最高の私の隠れ場

2021年6月27日(日)主日礼拝 

「最高の私の隠れ場」詩篇32:5~7 佐々木 俊一牧師 

■「隠れる」ということばに、私たちはあまり良い印象を持っていないと思います。人は何か悪いことをすると、隠れたり隠したりします。旧約聖書の初めに「創世記」というのがあります。3章を見ると、アダムとエバが神様との約束を破ってしまったとき、つまり、人が初めて罪をおかしてしまったとき、人は神様に見つからないように木の間に隠れたとあります。昔も今も、人は何か悪いことをすると、隠れたり隠したりするものです。

 また、悪いことをしていないのに悪者に追われて、どこかに隠れなければならないという場合もあります。子どもの頃、よく「かくれんぼ」という遊びをしたものです。ここは絶対に見つからないだろうと思うところを選んで隠れます。鬼に見つかったら終わりです。一番最初に見つかった人が、次の鬼にならなければなりません。

■今日の説教箇所の詩篇32篇は、ダビデによるものです。初めに、ダビデのマスキールとありますが、「マスキール」とは「教訓」と言う意味だそうです。ですから、ここに書かれていることは、ダビデが自身の体験を通して学んだことです。

 ダビデは長いこと追われる身でした。サウル王がねたみからダビデを殺そうとしたため、洞穴などを転々として、身を隠して生きていました。ダビデはこの体験の中で、神様こそが隠れ場なるお方であることを実感していました。敵から逃れる場所、自分の命を守る場所、安心が得られる場所、緊張から開放されてリラックスできる場所、そのような場所が隠れ場と言えるでしょう。

 現代に生きる私たちにとっては、「家庭」がひとつの隠れ場と言えます。家庭から一歩出ると戦いがあります。大人だけではありません。子どもたちもそうです。社会においては、批判や責めにさらされる危うさをいつも感じています。それらを受けないように、常に緊張し、気をゆるめることができません。批判や責めや緊張のあるところは居心地のよいものではありません。ありのままの自分でいることは絶対に許されないことです。だからこそ、家庭は、ありのままの自分を受け入れてくれる、リラックスすることのできる場所であってほしいと思います。

 神様は、家庭以上に包容力があり、受容力のあるお方です。ありのままの自分を理解し、受け入れてくれるお方です。神様の前では、私たちは取り繕ったり、隠したりする必要はありません。かえって、何も隠さずありのままの自分を、そして、正直な自分の気持ちを表わすことによって、神様と自分との関わりが深められ、傷ついた心の回復がなされるのだと思います。

■5節 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

 Ⅱサムエル11章と12章に、ダビデが姦淫の罪と殺人の罪をおかしたときのことが書かれています。これらの罪は、人には隠されていても、主の目には明らかなことでした。ある日、ダビデは、予見者ナタンによってその罪を示されます。

 言い訳したり、他人のせいにしたりして、素直に自分の罪を認めようとしない時、私たちの心には平安がありません。ダビデも32篇の3節と4節のところで言っています。「私は黙っていた時には、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」と。自分のしたことが罪だとわかっているのに、その罪を見ないようにし、知らぬふりして黙っている時には、重荷がダビデにおおいかぶさり疲労感に見舞われたことがわかります。これは、神様を信じる者が罪を犯し、隠している時、あるいは、その罪を認めない時、神様が与える感覚です。けれども、観念して神様の前に罪を言い表すと、重くのしかかっていたものが取り除かれて軽くなったような感覚を体験します。ダビデはこの重々しい感覚に耐えかねて、自分の罪を主の前に明らかにしました。ダビデは心から自分のしたことを悔いて、改めました。人の目からはけっして赦されない大きな罪ですが、神様はダビデを赦して、ダビデに与えた約束を取り去ることはありませんでした。 

 その後、回復のためにしばらくの時を要したと思いますが、ダビデの内には再び平安が戻って来ました。私たちにとって、この平安は、神様からの応答です。主の前に罪を隠さず言い表す時、主はその罪を赦し、その罪から清めてくださいます。平安は、その答えです。

■1節~2節 こう書かれています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人は。心に欺きのないその人は。」

 神様は罪ある人には近づかれません。神様は罪ある人を裁かれます。けれども、その罪がおおわれて罪が見えなくされた人は特別です。神はその人を裁きません。何かによって罪がおおわれたからです。何かとは、イエス・キリストの血潮です。イエス・キリストを信じる者は罪がおおわれて罪がない者と見なされます。心に欺きのない者とは、自分の罪を認める者です。自分には罪はないと言うなら、それは自分を欺き、神を欺くことです。詩篇32:1~2は、イエス・キリストによる罪の赦しとその恵みのことがダビデの教訓を通して表されている箇所です。

■ヨハネ8:3 姦淫の現行犯で石打の刑にされようとしていた女性のことが書かれています。イエス様は宗教家たちに向かって、「罪のない者が最初に石を投げなさい」と言われました。その時、石を投げる者はだれもいませんでした。宗教家たちはみな、その場を立ち去って行きました。イエス様はその女性に向かって、「だれもあなたを罪に定めない!わたしもあなたを罪に定めない!」と言われました。その女性は処刑されずにすみました。イエス様は、言われました。「今から、けっして、(姦淫の)罪をおかしてはなりません」この女性は姦淫の罪で今にも殺されるところだったのですから、この後、姦淫の罪をおかすことなどできなかったでしょう。けれども、貧困や人の弱さや罪の根深い影響力などを考えると、もしかしたら、また、同じ罪に陥ってしまう危険があったかもしれません。もしも、この女性が再び同じ罪をおかしてしまったとしたら、イエス様はこの女性を赦してくれるでしょうか。たぶん、私は、イエス様はまた同じことを言われるように思います。「だれもあなたを罪に定めない!今から罪をおかしてはならない」と。しかし、もしも、この女性が開き直って、「姦淫のどこが悪いのか。姦淫は罪ではない。」と言ったとしたら、どうなるでしょうか。この場合、罪を罪として認めないのですから、イエス様の対応は違ってくると思います。今の時代はそのような傾向が強くなってきています。罪を罪でないという時代です。人の弱さゆえに、罪の執拗な影響力のゆえに、悪いことだとわかっているのだけれども、やってしまうというのならば、まだ、神様のあわれみを期待できるでしょう。

 イエス・キリストを信じる者にとっては、イエス・キリストは裁きからの隠れ場なのです。裁きは、イエス・キリストという隠れ場を通り過ぎて行ってしまうのです。

■6節~7節 私たちにとって、主は逆境の時の隠れ場であることは言うまでもありません。私たちが困難な中に置かれたとしても、主はいつも私たちとともにいて私たちを慰め、励まし、そしてついに、そこから救い出してくださいます。

 以前行っていた教会でのことですが、困ったときだけ教会に来る人がいました。問題が落ち着くといなくなりました。困ったことがあるとまた、教会に来るのです。

 私たちは物事がうまくいっている時も、何もなくて平穏な時も、私たちの隠れ場なる神様と、日々、関わりを持つ者でありたいと思います。神様と親しい関係を築き上げるために必要なことは、率直で誠実な気持ちで神様とお付き合いすることです。

■Ⅱ列王記5章に、有名なナアマンのお話があります。ナアマンはイスラエル人ではありません。イスラエルの敵国であるアラムの将軍です。ナアマンは重い皮膚病にかかっていました。当時、この病気にかかると隔離されました。ナアマンはすがる思いで、噂に聞いたエリシャのところに行きました。そして、いやされたのです。ナアマンは決心しました。列王記5:17~18に書かれています。ナアマンは率直に自分の気持ちを言い表しました。「自分は本当の神様だけを礼拝します。しかし、職務上、主君にお伴して偶像の神殿に入らなければなりません。そこで自分は主君のために身をかがめなければなりません。どうか、そのことをお許しください。」身をかがめることは、一つの礼拝行為です。そのことについてナアマンは了解を得たかったのです。19節を見ると、エリシャの応答があります。「安心して行きなさい。」どこかで聞いたことのある言い方です。イエス様も同じことを何度か言っています。「安心していきなさい。」神様の応答を判断する際、「安心・平安」があるかどうかということがとても大切です。 

■私たちは、主の前に何も隠さないで、率直に正直に誠実に振舞いたいと思います。神様は罪に気付かせてくれたとしても、私たちを責めたりしません。私たちを罪に定めたりしません。なぜなら、イエス様が私たちの罪に代わって十字架で死んでくださったことを信じているからです。神様に対して何も隠す必要はありません。神様に対しては、率直で誠実な応答をしてゆけばよいのです。そして、日常の中や人生の中に、神様の側の応答を見出して行きましょう。そのような歩みの中に、神様との親しい関わりが築かれ、私たちにとって、主は最高の私の隠れ場となってくださいます。それでは、お祈りします。