祈る教会になる!

2021年4月11日主日礼拝「祈る教会になる!」使徒1:10~14 佐々木俊一牧師

■使徒の働きは、ルカの福音書の続きです。著者はシリア人の医者、ルカです。唯一の異邦人著者です。イエス様が十字架に死んで三日目によみがえられました。その後、40日の間、弟子たちの前に現れて神の御国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きておられることを使徒たちに示されたと、使徒1:3に書かれています。

 イエス様は最後の晩餐の時に、よみがえられた後にご自分は先にガリラヤに行って使徒たちを待っていることを伝えておられました。実際によみがえられて後、二人のマリアにそのことを伝え、使徒たちはそれを聞いてガリラヤに向かって行ってイエス様にお会いしたのです。マタイの福音書によるならば、聞いてすぐにガリラヤに向かって行ったように思われます。しかし、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書によるならばそうではありません。使徒たちがエルサレムにいた時、すでにイエス様は現れているのです。イエス様がよみがえられたのは日曜日の朝です。それからその日の夕方、イエス様は弟子たちの前に現れました。この時にトマスがいなくて、「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った有名な話があります。しかし、次の日曜日、イエス様は再び現れました。その時、トマスは自分の指でイエス様の釘跡と脇腹の槍の跡を触ってやっと信じることができました。もしかすると、11使徒はこの1週間の間にガリラヤに行って、そして、エルサレムに戻って来たのかもしれません。100キロくらいの距離ですからあり得ない話ではありません。ガリラヤに行ってイエス様が指示した山に登り、イエス様にお会いし、礼拝した時、ある者は疑ったと、マタイ28:17に書かれています。もしかしたら、その疑った人とは、トマスだったのかもしれません。

 イエス様がよみがえられてから、弟子たちに何度も現れていろいろなことがあったのだと思います。それらのことを聞いて調べて整理して、聖霊の導きによってまとめられたのが4つの福音書です。これら4つの福音書が単なる事実の羅列であるならば、あまりにも膨大な出来事の量によってまとまりがつかず、かえって、わかりづらいものになっていたかもしれません。4つの福音書の書き方がそれぞれに違うのは矛盾を意味することではなくて、伝えるべきことが明確に伝わるようにするための神様の配慮であると私は思います。

■ルカ24章の終わりのところを読むと、イエス様は11使徒をベタニヤまで連れて行ったとあります。そして、手を上げて彼らを祝福されました。ベタニヤはオリーブ山の東側の麓にある村でした。エルサレムよりも死海側にあります。ベタニヤからオリーブ山を西に越えるとエルサレムがあったのです。弟子たちはイエス様が天に昇って行かれるのを見、その時み使いが、イエス様は同じような有様でまた地上に戻って来られると言ったのを聞きました。そして、彼らはオリーブ山からエルサレムに帰ったと書かれています。この日は安息日、つまり、土曜日でした。そのため、移動できる距離には制限がありました。彼らはエルサレムに戻ると泊っている屋上の間に上がったとあります。この屋上の間というのが、ペンテコステの出来事を体験した場所と言われているところです。戻って来た弟子たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、及びイエスの兄弟たちと共に、みな心を合わせ、祈りに専念していたとあります。

 彼らは今までにないほどに、祈るようになっていました。男性も女性も、もしかしたら子どもたちさえも心を合わせて共に祈るようになったのです。そして、それから1週間後くらいに待ちに待った聖霊降臨の時を迎えるのです。

 ところで、彼らは誰から祈りを教えてもらいましたか。イエス様からです。イエス様から教えられたように、彼らは、主イエス・キリストの御名によって父なる神様に祈ったでしょう。イエス様のことばによって、また、イエス様の行動によって祈ることを学び、祈ることを訓練されました。それでは、祈りについての教えや実際的な祈りの運用について見ていきましょう。

■祈ることにより、主の御心を知る。

 このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から12人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。(ルカ6:12~13)

 ここでイエス様は一人山の中、徹夜で父なる神に祈っていました。何を祈っていたのでしょうか。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せてその中から12人を選んで、彼らを特別に使徒としての使命を与えました。イエス様は、そのために祈っていたのです。このとき、12弟子以外にも弟子たちがいました。その中から12名を選んで使徒に任命したのです。それを決めるためにイエス様は父なる神に祈り、みこころを求めていたのです。その結果が、この12使徒だったのです。このように大事なことを決める時や神様のみこころをうかがう時に、私たちは祈る必要があるのです。頭で考えることはもちろん必要です。しかし、それ以上に祈ることはもっと大切なことなのです。祈ることにより、主のみこころへと導かれ、主のみこころを知るのです。

■祈ることにより、主の御心に従う力を受ける。

 それからイエスは弟子たちと一緒にゲッセマネというところに来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:36~39)

 イエス様は神なるお方です。しかし、肉体は私たちと同じであって、痛みや苦しみを感じるものです。イエス様にとって、十字架の痛みや苦しみは耐えがたいものでした。イエス様は父なる神に率直にご自分の思いを吐き出すように語っています。「できることなら、このような痛みや苦しみを避けて通りたい。しかし、自分の願いや思いではなく、父なる神様のみこころがなりますように。」イエス様は自分の願いがかなうことよりも、神様のみこころがなることを優先しました。祈りの中でイエス様は父なる神様のみこころに従う力で満たされ、神様のみこころをまっとうする決意だったのです。

 イエス様は同じ祈りを3度父なる神様にしました。その中で、イエス様は、父なる神様によって霊と心が強められました。祈りによってイエス様は、神様のみこころを行なうことに思いは満たされ、十字架の苦しみに向かって突き進んで行ったのです。このところのイエス様の祈りをとおして私たちは何を学ぶでしょうか。祈りは、私たちの心に神様のみこころを明らかにし、神様のみこころに従う力を与えてくれるものだと思います。祈りは私たちが自分の願いに執着することから自由にし、神様のみこころに従うことを選び取り、それに向かって進むことが出来るように力を与えてくれるのです。私たちの思いが強い時には、祈ることによって、神様のみこころへと軌道修正してくれるのです。

■義人の祈りには大きな力がある。

 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

 罪は何でも人の前で告白しなければならないと言うことではありません。万人祭司ですから、基本的に私たちは自分の罪については神様に直接自分で言い表わして赦しをいただくのです。人と人との間のトラブルで明らかに二人の間に和解の必要がある場合については、互いに罪を言い表わし、互いに赦し合い、正しい関係を回復することが必要です。でも、相手が知らない罪をわざわざその人に告白して、新たな問題を引き起こすようなことはしなくてよいと思います。教会においては、互いの間に平和な関係を保つことが本当に大切なことです。なぜならば、互いの間に平和がないところにおいては神様は働かれないからです。ですから、私たちは互いの間に平和を保ち、祈りを通して神様に豊かに働いていただきたいと思います。義人の祈りには大きな力があることを覚えましょう。

■罪は祈りの妨げである。

 もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。(詩篇66:18)

 私たちはキリストによって神の御前に義とされた者であることを感謝したいと思います。ただ、そのような立場であっても、もしも、私たちが神様のみ前に告白すべき罪を告白せずにいるならば、私たちにはまだ解決していない罪があるのです。それは私の心にある不義と神様は見なされるでしょう。その場合、私たちが神様にいくら祈ってもその不義は祈りの妨げとなってしまうのです。ですから、そのことに気づかされたなら、すぐにその罪を神様のみ前に告白することです。そうするなら、祈りを妨げるものは取り除かれるのです。

■福音書では弟子たちが祈るのをほとんど見ませんでしたが、使徒の働きになると、弟子たちはいつも祈っています。心を合わせて共に祈っています。私たちが祈る時、立派なことばや流ちょうなことばは必要ありません。ことばが多くても少なくても、流ちょうでもそうでなくても、神様のみ前に心から祈ることが大切です。イエス様はパリサイ人の立派な祈りよりも取税人の正直な祈りを義人の祈りと見なしました。

 私たちは個人としても、教会としても、祈る人でありたいと思います。祈る人になりましょう。祈る教会になりましょう。祈ることによって、自分の思いから主の思いへと軌道修正してもらいましょう。恐れや不安や心配が心の内を支配していても、祈るならば、その代わりに、勇気や平安や自信が心の内を支配するようになります。悩んだり心配するよりも祈りましょう。考えることは必要ですが、祈ることがなければ、主のみこころからよくはずれるものです。

祈ることを通して、私たち自身や私たちの教会に、どういう変化や祝福があるのかを見ていきましょう。祈ってもらうことは良いことですし、必要なことです。けれども、それだけではなくて、自分が祈る人、祈る教会になりましょう。家でも教会でも祈る人になりましょう。それではお祈りします。