信仰と疑いの狭間で

2021年3月28日主日礼拝「信仰と疑いの狭間で」ヨハネ11:40 佐々木俊一牧師

  イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」ヨハネ11:40

■ヨハネの福音書は21章まであります。1章から10章までは、イエス様の3年半の公生涯の始まりから最後の宮清めの祭りまでのことが書かれています。宮清めの祭りは、ちょうど12月のクリスマスの頃にある祭りです。そして、12章から21章までは、イエス様がエルサレムに入場(棕櫚の日曜日)してから、イエス様がよみがえられて弟子たちの前に現れるところまでが書かれています。一つだけ章が抜けていますね。11章が抜けてます。11章は、今日お話しするところです。ここは、ラザロの復活について書かれてあるところです。ラザロの復活の話はとても有名な話です。先ほどの話からわかるように、ラザロの復活は、12月末に行なわれる宮清めの祭りと4月初めの過越しの祭りの間に起こった出来事である、と推測できます。つまり、ラザロの復活の出来事とイエス様の復活の出来事とは時間的に離れてはいないのです。もしかしたら、ラザロの復活の出来事はイエス様の復活の出来事の1ヵ月前に起こったことかもしれませんし、もしかしたら、2週間前だったかもしれません。それほどまでに、時間的に近い出来事であったのです。ラザロの復活は、ある意味、イエス様の復活のデモンストレーションのような役割であったかもしれません。イエス様には失った命をよみがえらせる力があるのだと言うことを証明するものであったでしょう。確かに、イエス様には死んだ者を生き返らせる力があったのです。イエス様は神様ですから死んだ者を生き返らせる力があるのです。それでは、11章のラザロの復活の出来事を一緒に見ていきたいと思います。

■11章の初めに、ラザロ、マルタ、マリヤという名前が出て来ます。彼らは兄弟です。彼らはイエス様と親しい交流がありました。ある日、兄ラザロの病気の知らせが、イエス様のもとに届きました。マルタとマリヤの姉妹はイエス様にすぐにも来て、兄ラザロの病気を治してほしいと願ったのです。けれども、イエス様はその知らせを聞いてすぐには行きませんでした。それはなぜなのか。イエス様は興味深いことを言っています。「この病気は死んで終わるだけのものでなく、神の栄光のためのものです。」と。このイエス様の発言からして、ラザロがこの病気で死ぬと言うことをイエス様は予測していたと言うことになります。14節にはこう書かれています。「ラザロは死んだのです。わたしはあなたがたが信じるためには、わたしがその場所に居合わせなかったことを喜んでいます。」とあります。ちょっと、誤解を招きそうな言い方のように思えますが、すでにイエス様はここでラザロが復活すると言うことを知っていたのではないでしょうか。イエス様はラザロが死んだことを知ってから、ラザロのいるベタニヤに向かいました。イエス様はラザロが死ぬまで待っていたのです。それはなぜかと言うと、神様の栄光が現されるためです。人々が死からの復活という奇蹟的な出来事を見て、イエス様を信じるためです。

 ベタニヤはエルサレムから3キロメートルくらい離れたところにある村でした。そこに着いた時には、ラザロが死んでもう4日経っていました。大勢の人々がそこに集まっていました。マルタはイエス様に言いました。「もしも、イエス様がここにいてくれたら、ラザロの病は治って死ななかったのに。」と。しかし、マルタはかすかな望みをまだ持っていたのでしょうか、続けてこう言いました。「イエス様が神様に求めることは何でも、神様はイエス様にお与えになります。」と。そうしたら、イエス様は、「ラザロはよみがえります。」と答えました。マルタは言いました。「終わりの日のよみがえりの時に、ラザロがよみがえることを信じています。」マルタは終わりの日があることを信じていましたし、その時に復活があることも信じていました。さらに、イエス様はマルタの信仰を確認し、イエス様が神の子キリスト救い主であるという信仰告白へと導きました。

■イエス様は、マルタとマリヤの兄、ラザロの遺体が安置されている墓に行きました。そして、墓を封印していた大きな石を取りのけるようにマルタに言いました。もうすでに4日経っていましたから、マルタは、ラザロの体は腐敗し臭くなっているので、今となってはもう遅いと思っていました。しかし、そう思いながらもマルタは、イエス様に従って石を取りのけさせました。イエス様は父なる神様に祈りました。そして、叫びました。「ラザロ、出て来なさい。」そうすると、長い布で巻かれたままのラザロが出て来ました。ラザロのよみがえりを目撃した多くのユダヤ人たちは、その出来事によってイエス様がキリスト(救い主)であることを信じました。しかし、このような出来事を目撃しているにもかかわらず、ある者たちは信じませんでした。この話を聞いて、ばかばかしくて信じられないという人もいれば、信じる人もいます。

 マルタは最初、兄ラザロがその時に復活することについては疑っていました。ですが、イエス様が言われたことを全面的に否定したわけではなく、イエス様なら何かしてくださる、と言うイエス様への信頼と期待を持ち続けていたのだと思います。このように、マルタは信仰と疑いの狭間で、イエス様の言われることに従って、ラザロの遺体が安置されていた墓の石を取り除けるように言ったのです。マルタの心の中には疑う気持ちがありましたが、しかし、それでも、イエス様の導きに従いました。その結果、神の栄光としてマルタが見たことは、死んでいたラザロが生き返り、布に巻かれたままの姿で墓の中から出て来たことだったのです。たとえ、疑いの気持ちがあったとしても神の導きに従う者は信じる者です。その人は、神の栄光を見るのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とイエス様が言われたとおりに、信じる者にはこのことばが、将来、終わりの日のよみがえりの時に実現するのです。

■今日のメッセージのタイトルは、「信仰と疑いの狭間で」です。けっして、「信仰と不信仰の狭間で」ではありません。不信仰は神様を信じないことであって、罪です。しかし、疑いは罪ではありません、

 私たちは、それぞれの人生の中で、主に信頼する訓練を許されることがあります。そのような時、見捨てられているように感じたり、愛されていないように感じたり、悪いほうへ悪いほうへと考える傾向に陥ってしまうかもしれません。私たちは人間ですから、疑いを持っても当然と言えば当然です。心の中に疑いがあったとしても、神様の言われることを選び、従い、行動するなら、それが私たちの信仰です。ヨハネの福音書11章のマルタからそのことを学ぶことができます。マルタは、疑いや迷いがありながらも、イエス様のことばをできるかぎり信仰的に受けとめようと努めています。また、ラザロの墓の石を取りのけるように言われた時にも、疑いがありましたが、それでも、イエス様に従って墓の石を取りのけました。このように、私たちの心の中に疑いや迷いがあったとしても、神様への信頼を口で告白し、行動で表すならば、それが私たちの信仰なのです。

■イエス様はなぜラザロが死ぬまで待っていたのか。先ほど言ったように、それは、ラザロの復活をとおして人々がイエス様を信じるためでした。そして、イエス様の弟子たちも含めて、ラザロの復活を目撃してイエス様を信じた人々が、イエス様が十字架に死んで三日目に復活した時にその出来事を信じるためであったと思います。ラザロの復活とイエス様の復活とは時間的に離れていません。イエス様が復活したと聞いた時に、弟子たちがその出来事を受け入れられるように、信じることが出来るように、ラザロの復活はそのためのイエス様の配慮といってよいでしょう。

 しかし、弟子たちはマグダラのマリヤと他のマリヤから復活のイエス様に出会ったことを伝えたとき、そのことをすぐに信じましたか。信じませんでした。でも、結果的に信じました。それは、ラザロの復活も彼らの信仰をリバイバルする力となったのではないでしょうか。弟子たちにとって、最初イエス様の復活を信じられなかったのは、やはり、彼らのこだわりを捨てられなかったからだと思います。彼らのこだわりとは彼ら心の中に描いていた彼らの計画です。彼らはすぐにもイエス様による神の御国がこの地上にできることを夢見ていたのです。しかし、彼らの夢は破れ、失望感が彼らの思いを満たしていました。それは、イエス様の復活の出来事を信じることに対して妨げとなったことでしょう。

 そのような妨げは私たちにも起こり得ます。私たちが自分のこだわりにいつまでもしがみついていると、私たちにとって神様のみこころとらえることが非常に難しくなります。そして、いつまでたっても神様の栄光を見ることが出来ません。

■信仰と疑いの狭間で、神様は私たちに助けの御手を差し伸べてくれます。その助けとは、聖書のことばであったり、祈りであったり、その中で語りかける主の御声であったり、また聖霊の働きであったり、また、人をとおして助けがあったり、実際的な出来事の中に起こる神様の助けであったりします。そのような中で、私たちは自分のこだわりを捨てて、神の導きに従わなければなりません。そうする時、私たちは神の栄光を見るのです。そう言った助けを得ながら、私たちは信仰と疑いの狭間で、イエス様に従っていきましょう。その行動が私たちの信仰を表します。そのことを通して私たちは自分が神様に信頼していることや期待していることがわかります。信仰と疑いの狭間で、私たちは、マルタのように、主の言われることに従いたいと思います。そして、信じる者は神の栄光を見るのです。それでは、お祈りします。