神の王国で生きる

2021年2月21日英語礼拝 メッセンジャー:ジム・アリソン牧師

 

第一サムエル記8章4〜11、17〜22節

           

神の王国で生きる:御国に対する神様のご計画

 

 

 ここ数ヶ月、私は とりわけコロナウイルスの状況に関連する多くのメッセージをお届けしてきました。そうするように導かれていると感じていたからですが、聖書にある神様の教えの中心に重点を置くことを確認する必要があるとも思っています。私達が特定の状況や責務に長く留まり過ぎると、神様の私達へのメッセージの最も重要な部分との接触を失う可能性があります。言い方を変えれば、私達は主要なことを主要なこととして保つ必要があるのです。そうすることにより、今も続く感染拡大の危機を含め、いつの時代であっても関連する事柄について神様が語られる言葉に耳を開くことが出来ます。

 

 それでは、神様の言葉の中心になるメッセージとは何でしょうか? それはここに立って説教する私達にとって指針となるべき問いであり、神様の導きの下でリーダーを選ぶ教会のメンバーにとって、重要な関心事であるはずです。 キリストの教えが中心にあり、福音はその中核です。そして福音の核心は、それを入念に追究する人々にとっては明らかですが、神の御国の実在性なのです。

 

 皆さんは神の御国についての説教をあまり多くは聞かないかもしれませんが、福音の物語を読むなら看過できないものです。 例えば、マタイは福音書の4章23節で、「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」 と語っています。 9章35節でも、イエス様が教えられているのは「御国の福音」です。そして、キリストはご自身の宣教が終わりに近づいているマタイ24章14節にあっても、依然としてこのテーマに焦点を合わせ、御自身の民も常にそうあるべきと言われます。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族への証しとなる。それから、終わりが来る。」と宣言しています。 

 

 ルカの福音書通読の過程には、同様にイエス様によって神の御国が非常に明確に示されていて、キリストにとってそれがどれほど重要であったかの言葉があります。4章43節でイエス様は「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。私はそのために遣わされたのだ。」と宣べています。イエス様が死なれて復活し、天国に戻った後でさえも、継続的に働かれていたことを使徒の働き第8章12節はこのように叙述しています。  「しかしピリポが神の国とイエス・キリストの御名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女もバプテスマを受けた。」

 

 もしも神の御国がキリストにとってそれほど重要であるならば、主に従う私達もまた、それを 生活の中心に置く必要があります。しかし私達は、それは抽象的なものであり、この世界での私達の生活とどのように関わっているかを理解するのが難しいと感じているかもしれません。私達は、イエス様が「天にいます私たちの父よ、・・・御国が来ますように」と祈られたことを知っています。 しかし、それはどのような意味でしょうか? イエス様は次の句で「みこころが天で行われるように地でも行われますように」と説いておられます。天における人々の間にある関係とはどのようなものでしょうか? それは平和と愛によって示されると言っても過言ではないと思います。 それなら神様は、家族や同僚、教会のメンバーや他の人々との私達の関わりにおいては、どのようであって欲しいと望んでおられるのでしょう? そう、 たとえ完璧には無理でも、私達がお互いを理解するために最善を尽くすことを望んでおられます。 私達自身がそうして欲しいと望む方法で相手にも接することを望んでおられるのです。 私達がそのようにするとき、神様の御国に住んでいることになるのです。 それを「天(上)を地(下)にもたらす」と呼ぶ人達もいます。

 

 今日は皆さんとご一緒に、神様の御国に住むということが一体どのようなものなのか、それが意味するところをさらに探求していきたいと思います。もしも私達の王であられる神様と共に生きる方法を本当に学ぶことができれば、私達がこの世界でここに生きる目的を全うすることができます。 結局のところ、私達がここにいることの主要な点は、聖書の世界観によれば、天国に備えるためなのです。 私達は愛に生きる方法を学ぶためにここにいます―――神様や私達を取り巻く人々と共に。それが私達が天の御国で永遠に行うことであると、神様は私達に教えられます。ですから私達にとって、この世界での限りある時間を、愛を与え、そして受けるのを常とする人になることに費やすのが、唯一理にかなったことなのです。それこそが私達を、誰かがそう呼んだように、最高の自分を精一杯生き抜く人間たらしめるものです。

 

 皆さんは既にお気づきでしょう。私達は、神の御国で生きることを、今この地上で始められるものとして考えているのです。最期の時とか死後におけるいつかに限定されたものではありません。イエス様が聖書の中で神の国、または天の御国について語られる時、それは非常に実践的であり、私達が今この世界のこの場所で、最大の意義と目的と力を持ってどう生きればよいのか―――また、私達の肉体が死んだ後も人生の不変の型であり続けるためにどうすべきかを述べておられるのです。

 

 私が以前ここで言ったように、新約聖書ではしばしば「天(単数形)の御国」と「天(複数形)の御国」両方の言い回しを使用します。世界観の一部は、それが何でありどこにあるかです。新約聖書作家の世界観では、天国には段階があります。例として、パウロはコリント人への第二の手紙12章2節で、「第三の天」と記しています。さて、それらの天国はどのくらいの高さにあるのでしょうか? たとえば、第一の天国はどこから始まるのでしょう? 聖書の観点から言うと、それは地上からです。言い換えると、私達が今いるところです。もし私達が全世界を創造された神様の子供として受け入れられているのなら、そして神様が私達の心と精神と身体を神様の宮として下さるのなら、私達は既に決して砕かれることのない絆で神様とつながっています。神様が最初に私達を創造された時に私達のために心に留めておられた神様の御国で、永遠の命への道を既に歩み始めているのです。もちろん、私達はまだ弱く罪深い人間であり、いつかこの世界での生活を終え、私達の肉体が死に、キリストが私達を新しい段階にある存在として神様と共にいるよう連れて行って下さるまでは、天国に完全に適合することはありません。しかし、そのプロセスは始まっています。イエス様を通して、私達は罪赦され、 清められ、受け入れられて神の家族の子供としての資格を得ました。 ですから、今私達がすべきことは、神の御国の市民として、私達が真にあるべき者の姿で生きることを学ぶことなのです。私は、 この一連のメッセージ『神様の御国に住む』を通して、神様の臨在の中でどう生きるかを、皆さんと共により深く学び始めることにワクワクしています。

 

 今日の箇所は、神様がご自身を王として共に生きる人々の群れを作ろうと決意された時、まず最初に何をお考えになったのかということに確かな視点を与える手助けになると思います。 特に旧約聖書において、この群れはイスラエルという国でしたが、その場合でも一つの民族や市民権を持つ者の集団に限定されてはいません。神様は様々な背景を持つ人々を選ばれますが、その共通点は、彼らが神様に向かって心を開き、信仰において神様に従うことをいとわないということでした。

 

 主はご自分の民を呼び集め、特にヘブライ人がエジプトを去り、最終的に砂漠を越えて現在のイスラエルである約束の地へ入るための多大な闘争を通し、御自身に従う者達の国を建てられました。何年もの間、彼らは公式の国という体裁を持たずにそこで暮らしましたが、一時期は、神様が民を導くために立てられた特定の人物が彼らと共にいました。それらの者達は士師と呼ばれ、その代表格はサムソンやデボラです。

 

 しばらくの間はこれがかなりうまく機能しましたが、時間が経つにつれて問題が生じました。ひとつは、忠実で影響力のある指導者サムエルが年老いた後、彼の代わりに立てられた指導者達が堕落したことです。その時点で、神様の民は重要な課題に直面させられました。彼らが自分達の生活を導き守ることにおいて、誰を最も信頼すべきか?という課題です。これは、神様の御国の有り方が2021年の日常生活と非常に明確な形で結びついていることを声高に語る部分です。例として、私達の時代における多くの人達もまた、人間の指導者達の弱さや腐敗という問題に苦悩しています。特に私達に投票権がある場合、そこには実直で有能なリーダーを選ぶ機会と責任があります。しかしそのようなリーダーを見つけるのは大変難しく思われます。 そして、誰を選ぶのが最善かということについて、私達は互いに同意できないことがしばしばなのです。

 

 聖書は、選挙においてどの人物または政党に投票すべきかを教えてはくれません。 どの税率が最適か、あるいは大きな政府と小さな政府のどちらの方がよいかも教えてくれません。 民主主義、社会主義、共産主義、君主制、その他のどれであるかにかかわらず、人間の政府にひとつのシステムを設置して、すべての国にそれを活用せよと言明してはいないのです。 ですから、私は特定の政治組織や政策、または政治問題に関する立場を推奨するためにここにいるわけではありません。 それ以上に聖書を通して神様が私達に与えてくださっているのは、特定の政治体制や権力よりも、もっと堅固な基盤の上に私達の生活を築く方法を教えることだと私は考えます。神様は、ご自身を私達の王として共に生きることがどのように私達を自由にし、多種多様な人間の政治システムの中においても良い生き方ができるかを示して下さいます。神様の教えは、政治的な議題について自分達に同意してくれるか否かにかかわらず、私達を取り巻く人々への理解と尊敬と親切心を持って平和に生きる助けとなり得るのです。

 

 神様がご自分の民を約束の地に連れて来られた際、神様のご計画は、ご自身の直接のリーダーシップの下、愛する人達のコミュニティの中で彼らが自由に暮らすように導くことでした。彼らの社会のための神様のご計画は、ヘブライ人の預言者がシャロームと呼んだものです。神様の民として、彼らは正義と思いやりで特徴づけられ、自由で安全な暮らしを営んでいました。  そこでは、両親は子供たちに愛と受容を与え、子供たちの心は両親に向けられていました。文化は美しさと道徳的な教示と善をもたらすためにありました。彼らは週に1日を安息日として休み、誰ひとり仕事中毒になることはありませんでした。誰もが余暇と休息の精神を持って生活していたのです。

 

 神様の御国では、十分の一税と呼ばれる慣習があり、消費主義や物質主義の奴隷になることはありませんでした。 彼らが「どれだけ多く得ることができるか?」「私に何の得があるのか?」という問いに支配されることはなかったのです。 そこには寛容の精神があり、人柄の善良さにあって生きるためにお互いに助け合いました。 それこそがシャロームでした。 神様はシャロームのための枠組みのひとつとして旧約聖書の法を彼らに与えられました。 それはイスラエルと人類全体に対する神様のご計画でした。

 

 しかし、イスラエルの人々には問題点がありました。 彼らは、「もし私達がそのような生き方を選ぶなら、神様を我々の王にしなければならない。私達の短い人生を神様に委ねざるを得ない。私達は本当にそうしたいのだろうか? 私達が問題を抱えるとき、危険が迫っているとき、不安を感じるとき、ただ神様がなんとかしてくれるだろうと信じて生きるしかないのか? 自分がそれを望んでいるのか、私にはよくわからない。」

 

 そこでイスラエルのリーダーである長老たちは、サムエルのところへ行きました。彼は預言者であったからです。彼らはサムエルに彼らが望むことを話しました。長老たちは、(5節)「・・・我々を導く王を任命して下さい。他のすべての国々に王がいるように我々も王を望んでいます。」と言いました。

 サムエルはこれを喜びませんでした。彼は主に祈りました。神様は彼に言われました。(7節)「・・・彼らが背を向けたのはあなたではない。彼らの王として望まれていないのは私なのだ。」

 

 このように仰る神様の心の嘆きが、皆さんに聞こえますか? 神様は、もしもご自分の民が王を立てることを執拗に求めれば、物事がうまく行かなくなることを知っておられます。しかし神様は愛の神であり、自由のないところで愛はよく育たないことをご存知です。 そこで神様は、彼ら自身が原因で受けることになる痛手を知りつつ嘆きながらも、敢えて民が望むものを得させることにします。 神様はサムエルに(9節)、「彼らが欲するものを持たせるがよい。 ただし、彼らに厳しく警告し、彼らを治める王が行うことを知らせなさい。」と言われました。

 

 この古い話は、選挙でどの候補者や政党を支持すべきかを伝えているのではありません。そのような政治的な話ではないのです。それよりも、私達の指導者と、私達の社会がどのように動かされるかを選ぶ際に、私達が下す決定の種類に関する霊的なメッセージを内包しているのです。 ジョン・オルトバーグという牧師の記述によれば、神様は次のように言っておられます。

 

 サムエル、これはあなたに関することではない。私自身に関わることなのだ。人々が偶像崇拝を選ぶその度、彼らが金銭に従う生活を決意するその度、貧しい者を助けることを拒むその度、国籍や民族という背景によって誰かを抑圧するその度、寡婦や孤児の世話をすることを彼らが忘れるその度、婚姻関係内でのセックスを守りなさいという私の命令を破るその度、彼らが自分達を傷つける者を許すことを拒否するその度に、彼らは言うだろう。「神様、私達はあなたを王として望みません。」と。もし彼らが人間の政治の力に究極の信頼を置くことを選ぶなら、権力がいつも人々に対して行うことを、身をもって知ることになるだろう。

 

 サムエルはイスラエルに行って、王が決定を下すようになれば、彼らの息子や娘達の身にどんなことが起こるのかを警告します。彼らの家族、彼らのお金、彼らの所有物、彼らの支配下にある人々はすべて、彼らではなく王に属するものになるのだと。 そしてその通り、それらのことは数年のうちに起こります。 『サムエルが警告したのにもかかわらず、人々は彼の言うことを聞き従おうとはせず、「いいえ!」と言った。「私達には私達を治める王が必要なのです。」』(19節)

 

 神様は彼らに自分達のやり方で、周りの国々の者たちと同じようにやってみさせることで彼らを懲らしめます。 優れた王もいれば、悪い王もいましたが、ほとんどの王達には、さまざまな種類の弱点や失敗がありました。そのようなことは人生においてありがちではありませんか? 強大な権力を持つようになることは、多くの人々の中に最悪の事態をもたらす傾向があります。 イスラエルの王は誰一人として、人間に対する神様のご計画を成し遂げるため、シャロームを形成する上で必要な人間の精神や性質の変容を生み出すことができないのです。

 

  私達はここで、今日の私達の助けとなる何を学べるでしょうか? 一つには人々が、神様が王であり、主が一番で、結果的に全てが神様の御手の中にあるという信仰によって生きていないとき、人間の指導者に過度の期待を寄せるという誘惑に簡単に陥ってしまう可能性があるということです。 私達の支持する側が政治的な争いに負けてしまうと、私達はあまりに性急に、全てが失われ、苦々しく希望のない未来に直面している気分になってしまうことがあります。 中にはそれが唯一の選択肢か何かだと感じ、暴力に誘惑される人もいます。 私達は、神様が必要かつ重要なことを成すために、弱くて完璧にはほど遠い人々によって動かされているほとんどすべてのタイプの政府を通して働かれるという事実を、簡単に見失うことがあります。神様は度々そのような政府を用いて人々を守られたり、基本的な必要を満たして下さったり、その他暮らしに秩序をお与えになったりします。 聖書の中で、神様はしばしば、ご自身の最も基本的な教えに逆らってとんでもないことをする指導者を通して、ご自分の目的を明確に達成されます。

 

 私達が神様を王としてその支配下で生きることを選ばず、一方で政治的勝利を勝ち取るとき、私達はすぐに「ついにやったぞ! 我々の側、良い側に力があるのだから、我々は物事がそうであるべき道を作って行こう。」 と考えます。嘆かわしい事実だが、「我々の側」が権力を手にしている時でさえ、私達は、次の選挙か何かが、全く異なる計画と共に権力を有する他の誰かをもたらしてくれるより前に、あまりにも変化のないことに何度も失望を味わうのです。

 

 別の言い方をすれば、政治的に勝つか負けるかにかかわらず、人間に最高位の希望を置くとき、私達は失望することになるのです。ですから神様は私達にこう教えてくれます。(詩篇146編3〜5節):

 

 諸侯を頼りにするな。救うことのできない人間を。霊が去れば、彼らは土に帰り、その日、彼らの企ても滅びる。幸いな者、ヤコブの神を助けとし、望みをその神、主に置く人。                        〈聖書協会共同訳より〉

 

 もし皆さんが、政治の力が物事を適正にするための最善の手段であると信じるなら、自ら聖書の教えとイエス様のメッセージに対立していることになります。イスラエルは多くの王と共に何年も苦しんだ後、自分達の王国を失い、亡命し、更に他国の王の下で苦しむことになります。最後にはイスラエルの一部の人々、一部の預言者の心の中に、ある独特な考えが形成され始めます。 人類が必要としているのは、地上の王が誰も与えることのできない何かだということです。

  しかしそれは機会を改めてのお話しになります。 来月、ご一緒に見ていきたいと思います。 ですがひとまず、今日受け取った言葉について祈りましょう。

 

 神様、私達は天と地にあるすべてのものの支配者である王としてのあなたに祈ります。 あなたの素晴らしさを見れば、あなたが私達をあなたの子供と呼んで下さり、私達が自分の人生における非常に多くのことを自由に管理できるようにして下さるのは、驚くべきことです。 全てはあなたのものであるにもかかわらず、あなたは私達の時間やお金、能力や身体、多くのものをどのように使うかを選択する自由を伴った小さな王国を、私達に与えて下さいます。 父なる神様、私達があなたの偉大な王国の中にこれらの小さな「王国」を据え置き、あなたの支配の下で自由に自発的に生きることを選びますよう、助けて下さい。 あなたの王国で日々生きることの喜びと有り難さを教えて下さい。 キリストの御名によって祈ります。 アーメン。

 

 

参考

 

Ortberg, J. (2016, October 30). How not to be anxious during an election. House of cards. Menlo Park Presbyterian Church.

Willard, D. (1998). The divine conspiracy: Rediscovering our hidden life in God. New York: HarperSanFrancisco.