わたしは世の光です

ヨハネの福音書8章12〜20節

「わたしは世の光です」

 

 今週、皆さんとここでまたお目にかかれるのは素晴らしいことですね。オンラインで集まるのが可能なこと、そしてそれを毎週実現してくださる礼拝チームの熱心な働きに、私たちは大変感謝しています。 しかし、同じ場所で共に集まり、神様と、またお一人お一人と直接お会いすることに比べ得るものはありません。

 

 私たちは、ヨハネの福音書における七つの伝統的な「わたしは(が)〜です」というキリストのみことばに関するメッセージのシリーズを始めました。 先月、私たちはイエス様がヨハネの福音書6章で「わたしはいのちのパンです」と言われたとき、「わたしは(が)〜」という神様のお名前を使っておられることについて学びました。 今日は主の最も有名なみことばのひとつ「わたしは世の光です」を共に学びを続けます。 最初にこれらの言葉の意味の正確な理解に役立つであろう背景をいくつかを紹介したのち、イエス様が世の光であるという教えについての一般的な意味をいくつか見ていきたいと思います。 そしてその時点で、特にキリストがご自身を世の光と表わすことによって意味する5つの明確な事柄に焦点を合わせましょう。

 

 はじめに、これらの言葉を語られるとき、イエス様はイスラエルのエルサレムにあって礼拝の中心地である神殿におられます。 7章でイエス様はthe Feast of Booths (2節ではthe Feast of Tabernaclesまたはthe Feast of Ingathering[harvest] *日本語訳聖書では「仮庵の祭り」「仮庵祭」)の期間中、神殿の中庭におられます(14節)。 それはレビ記23章その他の箇所にある指示に従い、毎年7日間に渡り開催される秋のお祭りのことです。 春の大麦の収穫と夏の小麦の収穫に続き、イエス様がおられた国に住む人々は秋に全体の収穫をするのが通例でした。それが終わった後、教えを忠実に実践しているユダヤ人でエルサレムに行くことが可能な人達は、そこに1週間滞在して神様を祝い、ほめたたえるのが常でした。その祭日の意味とは、特に神様がエジプトでの奴隷生活からご自身の民を連れ出し、砂漠を越え約束の地へと導いた、旧約聖書の物語を記憶にとどめることに焦点を当てたものです。  人々は旅の間、仮の住まいに居住し、神様ですら幕屋と呼ばれる移動可能な神殿に住まわれました。 主から受け取った自由と救いと命というすべての経験を覚えておくために、ユダヤの人々はこの祭日の週間に滞在することになる一時的な住居、すなわち仮庵を建てました。  (多くの人々は今でもそうしており、一部のクリスチャンでさえその習慣を守っています。) イエス様の家族も毎年疑いなくそうしましたし、少年時代のイエス様が家族を助けるために棕櫚(しゅろ)やマートルの木の枝を集めている姿は想像に難くありません。(この休日の行事を一種のキャンプ旅行のようなものと考えることもできますが、私たちはたいてい都市や街を離れ田舎へ行くもので、聖書の中の人々はヘブライ語でSukkotと呼ばれる仮庵の祭に、まるで反対のことをするわけです。)

 

 イエス様が「わたしは世の光です。」と言った時におられた神殿内の場所もまた、大きな意味を持ちます。 20節を読むと、イエス様は献金箱が置かれている所の近くにおられたことがわかります。 そこには、人々が神殿礼拝に関わる様々な目的のための献金を入れるトランペット形をした13の容器が置かれていました。(マルコの福音書12章41〜44節の物語の中で、ひとりのやもめが最後の2枚の硬貨を入れ、信仰のモデルとしてキリストに取り上げられたその場所として思い出されるかもしれません。) 献金を捧げる場所は「女性の法廷」の中にあります。 女性、男性、また非ユダヤ人もその区域に入ることを許されますが、他は制限されています。神殿を訪れるすべての人が神様の働きを支えるために献金ができるよう、国庫がそこにあるのは理にかなっています。(国家は当然これらの活動を維持するために資金を必要としますので、人々は献げる必要があります。) 言い換えれば、イエス様はほとんどの人々が集まるであろう神殿のその場所に身を置かれたのです。 ヨハネの福音書8章の舞台となるこの主要な国民の祝日には、この場所におそらく何万人もの人々がいました。 イエス様のメッセージは、性別や民族的背景に関係なく、世界中のすべての人々の光になりたいと望んでおられることを示す包括的なものなのです。

 

 「仮庵の祭り」の期間中、神様の民は神殿のイルミネーションと呼ばれる慣習を守ります。 冬の札幌のホワイトイルミネーションを小さくしたようなものですが、聖書の時代には燭台が、祭日週の間じゅう毎晩「女性の法廷」のいたるところに置かれます。非常に大規模なものだったようで、ひとつの燭台の器に何ガロン(訳注:1ガロンは約4L)もの油を入れておくことができます。 これは遠くからも見ることのできる美しい装飾であり、比較的高い場所に位置する都市と神殿では格別です。

 

 このことは、イエス様の言葉が初めて聞く人の耳に一体どう響いたのかについて、いくつかのヒントを与えてくれます。 イエス様が「わたしは世の光です。」と言われたその時刻は正確にはわかりません。おそらく人々が夜の訪れと共にろうそくに火を灯すちょうどその時で、イエス様にとっては目的とする教訓を与えるのに絶好の機会をもたらしてくれたのだと思います。 あるいはもしかすると日中、前夜からの灯りは消えた状態になっていて、イエス様はこれをご自身と火の消えた燭台を対比させるチャンスと捉えたのかもしれません。つまり「わたしは決して消えることのない世の光です。わたしに従うとき、あなた方は永遠の命を得て、二度と暗闇の中を歩くことはありません。」ということです。 

 私は「仮庵の祭り」が砂漠を越える出エジプト記の旅を思い起こさせることに触れました。その時に起こった深い意味を持つひとつの事柄は、神様が夜通しイスラエルの民と共におられるために絶えることのない火の柱を置かれたことです。その特別な光と昼間の雲の柱は、ご自身の存在を明確に示すものでした。佐々木さんが先週教えてくださったように、たとえ日中は暑くても急激に冷え込む可能性のある砂漠の夜に、人々のために歓迎の暖かさを提供したことでしょう。それはまた、暗闇に打ち勝った主の栄光の象徴でもありました。

 イスラエルの人々が昼夜を問わず旅したかどうか定かではありませんが、昼間の灼熱の暑さの中で砂漠を横断するよりも、行く先の道がはっきり見えている限り夜に旅した方がいいということはわかります。 その意味でも、光はきっと進むべき道を示し、神様の民を守り、確信を与えたのです。

 

 ですからイエス様がご自身を光であると告げられたとき、すでに神様の民は火の柱に従った歴史を持っているのです。 自分の人生においてキリストに従うことを望む人達は、同じ伝統の中で生き、それを実行しているのです。 神殿の儀式は人々をイエス様へと、さらにはイエス様を通し、より深い方法で神様へと導きます。 「わたしは世の光です」と語られるとき、イエス様は、過去に主がその民に対してどのようにお働きになったかを振り返るよう、聴衆を招いておられるのです。 もしも彼らがそのようにするならば、自分たちの霊的および文化的な根源に伴う奥深いところで彼らをつなぐ何かを見つけるでしょう。 たとえば詩篇27篇1節(NIV:New International Version聖書)は、「主はわが光、わが救い。私は誰を恐れよう。」と語ります。 メシアの到来についての預言では、メシアを描写するために光のイメージを何度も繰り返し用いています。 たとえばイザヤ書42章6〜7節では、神様がメシアについてこのように言われます。

 

  わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、

  あなたを民の契約とし、国々の光とする。こうして、見えない目を開き、囚人を 

  牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

 

 似たような言葉がイザヤ書49、50、53章に出てきます。

 

ご自身を光としてお示しになる際、キリストは私たちにこのようにも語っておられます。私たちの日常生活において知っている物理的な光を開かれた心と霊的な目で見て、私たちの神様がキリストに在って日々どのように働いておられるかの例を見つけるようにと。光が美しさを持つこと、美しさを現すこと、清めること、その他通常行っていることを見るとき、私たちは私たちの神様がどのようなお方で、私たちの中で、私たちのために、また私たちを通して何をなさりたいかをより深く理解する機会を得ます。  もしも今までに「何について祈ればいいかわからない」とか「キリスト教的瞑想をしてみたい」と思ったことがあるなら、光であるキリストというイメージは、始めるにあたり素敵な方法を与えてくれることでしょう。

 

  「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(12節後段)。 イエス様はただ単に目に映り賞賛される光ではありません。 従うべき光なのです。 聖書の時代にこの従うという言葉は、例えば、指揮官に従う兵士、主人に従う奴隷、賢明な助言者に従う人、法律に素直に従う者、あるいは先生の言うことに従う生徒について話すために使われたのでしょう。

 

 さて、イエス様の言葉とその背景がいくつか見えてきて、さらにそれらの一般的な意味にも目を向けたところで、神様の言葉によってイエス様が世の光であるとされる5つの注目すべき道筋に焦点を当ててみましょう。

 

 第一に、キリストは無知の闇を追い払う知識の光であるということです。 約2千年にわたる世界中のキリスト教宣教の働きを見ると、実行してきた主要なことのひとつは、学校を設立することです。 無知は人々を暗闇の中に留めたままにします。 すべての知識は神様の知識です。 ですからすべての人の中にあって、クリスチャンは知識を求めるのに貪欲であるべきで、真理を求めて率直な質問をすることを恐れてはなりません。 事実、それが数学であれ言語であれ、あるいは私たち自身の歴史における不都合な真実であれ、私たちが何かしらの真理を学ぶ度に神様により近づくことになるのです。

 

 この意味で「光の中を歩む」(ヨハネ第一の手紙1章7節)のためには、正しい情報が必要です。 イエス様と宗教指導者との対立は、この類の問題をひとつ含んでいるようです。14節でイエス様は、「わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くのかを知っているからです。しかしあなたがたは、わたしがどこから来たのか、またどこへ行くのか知りません。」と述べています。 イエス様はご自分が天から来られ、とりわけ天に戻って行くことについて話されているのですが、そこには単にイエス様がパレスチナのどこでお生まれになったかという話をする者もいます(7章40〜43節)。 イエス様がメシアであり得るかどうかの議論の中で、メシアはベツレヘムから出ることになっていて、イエス様はガリラヤの生まれだからメシアであるはずがないと言う者もいました。 実際にはイエス様はベツレヘムで生まれ、割礼を受け、神殿で主に献げられたことがルカの福音書2章からわかります。ですから議論している人たちが手間を惜しみさえしなければ、神殿に確認可能な記録があるはずです。そうしないことが彼らを暗闇の中に置き去りにしているのです。

 

 第二に、キリストは嘘の闇を追い払う真理の光です。  13〜18節には、証言が受け入れられるためには2人の証人が必要であるということに関するイエス様と宗教指導者の間の対立が記されています。 パリサイ人たちは、イエス様が神ではなく、ただの人間であるという彼らの信念に基づいた主張をしています。 そうである場合、彼らは正しいということになり、イエス様にはご自身の後ろ盾となる2人の証人が必要になります。 またパリサイ人たちは、イエス様が以前、ヨハネの福音書5章31〜32節で用いられた言葉の中に、彼らの主張を裏付けるものを見出しました。 その所でイエス様は、「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではありません。わたしについて証しする方はほかにおられるのです。そして、その方がわたしについてする証しは真実であることを、わたしは知っています。」と言われました。 それで今やパリサイ人たちは、「してやったり!」ゲームにこの言葉を利用しているのです。彼らがイエス様の言葉を拒むのは、その言葉が彼らの虚偽を証明できるものだからではなく、イエス様が論争の中で用いる一連の過程に対しクレームをつけたいがためです。 別の言い方をすれば、彼らは神の御子を裁く側に立ち、イエス様がご自身の言葉に対して権威を持っている可能性を受け入れるのを拒んでいるのです。

 

 イエス様の正しさを証明するためには他の誰かに頼らなくてはならないと主張し続けることで、彼らの心がどれほど閉ざされているかを示しています。  彼らの誤った信念は、正しい情報の欠如に基づくものではありません。 信じたくないという気持ちから生まれるものなのです。 それは異なるものです。 知性の欠如ではなく、知恵の欠如です。知恵とは概念の把握を超えてそれ自体を愛へと結びつけるものです。

 

 クリス・カートニーと私が長いトンネルを歩いているところを想像してみてください。 そこはとても暗いので、クリスは私に「ジム、君はトーチ(torch=懐中電灯)を持っているよね?」と尋ねます。

 私は答えます。「いや、トーチ(torch=松明)なんか持っていないよ。」

 クリスは言います。「でも、少し前にバックパックに入れるのを見たような気がするんだけど。」

 私は言います。「いや、それはフラッシュライト(flashlight=懐中電灯)だよ。 でも思い出させてくれてありがとう! すっかり忘れていたよ!」

 

 さて、うまくいけばその時点で私は電池で光を発する器具をバッグから取り出し、二人で明かりを共有し、問題を解決する良い手だてを発見した喜びに浸り続けるでしょう。私達が抱えている本当の問題―――イギリス英語のtorch(トーチ)とアメリカ英語のflashlight(フラッシュライト)は同じもの(懐中電灯)だということさえ、楽しめるかもしれません。

 それは単に、私達が自分の頭の中にある異なった状況に考えを当てはめているだけのことです。(実際にはクリスはきっと両方の単語を知っていて、私を混乱から救い出してくれることでしょう。)

 

 しかし、もしもクリスが「いやいや! 君はトーチを持っていないと言ったよね!だからこれについて君が言うことはもう信じないよ。」と言ったらどうでしょうか。

 

すると私は言います。「私は本当のことを言ったんだ!信じるべきだろう!」 

 

 私たちはそこで立ち止まって議論することになりかねません。ですが、私達に本当に必要なのは単語についての議論ではありません。必要なのは明かりなのです!

 

 イエス様に対する宗教指導者たちの主張は、はじめのうちは聞こえがよいかもしれません。しかしよくよく調べて、その主張の根底にある彼らがあらかじめ選択した信念に目を向ければ、崩壊してしまうものだということが明らかになります。私たちもそれと同じです。必要なのはいかにも賢そうな議論ではありません。光であるキリストなのです!

 

 幸いなことに、私たちにはヨハネの福音書8章に登場する宗教指導者たちより、もっと確かな見倣うべきお手本があります。ヨハネの福音書9章を読み進めて行くならば、ひとりの男性の魅力的な物語を発見します。その人は生まれつき目が見えませんでしたが、イエス様に出会い、永遠に変えられるのです。イエス様の弟子たちは、彼のことを苦しんでいる仲間の一人としてよりも、興味深い神学的質問の対象として見ているようです。弟子たちはイエス様に尋ねます(9章2節)、「先生、この人が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともその両親ですか。」

 

 それは闇なのです。このような人達が、彼らの文化を通して、おそらく受けてきたであろう人間の苦難の原因に関する誤った教えという闇です。 それはまた、目の見えないその男性を苦しめた盲目の闇よりも、もっと深く弟子達の中に巣食う霊の闇です。しかし、イエス様はご自身に従う者たちにお答えになります(9章3〜5節)。「この人が罪を犯したからでもなく、 両親が罪を犯したからでもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」

 それからイエス様はこの人の目を癒され、彼を日の光だけではなく、はるかに素晴らしい

―――世の光を見る者とされたのです。

 

 第三に、キリストは汚れた闇を追い払う聖なる光です。 このことが何を意味するかは、パリサイ人とイエス様のやりとりを辿って行けばわかります。 イエス様が18節で「わたしを遣わした父」について語られるとき、彼らはイエス様のところにやって来て、まるで侮辱としか思えない質問をします(19節):「あなたの父はどこにいるのですか。」と。 彼らはイエス様が本当に神の子であるという可能性に目を向けることを拒み、会話の矛先をイエス様の人間の父親へ向けます。彼らはイエス様には法的に正当な父親がいないこと、言い換えると、イエス様が真の結婚ではない罪深い関係によって生まれたということを示唆しているのかもしれません。 もう一つの可能性としては、イエス様の人間の家族の父親ヨセフが、その時にはもう亡くなっていたということです。 エルサレムからの帰り道、マリアと一緒にいたヨセフが当時12歳のイエス様を見失ったという話(ルカの福音書2章)の後、ヨセフは福音の物語から姿を消します。 多くの聖書学者たちが、ヨセフは亡くなったのだろうと言っています。 そうであるなら、宗教指導者たちがイエス様との会話にわざわざヨセフを持ち出すのは、イエス様を可能な限り傷つけようという彼らのやり口なのかもしれません。

 

 いずれの場合も、彼らは憎しみに満ちていて、清い心とは程遠いのです。 真の聖さとは、聖書が示すように、まず最も重要なのが愛であり、パリサイ人たちがキリストとの出会いの中でそれを示すことは一切ないのです。 ですからイエス様はこのように答えることによって、彼らの暗い心に光を当てなければなりませんでした。「あなたがたはわたしもわたしの父も知りません。もしわたしを知っているなら、わたしの父をも知っているはずです。」 悲しいことに、「あなたは神をまったく知らない」は、神様が私たちのためにお遣わしになった救い主を拒絶する人々にとって不動の真実なのです。

 

 第四に、キリストは悲しみの闇を追い払う喜びの光です。 レビ記23章にある旧約聖書の律法において、神様はご自分の民に、この「仮庵の祭り」の祝日をどのように祝うかを正確に伝えておられます。 神様の指示書の中には注目の命令があります(40節)。「あなたがたは七日間、私の目の前で喜びに満たされなければならない。私は主、あなたがたの神である。」 思わずユーモアあふれる指令だと勘違いしてしまいそうです。「楽しみなさい!さもないと!」 という具合です。そこでは何が起こっているのでしょうか?  

私がすべてを理解しているかどうか定かではありませんが、私たちは神様の言葉からいくつかのことを、確信を持って言うことができます。

 

 一つには、神様はあなたと私、そしてすべての神様の子供たちが喜びの中で生きることを望んでおられます。 そのとおり、神様は私達を鍛錬することにおいて厳格になり得ますし、一人では乗り越えられない試練を私たちに課すことがあります。それによって私たちが神様に依り頼むことを学ぶからです。 しかし最終的に、ご自身の民に対する神様のみこころは、人々が喜びによって意欲を引き起こされ、力を与えられることです。 私たちの師であるイエス様が、実に十字架にさえ向かわれたのは、死の反対側で大きな喜びがご自身を待ち受けていることを知っていたからでもあります。 へブル人への手紙12章2節は「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」と語っています。 したがって私はそこから、クリスチャンは誰よりも人生を楽しむ人たちになるべきだと受け止めます。 私たちは光を持っています。 私たちは「光の子らしく生きる」ことを教えられています(エペソ5章8節)。 その一環は、祝うことを習慣とすること―――毎週リフレッシュのための安息日を持つこと、祝祭日を祝うことなどを通して―――です。それは神様がご自分の民に教えておられるひとつの重要な心の習慣です。 また、それは命令ですから、そこには「喜び祝うことの選択」があると気づきます。 時にはそれが、私たちが一番にしたいと感じることではないかもしれません。 しかし、私たちが神様―――また仕えるために神様が私たちに送られる人々―――を知り、愛するようになるにつれ、私たちはもっともっと奥深い類の喜び――主の喜びに導かれます。

 

 第五かつ最後に、キリストは死の闇を追い払う命の光です。 ある意味では、これにイエス様が光であるという他のすべての考え方が含まれます。 しかし、聖書はここでとりわけ一つの点を明らかにしているようです。 本日のヨハネの福音書8章12〜20節の直前の物語は、姦淫の罪で捕らえられイエス様の前に連れて来られた女性についてのよく知られている話で、彼女は石で打ち殺されそうなところでした。実を言うと、聖書のこの箇所の記述にはひとつ問題があります。 聖書の原典はひとつしかないわけではなく、何千もの写本があり、中には相当古いものもあります。 学者たちは最古のものを見つけて、できるだけ原典に近づけようと試みます。 しかし、ヨハネの福音書7章53節〜8章11節までの部分は、最も古い写本の中にはありません。 その内容に対して、特別な申し立てはなされていません。 その教えと口調において、私たちが福音書の至るところに見るイエス様らしい印象を与えるものです。 しかし、誰かが後でその部分を追加したと思われるのです。 いくつかの写本においてはヨハネの福音書の違う場所に入っていますし、ひとつの事例ではなんとルカの福音書の中にあります。 そんなわけですが、イエス様の「わたしは世の光です。」という重大な宣言の直前にあるそのお話はどの様に終着したのでしょうか。

 

 ただひとつの正解となり得るものとして提示できる答えを、私たちは持ち合わせていません。ですが、私はこのように考えます。イエス様と自身の罪のゆえに石で打ち殺される危機にある女性の物語は、イエス様が光であり「命に導く光」(12節)を与えるとはどのようなことかについて、印象的な実例を私たちに伝えてくれます。  イエス様の目の前には、死まであと数分あるいは数秒しかないかもしれない人物がいます。人々は何か道徳的なこと―――神様の正義の働きを行なっているつもりで、彼女が死ぬまで石で打ちつける可能性があります。彼女は間違いなく死の闇に直面しています。そのとき光であるキリストが輝き、彼女を攻撃しようとしている人々に、石を投げる前に自分たちの内面に目を向け自らの罪を見よと挑むのです。彼女は救われます。それにより、彼女は肉体的にお日さまの光を見続けることができますし、それ以上に、もっと重要かつ真の意味における個人的な救い主として「世の光」を知るようになりました。 彼女は死の闇から解放され、さらに素晴らしいことに、赦され―――その報いとして死をもたらす罪というものから自由になったのです。

 

 キリストは私たちの光です!  それが、今日再び、みなさんのために私が携えてきたよい知らせです。アーメン。 祈りましょう。

 

 天のお父さま、あなたは私たちの心や頭の中のどこに闇があるかを知っておられます。私たちの個人的な内面の思考や他者との関係において、やめることができないと感じている習慣、あるいは何であれ、それが私たちを「光の中を歩むこと」から遠ざけるものなのかどうか、そこにあなたの光を照らしてくださいますよう祈ります。 あなたがひとり子であるイエス様を私たちの光となるように送ってくださるほどに、私たちを大切に思ってくださることを感謝します。 私たちの思いの中だけでなく、現実の日々において、イエス様が私たちの中で・・・

 無知の闇を追い払う知識の光

 虚偽の闇を追い払う真実の光

 汚れの闇を追い払う聖なる光

 悲しみの闇を追い払う喜びの光

 そして死を追い払う命の光となりますように。

 

 イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

 

参考

 

Heitzig, S. (2016, September 2). John 8:12-59. Calvary Church with Skip Heitzig.        Retrieved July 17, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=Ne7k41JoN0

 

MacArthur, J. (2014, April 12). I Am the light of the world. Grace to you. Retrieved July 1, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=07x8335999I&t=1249s

 

Packer, J. I. and Tenney, M. C., ed. (1980). Illustrated manners and customs of the      Bible. Nashville, Tennessee: Thomas Nelson Publishers.