神に望みをおく

2021年4月25日主日礼拝「神に望みをおく」詩篇121:1~8佐々木俊一牧師

■詩篇120篇から134篇まで、都上りの歌と記されています。ほとんどはダビデによって書かれたものと思われますが、中にはソロモンによるものもあります。都上りの都とは、エルサレムのことです。エルサレムの意味は、平和の町という意味です。また、エルサレムは、ダビデの町とも言われ、シオンの山とも言われています。ダビデはそこに「ダビデの幕屋」を設置し、その中に契約の箱を安置して、神様を礼拝していました。

詩篇121篇1節に、「私は山に向かって目を上げる。」とあります。どこの山に向かって目を上げるのでしょうか。先ほども言いましたが、ダビデの町はシオンの山とも言われていました。シオンのもともとの意味は要害、あるいは、要塞という意味です。また、それは神の都を意味していました。山の頂に築かれたダビデの町エルサレムは、要塞のようであり、そして、神のおられる神の都でもあったのです。標高800メートルくらいのところにありました。その東、死海の方は海面下400メートルですから、そこと比べると標高差は1000メートル以上あるのです。ダビデの町は高いところにありました。そして、そこには、神様との会見の場所であるダビデの幕屋がありました。ダビデはそこで神様にお会いし、礼拝をささげていたのです。ダビデにとってこの場所は、非常に慕わしくて重要なところだったのです。ですから、山に向かってとは、神様に向かってと言ってよいでしょう。ダビデは、日々、神様の御顔を仰ぎ、礼拝をささげていました。ダビデには一つの確信がありました。それは、助けは天地を造られた神、主から来るのだということです。ダビデにとって主は、すべての災いから命を守るお方だったのです。このことは、ダビデにとってだけではありません。私たちにとっても同じです。

  それでは、主がすべての災いからダビデを守られたと言うことは、ダビデは全く災いにあわなかったということなのでしょうか。そうではありません。ダビデには大変な困難が幾度となく降りかかりました。しかし、ダビデはその中で、主の助けと守りを体験したのです。

旧約聖書には、ダビデのほかにも、困難の中で主の助けと守りを体験した人々がたくさんいます。困難はありましたが、その中で守られたのです。困難が許されると言うことが、神の守りがないと言うことではありません。許される困難はあるけれども、その中で、私たちは必ず守られると言うのが神様の約束です。もしも、守られなかったと思われるようなことがあったとしたら、それは特別なことで、神様にしかわからない特別な理由があるのだと思います。どんな人にも人生には困難がつきものです。それらを完全に失くすことは神様のみこころではないようです。ただし、信じる者たちには、必ず、神様の守りがあるのです。神様は私たちを守られるお方です。そのことがもっとわかるように、他の聖書の箇所も見てみたいと思います。

■詩篇9:10 「御名を知る者はあなたにより頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」

  私たちは聖書のことばを通して主を知ることができました。また、私たちは人から聞いたり、自らの体験によったり、それらのことを通して主を知ることができました。主を知る者として、私たちが困難な中に置かれた時、何よりも誰よりも、主に尋ね求める者でありたいと思います。

①主を尋ね求める者を、主は絶対に見捨てることはありません。

これは、神様が聖霊によってダビデを通して語られたことです。このような方が私たちの主であり、これが主の約束です。主を尋ね求める者を、主に祈り求める者を、主は絶対に見捨てることはないのです。

■詩篇34:6~7 「この悩む者が呼ばわった時、主は聞かれた。こうして、彼らはすべての苦しみから救われた。主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。」

  私自身、自分や家族のことをふり返ると、今までにいろいろな苦しみがありましたが、主はそれらの苦しみを乗り越えさせてくださったので、今こうしていることができます。

②主は、主を恐れる者をその苦しみから助け出してくださいます。

主を恐れる者とは、主を大切に思う者のことであり、主を尊ぶ者のことです。時として、主はみ使いを遣わしてくださり、主を恐れる者の周りを取り囲んでくださり、危険や悪い者から守ってくださるのです。このようなことをなしてくださるお方が私たちの主であり、これが主の約束です。

■詩篇34:8~9 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。」

  主のすばらしさを体験した者は、その体験を忘れないようにしましょう。主がどんなにすばらしいことをしてくださったかを思い起こしましょう。そして、主を大切に思う気持ちを保ち続けましょう。主のすばらしさを知ったそれらの体験を私たちの記憶に積み重ねて行きましょう。そうするなら、私たちの信仰は強められて、たとえ乏しいと感じることがあったとしても、この前と同じように神様がその乏しさを補い、満たしてくださると、神様に望みをおくことが出来るでしょう。

③主を恐れる者は、けっして乏しくなることはありません。

私たちの主は、私たちの必要を豊かに満たしてくださるお方です。これは主の約束です。

■詩篇37:25~26 「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を乞うのを見たことがない。その人はいつも情け深く人に貸す。その子孫は祝福を得る。」

Ⅱサムエル23:2で、ダビデはこんなことを言っています。「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」ダビデを通して神様は語られました。ですから、詩篇のダビデのことばは、ダビデを通して語られた神様のことばです。神様はダビデの記憶を呼び起こして、昔も今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を乞うのを見たことがないと、ダビデを通して語られました。ここで言う正しい者とは、情け深く、寛大で、困っている人を見ると自分の持ち物を分け与える、そのような人のことです。他人に情け深く、寛大で、困っている人を見ると自分の持ち物を分け与える人は、けっして見捨てられることがなく、その子孫は祝福されると言うのです。このことばについては、他者に対してではなくて、自分に対して適用すべきことばであると思います。他人を裁くためではなくて、自分を裁いて自分の生きる姿勢を正すならば、このことばは有益なものとなるでしょう。

④正しい者が見捨てられることはありません。

⑤正しい者の子孫は祝福されます。

  私たちがどう生きるのか。そのことが、私たちの子孫にも反映されるのです。私たちは子孫のことをも思って生き、子孫のためにも祈る必要があるのです。これは主の約束です。

■詩篇41:1~3 「幸いなことよ。弱っている者に心配る人は。主は、わざわいの日にその人を助け出される。主は彼を見守り、彼を生きながらえさせ、地上で幸せな者とされる。どうか彼を敵の意のままにさせないでください。主は病の床で彼をささえられる。病むときにどうか彼を全くいやしてくださるように。」

  詩篇37:25~26のことばに共通するところがあります。先ほどは困っている人への思いやりでしたが、ここでは弱っている人への思いやりです。他人への思いやりの心を持つことは主の喜ばれることです。

⑥弱っている者に心配る者は、わざわいから助け出されます。

⑦弱っている者に心配る者は、病の中にあっても主がささえてくださり、主がその病をいやしてくださいます。

  ダビデを通して主はこのように語られました。これは主の約束です。

■主を尋ね求める者や主を恐れる者は、自分の助けがどこから来るのかを知っています。自分の助けが、人からではなく、天地を造られた主から来ることを知っているのです。ですから、彼らは、人にではなくて、主に期待し、主に求めるのです。天地を造られた主は、私たちの命を守るお方であり、死を越えてとこしえまでも守ってくださるお方であることを彼らは知っているのです。さらに彼らは、主を尋ね求め、主を恐れ、主のみこころに従い、主の喜ばれることを行ないます。そのことを通して、さらに、主の祝福と主のすばらしさを見るのです。神様は、主を尋ね求め、主恐れる者には良くしてくださるお方なのです。そしてそれは、新約聖書においても変わることがありません。

■Ⅰテモテ6:12 「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱに告白しました。」

  パウロがテモテに言っていることばです。それは、私たちへのことばでもあります。私たちの召しは、この地上で成功することではありません。私たちの召しは、この地上で有名になることでもありません。私たちの召しは、この地上で贅沢な暮らしを楽しむことでもありません。私たちの召しは、自分の能力を最大限に発揮し、夢を実現するような、自己実現でもありません。それらは召しではないから、悪いとか価値がないとか言っているのではありません。この地上で自立して生きて行くためには、働かなければなりません。何をやって生きて行くかは各人の自由です。ただ、忘れてはならないことは、Ⅰテモテ6:12に書かれてあるように、「永遠のいのちを得るために召された」、と言うことです。たいていの人たちは、永遠のいのちなど、この地上の成功や良い暮らしに比べれば、取るに足りないものだと思うでしょう。しかし、私たちにとっては、この地上の成功や良い暮らしなどは、永遠のいのちに比べれば、取るに足りないものなのです。どのような立場にあっても、どのような状況にあっても、どのような仕事をしていても、永遠のいのちを得るために召されたのだ、と言うことを忘れてはなりません。それが自分の心の内では優先順位の一番であるべきです。この最も重要なものが自分にある限り、自分はまだ大丈夫なのだと言うことを知っておいていただきたいと思います。私の助けは天地を造られた主から来るのだと言うこと、そして、主は私を最後の最後まで守るお方であると言うことも知っておいていただきたいと思います。私たちは、主に尋ね求める者として、主を恐れる者として歩んで行きましょう。主はそんな私たちの歩みを通して、主のみわざと栄光を現してくださいます。私たちはそのようにして、主を証しする者となって生きたいと思います。

■Ⅰテモテ6:17 「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、頼りにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」

  現在、中国には1億円以上の富を持つ富裕層が1億人いるそうです。世界で一番です。ほぼ、日本の人口と同じです。驚きではありますが、永遠のいのちに比べれば、そんなことは取るに足らないことです。そんな富など頼りにならないと、聖書は言っています。頼りにならないお金に望みを置かないで、むしろ、私たちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神様に望みを置くように、聖書は言っているのです。ちなみに、中国のクリスチャンの数は1億人以上だそうです。この数も世界一です。

  お金はこの地上で生きて行くために必要なものですが、望みを置けるほどに頼りになるものではないことを、私たちは知らなければなりません。頼りにならない富に望みを置いている人々は、この地上ではうまいことやったと思っているでしょうが、死んでしまえば、不幸のどん底です。ですから、私たちは頼りにならない富に望みを置くのはやめましょう。永遠のいのちを得ると言うことが神様が私たちに与えた召しです。

⑧永遠のいのちを獲得すると言う召しが、主の私たちへの最終的な守りです。

  私たちの助けは、天地を造られた神、主から来るのです。この約束のことばの発信者である神様に望みを置きましょう。それではお祈りします。