそのようなことを聞いたことがあります。天に上げられるときに急に清い者に変えられるというのではなくて、この世の歩みの中でだんだん変えられ整えられて、天に召されて行くのです。変えられなかった場合もそのままで行くことになるのではないでしょうか。

  「キリストの花嫁」ということばを聞かれたことがあると思いますが、私たちは一人ひとりがキリストの花嫁であって、男性でも花嫁です。キリストとの婚礼に備えて清められ、造りかえられて行くのです。

 黙示録の最後21章には新しい天と新しい地が来ることが書かれていますが、黙示録に書かれているこの世への裁きを知って行くのと同時に新しい天と新しい地がやって来るところに目を注いでいくことが私たちには大切なことです。では、新しい天と新しい地を待ち望んでいる私たちはどのような者として主のみ前に出るようにと勧められているのでしょうか。

■しみと傷

  今日の聖書箇所では「しみも傷もない者として平安をもってみ前に出られるように」と勧めています。今日はここを中心にお分かちしたいと思っています。しみや傷ってなんでしょうか。しみや傷がないということはうらやましいことではあります。

まず、しみって何でしょうか。洗濯物のしみを想像するとよく分かります。汚点のようなものを指しているのではないでしょうか。人生の中の汚点。消してしまいたい過去。こんなことしなければよかったなと思うような失敗。洗濯物のしみはいろいろな洗剤や薬品等で消せるでしょう。人の汚点はどのように解決しましょうか?悔い改めです。私たちが心から悔い改めるなら、主は赦してくださいます。放っておくことは止めましょう。主は何もかもご存じです。全てを主に告白します。他の人も同じことをしているからいいんだというのは言い訳です。また悔い改めは単に悔いることではなく、方向を変えて進んで行くことです。聖霊に助けを求めましょう。

そして現在進行形のしみもあります。人のことはよーく見えるのに、何で自分のことは見えないのか?よくそういうことを思います。みなさんも他の人を見てそう思われることでしょう。こんなに人に嫌な思いをさせているのに何でわからないんだろうとか、ここがだめなのが何で分からないのだろうとか思うことがあります。自分で自分のことが見えない人だななどと思うことがあります。でもこの頃は、自分のことが全く見えないのが人間だと思うようになりました。もちろん自分も例外ではありません。

  50代の頃、ビックカメラの上のユニクロを歩いていました。そうしたら前から背中を丸めた年寄りくさいおばさんが歩いて来るのが見えました。年寄りくさいみっともない歩き方だなーと思っていたら、それは鏡に映った自分でした。ぎょっとしました。つい先日も教会に来る道を歩いていたら、「前かがみになってるよ。」と主人に言われました。長年の習慣というか姿勢はなかなか変わるものではありません。人は鏡に映してみないとなかなか自分が見えないものです。人にはそれぞれ鏡がいるようです。主キリストが私たちの鏡です。み言葉が私たちの鏡です。聖霊が私たちの鏡であり、また主にある兄弟姉妹がわたしたちの鏡です。鏡を見ましょう。

次は傷について考えてみましょう。傷には体の傷もあり、心の傷もあります。そして私たちの傷がいやされ健やかであることは主の御心です。

  私は探偵物のテレビ番組が好きで、この頃は「名探偵ポワロ」をビデオに撮って暇な時間に観ています。7月に観た回でポワロが最後に言ったことばが心に留まりました。61話「死との約束」この回は子供の頃から養母に虐待されて来た若い女性が中心に描かれていたのですが、その養母が誰かによって殺さろという事件が起きます。その事件が決着したときに、その心に深い傷をもつ女性は新たな人生に向かって一歩を踏み出そうとしていました。彼女は人身売買の標的にもされていたのです。ドラマの最後のシーンなのですが、別れ際にポワロが何か袋に入ったものを女性に手渡し、このように言うのです。「この世に、全知全能の神がその御手によっていやすことのできない傷はありません。それを信じ続けてください。その信念がなければ、人は死んだも同然なのです。」もらった袋を開けてみると、中には十字架のペンダントが入っていました。

  すごいセリフですね!ビデオなので何度も巻き戻してセリフをメモしました。このセリフはポワロが言ったというよりも、原作者のアガサ・クリスティーが言わせたというか、アガサ・クリスティーの信仰なのでしょう。信仰のことばですね。アガサ・クリスティーの中にこのような信仰があったのですね。ポワロは虐待を受けて傷ついて来たこの女性に希望のことばを伝えました。

  ここでイザヤ書のみことばに触れてみましょう。イザヤ61章1~3節です。「神である主の霊が、私の上にある。主は私に油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には開放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を、着けさせるためである。彼らは義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。」(イザヤ書61:1~3)

  ここでの「わたし」はイエス・キリストのことを指しています。というのも「主は私に油を注ぎ」と書かれているので、油注がれた者はメシアですからイエス様のことを言っています。そして「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷をいやすために、わたしは遣わされた。」と書かれています。イエス様はそのために来られたのです。何てすばらしいみことばでしょうか!心の傷をいやすために来たと言われる方がいやさないことってあるのでしょうか!

  しみも傷も全てを主の前に差し出しましょう。自分で握っていてはいけません。それは過去からの癒しであり、過去からの解放です。私はもしもイエス様に出会って救われていなかったら、今も自分の中にしみや傷をうーんと抱えていたにちがいないと思うのです。イエス様に出会って本当に良かったことの一つにこの過去からの解放というものがあります。ですから今は本当に自由の身になったのを感じます。

■ポチパパチャンネル

  最後に、今度はユーチューブで観た番組のお話をして終わりたいと思います。時々観ていたものなのですが、「ポチパパチャンネル」というのがあります。観られたことのある方もおられると思います。ドキュメンタリーもので、50歳前後の関西系の男性が出て来て、この方がどうしようもない保護犬たちを預かって育て直しというのか、(ご本人は訓練はしていないといわれるのですが、)訓練する番組なのです。場所は明らかにされていないように思います。おそらく奈良県か滋賀県だと思うのですが、わりあい辺鄙なところに「保護犬の楽園」と銘打った拠点があって、そこに人に噛みついて飼い主にけがを負わせたような犬たちが連れられてきます。もうどうしようもなくて、扱いに困り果て、捨てられた犬たちです。その犬たちに首輪を着けるところから始め、他の犬たちの仲間に入れ、人間に噛みつくどころか人に愛されるような犬に再教育して、新しい飼い主さんに結び付けていくのです。最初は牙をむきだしてガーと唸り、威嚇しているような犬がほとんどなのですが、そのポチパパさんの手にかかると、だんだん犬が落ち着き、変化してくのです。噛む犬だけではなく、世捨て人みたいな犬もいます。もう檻の中で常にあっちを向いていて、両肩がうなだれていて、「もういいんです。」みたいな「人生諦めました。もうなんの希望もありません。」というような犬です。そんな犬は餌や水を入れてあげていても何も食べたり飲んだりしないみたいです。でもポチパパさんはそんな犬も檻から出られるようにして元気を回復させてあげている。何がいいのでしょうか。私が観ていて思ったことですが、ひとつは犬の様子をすごくよく観察しているんです。そして「今だ!」と思ったときにさっと行動する。無理やりにしないんです。そしてご自分で言っておられるんですが、何か犬が自己主張したときに適切な反応をするみたいです。いつも犬の立場に立っているのを感じます。たとえばこの犬は精神障害だとか脳障害だとかいうレッテルを貼って捨てられた犬が落ち着いてくると、「どこが脳障害やねんなー?こんなにええ子やのに!」「こんなに言うことが聞ける子やのに!」「『脳障害やありません!』ってゆうてやれよ。」とか言いながら訓練していく。ポチパパさんと一緒に過ごしていくことで、ポチパパさんの再教育で彼らは本来の健全な姿を取り戻していくのです。

  私たちは犬ではないのですが、保護犬と同じように過去から解放され変えられていかなくてはなりません。イエス様の元に行ってイエス様と時間を共にし、イエス様のみことばに聞き入り、イエス様と祈りや賛美の中で交わるということで自分のしみや傷を知り、そこから解放され、自由にされ、新しい者として造り変えられていくことが大切です。主は私たちのことをよくご存じで、時を捉え、場合を見極めて適切に働いてくださいます。それが主の御霊の働きなのです。この方の元でしみや傷から解放され、癒されて、造り変えられて行きましょう。天の御国への流れの中でしみや傷のない者にされて行きましょう。