新しく造られた者として生きる

2021年5月9日主日礼拝「新しく造られた者として生きる」Ⅱコリント5:17佐々木俊一牧師

■今日は母の日です。母親と言うのは、私たちにとって人生の最初のステージで出会うとても大切な人です。生まれたばかりの赤ちゃんが、まず最初に愛情を感じることのできるのは母親です。その意味で、母親の役割と言うのは非常に重要です。ですから、母親との出会いは、どの子どもにとっても最高の出会いであってほしいと思います。もちろん、父親との出会いも同じです。

 ところで、人生にはもっと重要な出会いがあることを、みなさん、知っているでしょうか。もちろん知っていますね。私たちにとって、最も重要な出会いは、イエス様との出会いです。イエス様との出会いを通して、世界中の多くの人々の人生が祝福へと変えられてきました。イエス様の十字架の死と復活は、人類に最も大きな祝福をもたらした出来事です。イエス様の十字架と復活の意味を知る時、そして、信じる時、人生の意味を知り、新しい生き方が始まります。

■Ⅱコリント5:17に、「だれでもキリストのうちにあるなら・・・」とあります。「キリストのうちにある」とはどういうことでしょうか。簡単に言うと、イエス・キリストを信じる者は、誰もがみなキリストのうちにあるのです。そして、キリストの内にある者は、新しく造られた者です。新しく造られた者には特典があります。イエス様が死から復活したように、新しく造られた者も死から復活します。新しく造られた者にとって死は終わりではありません。朽ちることのない体を与えられて、神の御国を相続するのです。この特典は、けっして、自分の能力や力で勝ち取ることのできるものではありません。また、何か良いことをしたからとか、何か優れているところがあるからとか、そんなことで与えられるような賞でもありません。この特典をいただくためにしなければならないことがあるとすれば、それはただ一つ、イエス・キリストを信じて、新しく生まれること、新しく造られた者になることです。これは、ただで受けるも同然です。ただで受けるものを恵みと言います。それに対して、報いと言うのがあります。報いは行ったことに対する見返りです。聖書を読むと、神様の祝福にはこの両方があるようです。そして、救いは恵みです。もしも、救いが報いであるならば、誰も神の御国に入ることはできないでしょう。罪がある限り、報いによって神の御国に入ることは不可能です。

 しかし、この罪を処理してくださったのがイエス様です。神のみ子なるイエス・キリストが私たち人間のすべての罪を代わりに負ってくださり、十字架で処罰されたのです。それにより、すべての罪が祭壇の上の子羊のいけにえのように焼き尽くされて処分されました。こうして、神様と人との間に和解が成り立ち、今平和の関係があるのです。イエス・キリストを信じる者は、罪のない者として認められています。イエス・キリストによって与えられた義が、私たちを神の御国へと導いてくださるのです。

■以前、テレビで見たのですが、中国にはとてもおもしろいサルがいて、互いの間に平和な関係を作るために小さな子ザルを利用するのだそうです。彼らは群れを作って住んでいます。その中にボスザルがいてその群れを統率しています。ある日、外部の雄ザルが近づいてきて、どうやら、その群れに入りたがっているようでした。しかし、群れの中に入るのは非常に難しく、いつも強いボスザルに攻撃されて追い払われてしまうのです。そして、その雄ザルが最後の手段として取った方法がとてもユニークなものでした。誰かの子ザルを連れてきてボスザルに近づきました。次にその子ザルを差し出しました。いつの間にかその恐いボスザルはかわいい子ザルを抱いて穏やかな姿に変わっていました。こうして、外部から来たその雄ザルは群れの中に入ることを許されました。攻撃的だったボスザルが子ザルに触れることによってやさしい姿に変化したことは、とても興味深いことです。このサルの群れの中では雄ザル同士が仲良くなるために、たびたび、このようなことが見られるそうです。

 これとはまったく次元が異なりますが、イエス・キリストの十字架により神様の罪への怒りは収まりました。神様はイエス・キリストを信じる者の罪を赦し、そればかりか、好意を持ってくださり、愛してくださるのです。また、イエス・キリストを信じる者にも変化がもたらされます。まず、第一に平安が与えられます。神に愛され、受け入れられていることは安心感につながるのです。人はどのグループにおいても、受け入れられていると感じることが安心するために必要なことです。

■Ⅱコリント5:17では、イエス・キリストを信じる者は、新しく造られた者であると、言っています。みなさん、この御言葉を信じますか。「見よ。すべてが新しくなりました。」とあるけれど、自分のどこが新しくなったのか、と思う人はいるでしょうか。私自身を見ると、新しくなるどころか、ますます肉体は古くなって来ています。私の外面ではなくて、内面はどうでしょうか。前よりは良くはなっていますが、それでもまだまだ、改良の余地があります。それでは、私のどこが新しくなったと言うのでしょうか。ヨハネ3:3を見るとわかりますが、新しく生まれたのは霊です。Ⅱコリント5:5にも、「神はその保証として御霊をくださいました。」と書かれています。イエス・キリストを信じる者は霊において新しく生まれた者です。私の肉の部分、体と心(思い・感情)は罪の影響が残っています。ですから、私の行いや考えることには正しくないことがあるのです。しかし、神様は私のことを新しく造られた者として見てくださっています。なぜなら、私は御霊によって新しく造られたからです。新しく造られたのは、霊においてです。それは、罪の影響を受けていません。

■次に、新しく造られた者としての生き方について聖書では何と言っているのか、見て行きたいと思います。

 救いはまったく、恵みです。イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは罪赦され、将来、必ず、神の御国に行きます。たとえ、行ないが不完全でいろいろと指摘されるようなことがあったとしても、また、神様の働きや礼拝に熱心に参加しないとしても、イエス様のことをちゃんと信じているなら、その人は神の御国に入るのです。

 しかし、新しく造られた者であるならば、神様の喜ばれる生き方をしたいと思いませんか。もう、しているかもしれませんが・・・。それでは、もっとその上を目指して行きましょう。Ⅱコリント5:17の前後に、新しく造られた者に神様が望んでいる生き方が3つ書かれています。それを見てみましょう。  

■Ⅱコリント5:15 「また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」

①自分のためではなく、イエス様のために生きる。

 このように言うと、すごく不自由で縛られているように感じるでしょう。でも、それは誤解です。自分を犠牲にして人のために尽くしなさいとか、やりたいことをやってはいけないとか、自分の夢をあきらめて神様の働きに専念しなさいとか言っているのではありません。人によって、あるいは、時によって、そのように導かれることもあるでしょう。でも、それは常にではないし、誰にでも当てはまることでもありません。ここで言う自分と言うのは、古い自分と考えた方がわかりやすいでしょう。私たちは、もはや、古い自分に従って生きる責任はありません。私たちは、古い自分に属する悪い習慣に従って生きる責任はないのです。でも、私たちは古い自分からまったく影響を受けずに生きることの難しさを否定することが出来ないことも事実です。そのために、時には、人を傷つけたり、自己中心になったり、古い自分に従ってしまうこともあるかもしれません。それらのことについては、すべてイエス様が十字架で処分してくださいました。ですから、私たちはそういった罪に気づかされた時に、悔い改めて、赦しを感謝して、立ち上がって前進していきましょう。このような生き方が、自分のためではなく、イエス様のために生きることです。そして、それは、新しく造られた者に神様が望んでいる生き方の一つです。

■Ⅱコリント5:16「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」

②神の価値観と神の視点で見る。

 私たちはこの世の価値観で人や物事を判断しがちです。偏見や上から目線で人を裁いてしまう傾向があるでしょう。神様の見方はいつも人をつぶすためではなくて、人を育て、建て上げるものです。優しい対応もあれば、厳しい対応もあります。甘やかすことが神様の愛ではないことは確かです。厳しい対応であったとしても、それは倒すことが目的ではなくて建て上げることが目的です。これを書いたパウロも、その点について完全であったわけではありません。失敗もありました。きっと、そのような時には、周囲の人たちがパウロの足りないところをフォローしたのだと思います。パウロの場合も、神様からの視点で見ることが出来ずに、人の可能性をつぶしてしまいそうになったことがあったように思います。パウロがマルコを伴って宣教旅行に出たことがありました。この時、マルコは少々勝手な行為をしてしまったようです。それを怒ったパウロは、その後、マルコを伴って伝道旅行に行こうとはしませんでした。しかし、後になってパウロは、神の働き人として成長したマルコを有能な人材として評価していることがパウロの手紙を通して知ることが出来ます。神の価値観と神の視点で人や物事を見ることを学ぶことも、新しく造られた者に神様が望んでいる生き方の一つです。

■Ⅱコリント5:20「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

③キリストの使節としての役割を担う。

 新しく造られた者には、福音を宣べ伝える働きがゆだねられています。そして、そのことを神様は期待しています。私たちは、神様から遣わされている使節団として、神の御国のことをアピールしていきたいと思います。そして、もっと多くの人々が神の御国に興味を持ち、神の御国に行くことが出来るように働きかけたいと思います。キリストの使節として、また、神様に遣わされた者として、福音を宣べ伝えること、神の御国をアピールすることは、新しく造られた者に神様が望んでいる生き方の一つです。

■イエス・キリストによって新しく造られた者はみな、恵みによって神の御国に行くことが出来ます。しかし、新しく造られた者であるならば、神様の喜ばれる生き方をぜひ、したいと思います。もうすでにしている人は、もっとその上を目指して行きたいと思います。せっかく新しく造られたのですから、新しく造られた者に神様が望んでいる生き方、今日お話した3つのことをやって行きましょう。①自分のためではなく、イエス様のために生きる。②神の価値観と神の視点で見る。③キリストの使節としての役割を担う。それではお祈りします。