神の王国に生きるという神様の呼びかけ

2021年英語礼拝 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

マルコによる福音書1章14〜15節

           

神の王国に生きるという神様の呼びかけ

 

 

 

  オンラインでの参加、並びにここに直接お集まりの皆さん、こんにちは。 皆さんがどこにおられてもご一緒できることを嬉しく思います。

先月、私達は新たなメッセージのシリーズ『神の王国に生きる』を始めました。私達は御国のための神様のご計画に目を向けました。このシリーズの目的は、神様を私達の王として共に生きることの意味を、もっとよく見出すことです。 そうすることで、聖書の概念を知るだけでなく、神様ご自身とのより深く、より親密で、より有意義な関係に至る信仰を日々の生活で叶えるという経験から学びたいと望んでいます。 このことが、礼拝、信仰、共同体、奉仕、伝道を含む教会生活のすべての主要な分野において、私達をひとつの教会として成長させてくれることも、私の祈りです。

 

 先月私達は、神様ご自身の直接のリーダーシップの下で生きるため、民に対して神様が初めにどのような計画をされていたのかを確かめました。 しかし、人々は人間の王を持つことを強く要求しました。神様は非常に悲しみながらも彼らの望みどおりになるようにされました。彼らは長きにわたる王の系譜の下に暮らし始めましたが、それらの王は、神様が人間の社会に対して抱かれていた夢であるシャローム(神の平和)の暮らしへと人々を導くことに、たびたび失敗しました。

 

 最終的に、彼らの王国はバビロンにより破壊されてしまいました。 彼らが故郷に戻ることができた時でさえ、ほどなく彼らはギリシャ人や、(イエス様が地上で生活しておられた間は)ローマ人の支配の下で暮らすことになりました。 先月のメッセージの終わりの部分で、神様が御自分の民のために意図しておられるような暮らしを、人間の王は誰一人もたらすことができないというメッセージを、旧約聖書の預言者達が折に触れ伝えていることがわかってきました。 しかしいつの日か、主ご自身がご自分の民を平和と力と正義のうちに支配してくださる時が来るでしょう。

 

 新約聖書の良い知らせ(福音)は、イエス・キリストを通して、神様が―――これまで用いられなかった独特な力強い方法により―――この世界に神の御国をもたらし始めたことです。 さらにイエス様の生と死と復活を通し、それらを受け入れ、王である神様のリーダーシップの下に喜んで生きようとする全ての人々に、神様の王国、天の御国に近づく方法が与えられました。神様は新たな創造の働きを始められました。それは本来そうあるべきとご自身が意図した方向への命の回復であり、その道はアダムとエバが禁断の実を食べ、罪が世に入り込み、私達人間があらゆる類の偽りの王の下で生きることを始めた以前にあったものです。

 

 私達は、富や権力や人気、気楽さや快適さ、依存や自身の欲望、もしくはその他の何か私達の価値観や願望の中心に据えて間違って一番大事にしているものを王として仕えることで、「良い人生」を見つけようとし続けています。 しかしキリストにあって、神様は私達の人生の王として正当な役割を取り戻し、ご自身の王国を新たに建てる働きを始められました。そして、神様の愛に満ちた賢明な導きの下、御国に生きるよう私達に呼びかけられました。 マルコは福音書の1章14〜15節でこのメッセージの概要を伝えてくれます。

 

 それが全体像です。 そして、実に大きな絵です。 事実、それは人生の全てを網羅しています。 問題は私達クリスチャンが、しばしばどういうわけか私達の心にある様々な方法で、神様を私達の王であるよりもはるかに小さなものへと格下げしてしまうということです。 神様に対する私達の見方や神様への愛は、ねじれてしまったり、縮んでしまったり、私達が選びがちなものから断片的に切り分けられてしまったりします。 そのようにする時、私達はキリストが教えておられる神の御国には住んでいません。 イエス様がご自身の教えと人生の中心に据えられた「神の御国の福音」(ルカ8章1節)を生き抜いてはいないのです。

 

 例えば、私達は福音を「罪の管理の福音」に過ぎないものに縮小してしまう可能性があります。 ダラス・ウィラードは、私達が、キリストが十字架により与えてくださった罪の赦しに焦点を絞り過ぎることで、イエス様の行いや教えにある他のすべてのことを見逃してしまう可能性があると指摘しました。福音主義の教会に通う人々は、罪の赦しのための悔い改めと、その結果としての救いと天国の約束を、それがすべてであると考えるほど強調されて聞く可能性があります。本当に重要なのは「罪人の祈り」をして、心から信じ、キリストの死を通して罪が赦されることを神様に願うことだ、という印象を持つようになる人達もいます。それで資格を得る(切符に穴があけられる)というわけです。

 

 このような救いの観点において、キリストに従う者としての私達の主な目的と責任は、どうにかして信仰の告白に適した言葉を自分の口から引き出すことや、同様のことを行うためにできるだけ多くの他者を導くことです。それから、いつの日か私達が死ぬ時には、天国の門の中に入ることを確信するでしょう。 私が死ぬ時に天国に行くための最低条件とは何でしょうか? それこそが、焦点がずれ、安定を欠き、大きく歪んだ型(バージョン)であるキリストの福音へと駆り立てる質問です。もちろん罪から救われ天国に行く約束を与えられることは、私達の主の非常に重要な教えです。しかし私達が、それが全てであるように行動するならば、私達はイエス様の核心となるメッセージの多くを見逃してしまい、事実上福音を弱め、誤って伝えることになります。 それでは神様の王国に住んでいることにはなりません。

 

 私達のような教会の信徒は、私達の信仰が「罪の管理の福音」(地獄の火に対しての「火災保険」)以上のものではないという印象を他の人達に与えないよう、注意する必要があります。 私達は福音派の教会の部類に入りますが、その名前はしばしば誤解されたり、明らかに否定的な方向で受け止められたりします。ますます多くの人々が、それを政治的な意味で保守的な、また特定の政党と繋がりを持つと考える傾向にあるのです。(私の母国の場合、多くの人々が「福音派のクリスチャン」という言葉を聞くと直ぐに「白人のトランプ支持者」だと考え、その人を疑いの目で、もしくはまるで悪人かのように見ます。)     私達は、私達の信仰が政治よりもっと深く人生の全ての部分に結びついていることを語る――更にはもっと強く示す――必要があります。救いは皆さんの人生すべてに関わるものであると、聖書は明示しています。

 

他には、罪と悔い改めに関する居心地の悪い部分を省き、主に 社会問題を解決することに焦点を当てることによって、神の王国の福音を歪める可能性のある人達がいます。不正と抑圧は私達の世界のいたるところで、常に存在します。そうであってはいけないのですが、そうなのです。そして一部のクリスチャンは、不当な状況や法律、組織を変えるための働きを、彼らの使命と奉仕の主たる中心に据えています。彼らは 人種差別や貧困や薬物乱用、あるいは社会における他の特定の悪と戦うことを力説するかもしれません。現に人々の実生活に大きな損害を与えるこれらの力に立ち向かうことは、クリスチャンの信仰が偽らざるもので、今ここでの私達の日常生活に重要なものだという感覚を与えることができます。

 

しかしそこにはまた、特定の社会問題に集中しすぎることでキリストが見落とされたり、人々に奉仕しようとする過程でキリストのメッセージが見失われてしまう危険もあるのです。たとえば『解放の神学』のようなものに焦点を当てた人達もいます。それは、私達自身の罪からの解放について、キリストの重要な霊的教えを大部分省略し、抑圧的な政府を打倒することを目的とした政治的行動に焦点を合わせているように見えました。 歴史は、キリスト教の信仰を乗っ取ろうとしたり、特定の形態の政府や政党、指導者や民族グループのようなものを推し進めるためにそれを利用する人々の例であふれています。 それでは神様の王国に住んでいることになりません。

 

 私達がキリストの福音の一部を無視したり、ひどく誤った解釈をしてしまう道に終わりはありません。私達は事実上不完全な、あるいは間違った福音を受け取り、ほどなくそれを他の人に伝えてしまいます――大抵の場合それは意図せずに行われ、ひいては自分達がそうであることに気付くことすらないかもしれないのです。

 2005年に、クリスチャン・スミスとメリンダ・デントンという2人の社会学者が、『魂の探求:アメリカのティーンエイジャーの宗教的および精神的な生活』という本を書きました。 その中で、彼らはアメリカの若者たちが、自分達が持っていると語る信仰について述べています。彼らが言うことのいくつかはアメリカに限られたことであり、皆さんの年代ではないでしょうし、主要な点で2021年とは異なる時代の人々です。しかし、私達の暮らしやこの国の文化、そして現代と重なる点も多くあると思いますので、その内容をもう少し詳しく見てみましょう。

 

 彼らはこれらの若者の信仰をmoralistic therapeutic deism (道徳的セラピー理神論)と呼んでいます。このキリスト教のバージョンにおける主な教義は以下の通りです。

  1、 神は人間の生活を創造し、見守っている。

  2、 世界の宗教のほとんどで教えているように、神は人々が互いに善良で親切で、公正であることを望んでいる。

  3、人生の中心的な目標は、幸福になり、自分自身が快く感じることである。

  4、問題を解決するために神が必要とされる時を除いて、神は自分の人生に特に関与する必要がない。 

  5、善良な人達は死ぬと天国に行く。

 

 これらの考えを一つずつ取り上げてみても、 聖書に見られるイエス・キリストの福音との矛盾をさほど多くは見つけられないかもしれません。 しかし、そこにはとても多くの欠落があり、単純化され過ぎたり、重要な点を都合よく変えたりしているのです! もしもそれらを光にかざして、それをキリストの中心的なメッセージと照らし合わせて見れば、これは私達自身のイメージの中で作り出した神についての見解なのだとわかります。この考えからによれば、私達は人生の中心にいます。しかし私達が、感染症の拡大(パンデミック)や自然災害、命の喪失などの現実に直面したとき、この神は力不足です。このような信仰と共に人生を生き抜こうとすれば、私達は容易に、イエス様が死なれた後のエマオへの道中にある弟子達のようになってしまいがちです。弟子達はイエス様について、「・・・私達はこの方こそイスラエルを解放して下さると望みをかけていました。」と言いました。私達は信仰に見切りをつけてしまうところに到達することがあるのです。

 

 クリスチャンの信仰に対する本当の危険は、懐疑的な世の中がキリスト教を受け入れようとしないことばかりではありません。さらに危険なのは、それ自体が不十分で脆弱で空虚な型式のキリスト教――あるいは、独自の異なる目標を達成するために正統なキリスト教の信仰を利用している基本的に別物の宗教です。 つまり、私達が神の国の福音を理解し受け入れることを根本的なレベルで誤ると、イエス様に従う者としてよりも本質的に異なる何かに従って生き、他の人達を同様に導くことになる危険に直面するということです。

 

 ですから私達に必要なのは、キリストがご自身に従って神の王国に住むことを人々に呼びかけられたとき、何を心に留めておられたかを、初めに立ち戻ってもう一度確かめることです。 バプテストの牧師で哲学者のダラス・ウィラードは、王国のことを「個人の力の体系」と呼んでいました。 あなたは王国を――つまりあなたがコントロールできるものを持っています。そこには例えば、あなたのお金や時間や体力をどのように費やすかについての選択権があります。 あなたの身体はあなたの王国の一部であり、他の誰にもそれを侵害する権利はありません。 あなたがなりたいと心に定める人物像、追求しようと決意する職業、結婚相手に選ぶ相手――これらの全てがあなたの王国の一部です。あなたの周りの人々もそれぞれの王国を持っています。また、家族、クラス、委員会、教会、都市や都道府県、さらに国家といったグループに渡って、自由な意思決定を行うことのできる王国があります。「聖書の時代の人達には王様がいたけれど、私達が属する今の世の中はそうじゃないのだから、私には神の王国が理解できない。」と思うかもしれません。しかし、イエス様は私達の日々の経験に関わることについて、今も確かに語っておられるのです。

 

神様が起こって欲しいと望んでおられることが私達の生活で現実になる時、私達は神の王国に生きています。神様は私達に「互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13章34節)と言っておられます。だから、私達が家族に語ることが――意見が合わないとか、性格的な不一致があったりする場合は特に――私達が理解しようと最善を尽くし、たとえそうできない場合でもお互いを尊重し合うことが示される時、私達は神の王国に生きているのです。私達が自国の政治リーダー達をニュースで見て、彼らは自分が投票した人達ではないということや、自分達にとって非常に不愉快なことをしているという理由で深い失望を覚える時に、神様を私達の王として共に生きるとはどんなことでしょうか? それは、私達の神様が教えて下さっているようにその人達のために祈ることを選び、彼らを支持する人々と共に平和のうちに生きる道を探すこと、そしてそれらの人々に対して冷酷で愛のない態度になることでキリストの最も中心にある教えを破るのを拒むことです。私達がこれらのような状況に従うことを選ぶ時、神様はお喜びになり、神様の世界は、少なくとも私達が関わる部分において神様が設計されたとおりに機能します。完全で力を持った神様のシャロームがそこにあります。私達は天の御国に生きているのです。

 

 私達は、私達を型にはめて導く「地上の王国」に価値を持たせることに対して、ノーと言っています。神様の御言葉、その御心、その道に対し、イエスと言っているのです。それはウイラード博士が神の王国を「神の効力ある意思の及ぶところ」と呼んだ際に意味したことです。

 

 つまり神様が私達に呼びかけておられるのは、神様をよりよく知り、神様が最初に人間社会を作られたときにお持ちになっていた、賢明で愛情あふれる設計図に相応しいやり方で、毎日の生活を整えることを学びなさいということです。そうするならば、私達は神様が愛するものを愛し、神様が望まれることを望み、神様が明らかにされた私達のためのご計画に自身を委ねることを学ぶでしょう。そして何にも増して私達が求めるもの、神様を笑顔にすることができるでしょう。繰り返しますが、それこそ、私達が「上(天)で行われることを、ここ(地)にもたらす」と呼ぶものであり、イエス様が「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6章10節)と祈られたときに意味したことです。それを今再び、私達の祈りにしましょう。

 

   神様、思いやりと慈しみに満ちた私達の父であると共に、主であり指導者であり王であられるあなたに祈ります。「・・・天になるごとく、地にも・・・。」  愛する神様、私達にもそれが実現しますように。

 

 天国では、誰一人見捨てられることがありません。 ですから、私達が周りを見回し、地域や職場、学校、家族、その他どこであっても、言いたいことが言えず、居場所がないと感じている人々がいることに気づくよう助けてください。 私達が真に彼らを理解し、あなたの愛の霊によって突き動かされ、その人達の友人、パートナー、兄弟姉妹になるという道を切り開くことができるよう助けてください。

 天国では、全ての人の必要が満たされます。 ですから周りを見回して、あなたの導きによって私達が出会うことのできる、窮状を抱えた人々を見つけることができますよう助けてください。 私達に、あなたのように理解し尊重する分別と、よい手助けの仕方についての知恵をお与えください。

 

 天国では、誰も未来を恐れる必要はありません。 ですから、あなたが私達に強く望んでおられるように、私達が深遠なる平和と安全、安定と健やかさを持って生きる人々になれるよう助けてください。そうすれば私達が出会うすべての人達とそのシャロームを分け合うことができます。

 

 今は私達の平安を奪おうとするほどのたくさんの問題があります。しかし私達の心配が王なのではありません。 私達はあなたを王として受け入れますから、あなたの王国に住むために、これからの日々の生活を通して、より一層学べるよう助けてください。それが私達の祈りです。イエス様のお名前によって。 アーメン。

 

参考

 

Ortberg, J. (2014). The kingdom of God. Pepperdine Bible lectures. Pepperdine  University. Retrieved March 14, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=TOJ8Jrrc8vs&t=1191s

Smith, C. and Denton, M. L. (2005). Soul searching: The religious and spiritual lives of American teenagers. Updated edition. Oxford, UK: Oxford University Press.

Willard, D. (1988). The spirit of the disciplines: Understanding how God changes lives. New York: HarperCollins.

Wright, N. T. (2015, October 22). The kingdom of God, with the Rt Revd Dr Tom Wright. St Paul’s Cathedral. Retrieved March 14, 2021 from https://www.youtube.com/watch?v=rLiy-WlS9mA