パン種の入ったパンの秘密

2021年5月23日主日礼拝

「パン種の入ったパンの秘密」レビ23:16~20 佐々木俊一牧師

■今日はペンテコステです。七週の祭りとか五旬節とも言われています。ペンテコステの出来事からキリスト教会が誕生したことは、今までに何度かお話しました。イエス様が言われたとおりに、弟子たちとその仲間たちがエルサレムから離れないでひとつのところに集まっていました。そのときに聖霊が天から地上へ下られたのです。その時の様子が、使徒の働き2章に書かれてあります。

  神は唯一のお方ですが、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三つにしてひとりの神であると聖書は教えています。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかって死なれました。しかし、三日目によみがえられて、その後40日の間、復活のイエス様は弟子たちの前に現われました。それから、天に戻られました。イエス様が天に戻られて10日ぐらいでしょうか、使徒の働き2章の出来事が起こりました。イエス様が「聖霊」について語っておられたとおりに、聖霊が地上に来られたのです。イエス様は聖霊について何と言っておられたでしょうか。  

 ヨハネの福音書14章で、父なる神様はもうひとりの「助け主」をあなたがたにお与えになると言っています。その方が聖霊です。聖霊は私たちとともに住み、私たちのうちにおられます。また、聖霊は、イエス様のこと、イエス様が言われたこと、救いのこと、聖書のことを理解するのを助けてくださいます。今この時も、聖霊は、聖書を理解するために、メッセージを理解するために、助けて下さっているのです。

■「人は、罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。」と言われるのを聞いたことがあると思います。人はだれでも罪を犯す可能性があるのです。なぜなら、人は罪人だからです。しかし、神様はそんな罪人を赦し、受け入れて下さいました。それは、人の正しい行いによってではなく、ただ神様のあわれみのゆえに、救い主イエス・キリストがその血潮によって私たちを買い戻してくださったからです。聖霊は、そのことを信じたことに対する印です。

 人は罪人のままで神様に受け入れられるのです。それは、救い主イエス・キリストのおかげなのです。イエス・キリストを信じた者は聖霊を受けます。聖霊は目には見えません。しかし、聖書は、信じる者のうちには聖霊が住んでおられると言います。聖霊の働きによって、私たちは新しく生まれ、新しくされ続けるのです。

■ペンテコステ(七週の祭り・五旬節)

 イエス様は、聖霊が来られることを約束して天に戻って行かれました。けれども、弟子たちは、五旬節にその約束が成就することなど予期していなかったと思います。五旬節にそのことが起こって初めて、イエス様の言われたことや祭りの霊的意味が理解できたのだと思います。 

 過越しの祭りは、イエス・キリストの十字架の死とその血潮とに関係があります。それは、大麦の収穫祭と同じ時期です。そして、五旬節の祭りは、過越しの祭りの時期、大麦の初穂がささげられた日曜日(イエス様が復活された日曜日)から、7週目の日曜日に行なわれました。ちょうど50日目なので、ペンテコステといいます。このころに小麦の収穫が始まり、小麦の初穂がささげられます。五旬節は小麦の収穫祭なのです。

 ここで、旧約聖書を開いてみたいと思います。レビ記23:16~20、五旬節(七週の祭り)のことが書かれているところです。「七回目の安息日の翌日まで50日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげものを主にささげなければならない。あなたがたの住まいから、奉献物としてパンー主への初穂として、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼かれるものー2個を持って来なければならない。そのパンと一緒に、主への全焼のいけにえとして、一歳の傷のない雄の子羊7頭、若い雄牛1頭、雄羊2頭、また、主へのなだめのかおりの、火によるささげものとして、彼らの穀物のささげものと注ぎのささげものとをささげる。また、雄やぎ1頭を、罪のためのいけにえとし、1歳の雄の子羊2頭を、和解のいけにえとする。祭司は、これら2頭の雄の子羊を、初穂のパンと一緒に、奉献物として主に向かって揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。」

 神様は、ささげものといけにえについて、随分細かい指示を与えています。それには、理由があります。ふつう、穀物のささげものの場合、パン種を入れません。けれども、このときに限ってパン種の入ったふっくらしたパンがささげられました。パン種の入った2つのパンは、和解のいけにえである2頭の子羊と一緒に主の前にささげられました。パン種の霊的な意味は、罪です。ふつうでしたら、神様の御前にはパン種の入っていないパンがささげられるのです。しかし、ここではパン種の入ったパンがささげられています。そして、それは、和解のいけにえ(peace offering)と一緒にささげられました。これは、何を意味しているのでしょうか。パン種の入ったパン、それは、罪ある自分です。罪ある自分、ありのままの自分を、神様の御前にささげるのです。しかし、和解のいけにえと一緒にささげなければなりません。私たちにとって和解のいけにえとは、イエス・キリストです。イエス・キリストが私たちの和解のいけにえです。こう言うことで、イエス・キリストを信じ、聖霊によって新しく生まれた者は、ありのままの自分で、神様の御前に出ることができるのです。

■イエス・キリストを信じる者すべてに聖霊は豊かに与えられます。旧約時代においても、聖霊の働きはありましたが、それは、王様や預言者など、一部の人々に限られていました。ペンテコステの出来事が起こってからは、聖霊は、イエス・キリストを信じる者すべてに与えられます。万民祭司と言われる所以がここにあります。イエス様を信じる者はだれでも、選ばれた祭司なのです。彼らは自由に神様に仕えることが出来ます。罪を悔い改めるために、自分以外の誰かに聞いてもらう必要はありません。自分で直接神様に祈りをささげるのです。直接神様に、感謝をささげ、賛美をささげ、礼拝をささげ、神様の言われることに耳を傾け、交わりを持つことができるのです。神様は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださっています。

 ペテロは聖霊の恵みによって大きく変えられた人のひとりです。彼はリーダーになりたかったようですが、喜怒哀楽が激しく、不安定でした。自分は誰よりも勇気のある強い人間だと思い込んでいましたが、自分の身が危なくなると、勇気のない弱い人間であることが明らかになりました。イエス様の教えを正しく理解する知恵もありませんでしたし、ただ自分にとって都合のよい理解をしていたように思われます。しかし、彼の人生は、ペンテコステを境に新しく始まったのです。彼の内面も行動も新しくされてゆきました。以前のペテロとは違っていました。彼には神様のことばを正しく理解する力が与えられました。そして、それを多くの人々の前で語る大胆さを与えられました。彼は漁師できちんとした教育を受けていなかったにもかかわらず、教育を受けた者にまさる知恵と知識で福音を宣べ伝えました。それにより、多くの人々がイエス・キリストを信じたのです。以前のペテロであるならば、リーダーには到底なれるような人間ではなかったでしょう。しかし、彼は、当時のキリスト教会にあって、リーダーとして、神様の働きをりっぱに導きました。それは、聖霊の働きによるものです。

■神様には、新しく始まることを可能にする力があります。私たちが新しく始めることが出来るように力を与えてくださるのです。私たちの人生や生活において、新しく始めたいと願うならば、ぜひ、やっていただきたいことがあります。

①イエス・キリストを救い主として信じ、受け入れること。

 クリスチャンとして生きることは、したいことができなくなって、窮屈な生き方を強いられることだと思い違いをしておられる方々がいます。また、クリスチャンのような清い生き方は自分には無理だからクリスチャンにはならないと思っておられる方々もいます。

 私たちはありのままの自分で神様の御前に出ることができるのです。自分のような罪深い人間は神様には受け入れられないだろうと心配する必要はありません。イエス様を必要としているのは、正しい人間ではなく罪人なのです。イエス様は罪人を救うために来られました。ただし、一つ条件があります。和解のいけにえである、イエス・キリストを自分の救い主として信じることです。ありのままの自分を受け止めて愛してくださるお方がおられることを体験するならば、心配していた不自由さや窮屈さなどはどうでもよくなるでしょう。イエス・キリストを信じて歩むことの中に、真の自由を見出すに違いありません。それは、私たちにとって新しく始まることの一歩です。

②日曜日に共に集まり礼拝をささげること。

 「教会」はギリシャ語で「エクレシヤ」と言います。「召集する」という意味のギリシャ語から派生したことばです。ペンテコステの祭りのときに、弟子たちとその仲間、120人くらいの人々が共に集まっていました。共に集まることにも、神様にとって特別なみこころがあるように思います。この時に、聖霊が下られました。また、この日は日曜日でした。イエス様がよみがえられたのも、日曜日でした。日曜日は1週間の始まりで、常に新しい始まりです。1週間の初穂を神様にささげることは意味のあることです。それは、神様をリスペクトすることでもあります。日曜日に共に集まり礼拝をささげることによって、神様から力をいただいてまた新しく歩み始めましょう。

■昨年1月から起こった新型コロナウィルスの脅威によって、ふつうに教会に来て共に集まり、礼拝をささげることが難しくなりました。あれからもう1年半になろうとしています。いまだに、いつになったらふつうに教会に集まれるのか、わからない状況です。しかし、この状態はいつか必ず終わります。世界中の人々が新型コロナウィルスによって、健康面や経済面において大変な打撃を受けました。それは、今も続いています。国としても個人としても、この災難により受けた傷から回復するには長い時間がかかるでしょう。しかし、私たちは、コロナ時代に学んだことをこれからの生き方に活かしていきたいと思います。私たちの日常生活や信仰生活にその生き方を反映させていきたいと思います。それは、私たちにとって新しい始まりの時となるでしょう。

 教会とは建物ではなくて、そこに集められたお一人お一人なのだと言うことが、集まるのが難しいコロナ時代を通って、強く思わされたことでした。オンラインで共に集まり礼拝をささげることが出来ることは、もちろん、恵みです。しかし、2000年前に、もしかしたら捕らえられるかもしれない状況の中、エルサレムにとどまって共に集まり礼拝をささげていたあの120人の弟子たちのように、同じ時間と空間で共に集まり礼拝できることは、格別の恵みであると思いました。私たちはこれから、先にある新しい始まりのために神様に祈って行きたいと思います。 

 生きていると、大変なことが本当に多いなあ、と思わされます。私たちは、いま、この地上で生かされています。でも、地上の生活は永遠ではありません。聖書によるならば、この地上のいのちの後には、本当の新しい始まりがあります。キリストの恵みによって義とされた私たちは、永遠のいのちを受けて、神の御国を相続することになっています。その約束をしっかりと握ってゆきたいと思います。

■今日は、「パン種の入ったパンの秘密」というタイトルでお話しました。パン種は何を意味しましたか。罪です。神様にささげるパンのささげものは、ふつうはパン種のないものでなければなりません。ですから、過越しの祭りや仮庵の祭りの時は必ず、パン種のないパンをささげていました。そして、一週間の祭りの期間、パン種のないパンを食べなければなりませんでした。しかし、ペンテコステでは、パン種のあるパンをささげました。祭司たちは、そのパン種のあるパンを食べることが出来ました。パン種のあるパンは、和解のいけにえと共に捧げられました。私たちはパン種のあるパンです。私たちには罪があるのでパン種のあるパンに象徴されるのです。でも、和解のいけにえであるイエス様と一緒なら、私たちは罪のない者のようにいつでも神様の御前に出ることが出来るのです。この恵みは、旧約聖書の時代から、ペンテコステの祭りの中にずっと隠され続けて来た秘密でした。しかし、イエス様が地上に来て、私たちの罪のために十字架に死んで、三日目に復活して、天に戻って、聖霊が下られて、その秘密は明らかにされたのです。ちなみに、パン種の入ったパンが二個であるのは、一個はユダヤ人を象徴し、もう一個は異邦人を象徴していると言う見方があります。これは非常に妥当な解釈であると思います。ユダヤ人も異邦人も、罪ある人間です。しかし、イエス様と一緒なら、ありのままで神様の子とされ、永遠のいのちを受け、神の御国に入れられるのです。それではお祈りします。