キリスト中心

2021年2月28日主日礼拝「キリスト中心」ヨハネの黙示録3:20 佐々木俊一牧師

■今日のメッセージタイトルは「キリスト中心」です。このことばそのものが聖書にあるわけではありません。でも、このことばには、とても重要な響きがあります。たぶん、「キリスト中心」という言い方は以前に聞いたことがあるかもしれません。「キリスト中心の説教」とか、「キリスト中心の生き方」とか、「キリスト中心の交わり」とか、そのような言い回しを聞いたことがあるかと思います。今日、私が「キリスト中心」というタイトルで話をするように導かれたのは、時々私が見るある本を通してです。とてもためになることがその中に書かれてあるので、私は時々取り出しては読むことにしています。それは何かというと、日本バプテスト連盟が出している、「教会員手帳」です。この教会員手帳の39ページに、「キリスト中心」というのがあります。そこをちょっと読んでみますね。

「私たちはこの世界のただ中でかつて一度、すべての人のために起こったイエス・キリストの出来事の中に神がご自身を現し、私たちに出会われたと信じます。」

 すべての人のために起こったイエス・キリストの出来事とは、簡単に言うならば、こうなるでしょう。神の御子なるイエス・キリストがこの地上に人としてお生まれになり、人として生き、30才になって神の救いを宣教し始められました。そして、病にある人々や苦しみや悲しみの中にある人々を助け、いやし、神の愛を人々に豊かに表されました。一時は、イスラエルが待ち望んだメシヤ(救い主)として歓迎されました。けれども、彼らが望んでいたようなメシヤでないことがわかると、彼らはそのお方を捨てました。その結果、神の計り知れない救いのご計画の中、人の罪の代価を支払うためにそのいけにえとなって十字架に死にました。しかし、三日目によみがえり、40日の間弟子たちと多くの人々の前に現れました。そして、再びこの地上に戻って来ることを約束して、天に帰って行かれました。私たちはこの地上に来られた神の御子、救い主なるイエス・キリストを通して、万物の造り主なる真の神様を知ることができるのです。そして、私たちクリスチャンは、イエス・キリストが救い主であることを信じ、再び来られるこのお方をいま待ち望んでいるのです。そんな私たちは、イエス・キリストを救い主として個人的に受け入れたときに、信仰によって、主イエス・キリストに出会ったのです。そして、現在に至って、今も生きて働かれる主イエス・キリストと関わりをもって生きているのです。

「このキリストとの生きた交わりこそ私たちの信仰の中心です。」

 キリストとの生きた交わりとはどんな交わりでしょうか。その事については、あとで見ていきたいと思います。私たちにはこのキリストとの生きた交わりがあるのです。そして、それが私たちの信仰の中心だと言うのです。

「確かにキリストは媒介なしにではなく、教会をとおして、また教会の説教や礼典などを通して私たちに伝達されますが、そのようなキリストを指し示すもの(媒介)が、指し示されるお方(キリスト)の上位に来ることは認めません。」

 これはいったい何を言っているのでしょうか。確かに、私たちは教会での説教や礼典(主の晩餐式・バプテスマ式)をとおしてキリストを知り、キリストの価値観や世界観について知ることができます。「今日の説教は本当に良かった。励まされた。」素晴らしいことです。「今日の説教は何を言っているのかさっぱりわからなかった。眠くて仕方なかった。」すみません。こういうこともあります。毎回だと困りますよね。とにかく、語られるメッセージに応答してくださることは、メッセンジャーにとっては感謝なことです。語られるメッセージに対し全面的に共感してもらわなくてもよいのです。それを鵜呑みにする必要はありません。お一人お一人に与えられている聖霊の導きと助けを信じて、考える機会としてください。そして、吟味してくだされば、そして、受け取ってくだされば、それだけで感謝なことです。そのようにして、さらに、キリストを知って行っていただきたいと思います。

 注意しなければならないのは、礼拝にしても、主の晩餐式やバプテスマ式にしても、単に形だけのものになってしまうことです。礼拝や礼典も意味のある事であって、それらに出席することはとても大切なことです。ですが、それらに出席することだけが重要視されて、肝心なことがなおざりにされているならば、それはとても残念なことです。たとえば、礼拝において、聖書のことばが語られ、祈りがささげられます。また、神様の御名をほめたたえ、感謝と賛美をささげます。この礼拝の中には、目には見えませんが、主イエス・キリストが共におられることを私たちは覚えなければなりません。礼拝はキリストによって呼び集められた者たちが一つになって神様と交わるときであることを覚えなければなりません。礼拝式に出席することが、信仰の中心なのではありません。礼拝の中におられるキリストを礼拝することが、信仰の中心なのです。これこそが、キリストとの生きた交わりなのです。

 私たちが求めるのは、キリストそのものであり、生きたキリストとの交わりなのです。それが、私たちの信仰の中心なのです。ですから、毎週日曜日の礼拝も含めて、日々キリストとの生きた交わりを目指していきたいと思います。それでは、キリストとの生きた交わりとはどういうものでしょうか。また、そのようなキリストとの生きた交わりを持って行くために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。

■ヨハネの黙示録3:20 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに

食事をする。」

 この箇所にある「戸」、言い換えれば、「ドア」を、心のドアと考えましょう。イエス様は、お一人お一人の心のドアの外に立って、トントントン、「よろしければ、ドアを開けてください。そして、一緒に食事をしましょう。」と声をかけています。ある人は、トントントン、というドアをたたく音とイエス様の呼びかける声に気が付きますが、ある人は、心の中の雑音があまりにも大きくて、その音や声に気が付きません。その音と声に気が付いたある人は、鍵を開けてドアを開けます。そして、イエス様を中に迎え入れます。しかし、その音や声に気がついたある人は、忙しくてそれどころじゃないと言って、無視します。

 私たちは、イエス様のドアをたたく音と呼びかける声に応えて、私たちの心の内に入っていただきました。それを証してくれるのが、私たちの内におられる聖霊です。いま、私たちの内には、イエス様が共におられる状態なのです。しかしながら、共におられる状態であるにもかかわらず、もしも、私たちが、イエス様が一緒にお話ししましょうとか、一緒に食事をしましょう、と呼びかけても、それに応えていないとしたら、それは、イエス様を心の外に追い出していることと同じではないでしょうか。もしもこのような状態だとしたら、それはとてももったいない話です。せっかくイエス様が誘ってくれているのに、それを断るなんて、本当にもったいない話なのです。

■今から約3000年前、イスラエルにダビデという王様がいました。ダビデ王の前にはサウル王がいました。サウル王にはヨナタンという息子がいました。ヨナタンはダビデのことが大好きで、二人はいつの日か、友人になっていました。友人と言ってもただの友人ではありません。神様のみ前に約束(契約)を交わした非常に親密な友人関係を結びました。その約束の中には、もしも、自分が死んだときには、自分の家族、妻や子どものことを頼む、というような内容も含まれていました。ペリシテ人との戦いで、サウルもヨナタンも死んでしまいました。その後、サウルに代わってダビデがイスラエルの王となりました。ダビデ王は、メフィボシェテというヨナタンの息子がまだ生きていることがわかった時に、ヨナタンの息子メフィボシェテをダビデ王の息子としてダビデの家に迎え入れました。それから、メフィボシェテは、ダビデの他の子どもたちと同じように王家の子どもとして、同じ食卓で一緒に食事のときを持つことが許されました。私たちもメフィボシェテと同じ立場にあります。私たちは、キリストによって、神の子とされ、神の食卓でイエス様と共に食事のときを持つことが許されている、そんな立場にあるのです。

■このように、食事を共にすると言うことには特別な意味がありました。それは、非常に親しい関係を意味し、仲間の一員、家族の一員として認められたことになります。契約を結んだ後には必ず、一緒に食事をし、みんなで喜び祝う慣習がありました。そのようなことは、モーセの幕屋において動物のいけにえがささげられた時にも見られることでした。

 オープン・ドア・チャペルにおいても、礼拝後にポットラックで昼食を一緒に食べていました。約1年前まではそうでした。残念なことに、コロナでできなくなってしまいました。ご馳走を持ち寄って一緒に食べることはとても楽しいことです。美味しいものが食べられることは言うまでもありませんが、それだけではなくて、わいわいがやがや、会話をしながら交わることも楽しいことです。食べながら会話を楽しみ、互いに交わることは、本当に幸せを感じるときです。礼拝後に、このような時を持つことは、非常に聖書的なことなんです。福音書を見ると、イエス様ご自身も招かれて人々と共に食事をする場面がなんと多いことでしょうか。イエス様が十字架にかかる前もそうでした。弟子たちと共に最後の晩餐、過ぎ越しの食事の時を過ごしました。そこで、弟子たちはイエス様との間に新しい契約を結んだのです。共に集まり、神様を賛美し、礼拝し、神様の約束と救いを覚えるごとに、みんなで一緒に食事をしました。それは、実に聖書的なことなのです。初代教会においては、このような交わりをとおして多くの人々が救われていたことが使徒の働きに書かれています。

■マタイ4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」

 これは、イエス様が40日40夜の断食の後、空腹を覚えられた時に、悪魔に誘惑された時に言われたことばです。悪魔はイエス様をどのように誘惑したかというと、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」と言って誘惑したのです。何でこれが誘惑なのでしょうか。イエス様は神の御子なのだから、石をパンにするくらい簡単なことではないでしょうか。イエス様の一番目の奇蹟は水をワインに変えることでした。空腹な状態の中、ここで、石をパンに変えたからと言って何がいけないのでしょうか。それは、たとえ、良いことのように聞こえたとしても、悪魔の言うことに従うと言うことには、その結果、大変なリスクが伴うと言うことです。悪魔は、聖書のことばさえ利用して、イエス様を誘惑してきました。聖書のことばだからと言って、油断してはいけないこともあるのです。悪魔の誘惑に一度落ちるなら、そこから抜け出ることは大変なことです。どんどん深みにはまって行ってしまうのです。ですから、悪魔の誘惑には気をつけなければなりません。麻薬の誘惑、ポルノの誘惑、お金の誘惑、不倫の誘惑、権力の誘惑、この世の中には、悪魔の誘惑はいろいろなことばや形を変えて、弱みに付け込んでやって来ます。

 私たちがはまるなら、それは神のことばです。神のことばにはまるなら、私たちは栄えると聖書は言っています。口語訳で、箴言16:20をお読みします。「慎んで、みことばを行なう者は栄える。主により頼む者は幸いである。」新改訳では、「みことばに心を留める者は幸いを見つける。主により頼む者は幸いである。」となっています。みことばを行なう者は栄えるのです。みことばを行なう者は幸いを見つけるのです。みことばを聞いただけでは、みことばを行なう事とはなりません。みことばを誰かに伝えただけでは、みことばを行なうことにはなりません。パンは私たちの体を養いますが、神のことばは私たちの心と霊を養います。パンを食べて体に生きるための栄養と力が与えられるように、みことばを行なうことによって心と霊に生きるための栄養と力が与えられるのです。みことばは、ただ聞くだけでもなく、ただ教えるだけでもなく、行なって初めて力となるのです。そして、そのことが、栄えや祝福へとつながっていくのです。 私たちは神のことばの食卓に共に集まりたいと思います。

■キリストとの生きた交わりを持って行くことこそが、私たちの信仰の中心だ、と先ほど言いました。それでは、キリストとの生きた交わりとはどのようなものでしょうか。それは、キリストとの親しい交わりです。どうしたら、キリストとの親しい交わりを持てるのでしょうか。

 私たちは幸いにもイエス・キリストを救い主として受け入れました。いま、イエス様は私たちの霊と共に、内住んでおられます。しかし、もしかしたら、いまだにあまり親しくなっていないかもしれません。あまり自分の事をイエス様に語ったことがないのではないでしょうか。自分の悲しみや苦しみを、人にではなくてイエス様に語ったことがありますか。正直に、素直に、自分の良いところも悪いところも、弱さや醜さや罪についても、さらけだしたことがありますか。何を言っても、イエス様は驚かないし、拒絶もしません。ただ、罪を指摘することはあるでしょう。でも、それに対して罰することはありません。イエス様は私たちをすでに赦しておられます。

 イエス様との交わりは、このようなことばかりではありません。イエス様への感謝のことばや賛美のことばもあって当たり前です。困ったことがあればイエス様に相談してください。聖書でわからないことがあったらイエス様に聞いてください。このようにして、イエス様と交わりを続けて行くなら、イエス様と自分との間には親しい関係が築かれていきます。

■ガラテヤ3:26 「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」とあります。

私たちは、キリストによって神の子という立場にあります。神は私たちの父であり、私たちは神の子です。この関係は、私たちの過去・現在・未来のいかなる罪によっても壊されることはありません。私たちはキリストのおかげで、いつでも恐れることなく神様のみ前に出て行くことのできる立場にあるのです。また、いつでも、神様の食卓で他の神様の子どもたちとわいわい楽しく交わることが許されているのです。

 何か神様のみこころでないことをやってしまい、罪悪感に取りつかれてしまったような時でも、私たちは神様の前に出ることが出来るのです。もしもできないとしたら、それは、自分の心がそのようにしているだけです。そのような時には、素直に、その事を神様のみ前に告白してください。そうしたら、その気持ちから自由にされます。そのような気持ちは長く持ち続けないでください。できるだけ早く自分の手から放すようにしましょう。

私たちは神様の喜ばれること、神様のみこころを行なうことを目指したいと思います。そうすることは、神の子にふさわしいことです。それによって、私たちはますます、神様を証する者として成長していきます。それは、私たちに、教会に、クリスチャンという神様の家族に、栄えと祝福をもたらしていくでしょう。そして、それは、多くの人々に、さらに、神様を証していくチャンスを作っていくでしょう。

 でも、私たちは不完全であり、弱さがあり、失敗もします。それでも、恐れないで前進していきましょう。神の子としての立場は、キリストによってしっかりと確保されています。私たちはキリストとの交わりを保ち、他の神の子、つまり、クリスチャンとの交わりを保ち、信仰生活を送って行きましょう。これが、私たちのキリスト中心の生き方です。それではお祈りします。