天の御国への備え

2021年2月14日主日礼拝「天の御国への備え」マタイ24:36~41佐々木俊一牧師

■先週の日曜日に、NHKスペシャルという番組で、先進国や新興国が食糧廃棄(食品ロス)を続けて行けば、2030年にはさらに飢餓で苦しむ人が増えるだろうと言っていました。2011年の世界の人口は70億人でした。今は78億人です。10年間で8億人増えました。2050年には100億人になるそうです。そして、現在、78億人のうちの8億人の人が食糧危機にあると言われています。もしも、食品ロスの一部をこれら8億人の人に分配するならば、食糧危機は解決するそうです。つまり、現時点では、世界全体の食料が不足しているわけではなくて、ただバランスよく分配されていないと言うことです。

  また、水不足の問題が年々深刻になっているそうです。世界の多くの国々が農業用水を確保するために、地下水を利用しています。しかし、その地下水が枯渇してきて、水不足が深刻化してきているというのです。にもかかわらず、牛肉やワインなどの食品の需要が増えています。そのため、もっとたくさんの水が必要になってきているのです。一切れの美味しいビーフステーキを生産するためには、大量の飼料(えさ)が必要であり、その飼料を生産するためには大量の水が必要です。また、一杯の美味しいワインを生産するためにも、大量の水が必要なのです。

  食品ロスや水不足の問題を何としても解決しなければ、2030年以降の世界の食糧事情は確実に悪化すると予測されています。その影響は、日本も例外ではありません。間違いなくその影響を受けるでしょう。物価は高くなり、食糧確保が難しくなるのです。食料確保が困難になると、社会が不安定になり、治安も悪化します。そうならないようにするために、2030年までの10年間は、とても重要な時代になるだろうと言っていました。私たちがこの危機的状況をどこまで本当の事としてとらえるかどうかによって、この事態を回避できるかどうかが決まると言ってよいでしょう。

■先週、三熊さんがイエス様の天の御国とタラントのたとえを話してくれました。イエス様と弟子たちがオリーブ山に登った時に、神殿を見下ろしながら、イエス様がその神殿と城壁の破壊について予告されました。そして、それから約40年後、AD70年にその通りになりました。続いて、イエス様は、世の終わりや天の御国について語られました。その一連の話の中に天の御国とタラントのたとえ話がありました。また、その一連の話の中に、今日の聖書箇所も含まれています。「畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残される。」「ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残される。」誰かにさらわれてしまったような、そんな話に聞こえます。これは何を言っているのでしょうか。おそらく、これは、第一テサロニケ4:16~17に書かれていることに関係があるでしょう。

  キリスト教の教義の中でも、終末論はとてもデリケートなテーマです。気をつけなければならない要素を含んでいます。この教義を利用して恐怖心から信仰に勧誘する異端と呼ばれる宗教団体がたくさんあります。恐怖心をあおって、信仰に入らせるようなやり方はよくありません。かと言って、聖書にあることをまったく語らないことにも問題があります。終末があることもイエス様が再び来られることも、私たちの信仰告白の中にしっかりと入っています。このテーマを正しく次の世代に継承していくためにも、適度に語って行く必要を感じます。なぜなら、この事であおられたり、だまされたりすることが将来起こり得るからです。それについては、イエス様も警告しています。「キリストがここにいるとか、そこにいるとか、言う者があっても信じてはいけません」、とイエス様は言いました。また、「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議などをして見せます」、とイエス様は言いました。このような話があることを前もって知っておくことは、予防接種のようなものです。イエス様が再び来られると言う出来事は、私たちがそれを見て判断すると言うようなものではありません。神様からの一方的な出来事なのです。と言うのは、マタイ24:27にあるように、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来ると言うのですから、それは、人が見て判断する猶予もないほどの一瞬の出来事なのです。

  みなさんは、全能神教会と言う名前を聞いたことがありますか。日本においても、活発に活動しています。フェイスブック上で彼らはよくクリスチャンに向けて友達リクエストを送ってきます。気を付けてください。正面からとった顔写真ではなくて、横顔とか後ろ姿であるとか、本人かどうかがはっきりわからないようなプロフィール写真で送ってきます。彼らは救い主なるイエス・キリストはすでに地上に来られて働いておられると言っています。その働きによって清められ、良しとされた者だけが天の御国に入れるのだと主張しているのです。全能神教会に入って清めを受けなければ天の御国には行けないと言っています。そして、すでに再臨したイエス・キリストはもはやイエス・キリストと呼ばれるのではなく、全能神と呼ばれるのだと言っています。彼らは同じ聖書のことばを用いるので、教えの違いを見分けるのが難しいところがあります。ですから、気を付けなければなりません。

■最近の世界情勢はとても不安定な動きを見せています。将来、世界にあって有利な立ち位置を得るために国々がせめぎ合っています。中国共産党やロシアのプーチン大統領、ミャンマーの軍部の動きなどは特に心配です。アメリカも国内の分断に揺れています。アメリカ大統領選は非常に波乱にとんだ出来事でした。アメリカの政権は、共和党から民主党に変わり、トランプ元大統領からバイデン大統領になりました。トランプ元大統領は、イスラエルに対する政策として、アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移しました。また、イスラエルと中東の国々との和平に向けた動きを大統領としての任期ぎりぎりまで活発に行っていました。アラブ首長国連邦やバーレーンがイスラエルとの国交関係を結びました。このような動きは、アメリカのキリスト教福音派の意向に応える形になっています。なぜならば、イエス様が戻って来られる兆しの中に、イスラエルと中東の国々の間に平和な関係が築かれることがあるからです。また、ユダヤ教の神殿がエルサレムに再建されることがあるからです。これらのことはエゼキエル書、ダニエル書、ゼカリヤ書などの預言書に書かれていることを解釈していることですが、その実現を願っているわけです。しかし、預言は人の力で成し遂げられるものではありません。すべては神様のみ手の中にありますから、神様の許しなくして、聖書の預言の成就はありません。みこころの時に、みこころの方法で導かれることです。

■36節~38節 弟子たちは、イエス様が戻って来られる時や世の終わりがいつ来るのか、また、どんな前兆があるのか、と聞きました(マタイ24:3)。イエス様はどんな前兆があるのかについては話してくれましたが、その日、その時がいつなのかについては話してくれませんでした。と言うよりも、それについては、「天のみ使いたちも子もしりません。ただ、父だけが知っておられます。」と言われたのです。「子」とはイエス様のことです。イエス様もわからないのです。わかっているのは、ただ、父なる神様だけなのです。

  イエス様が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです、とあります。ノアの大洪水は旧約聖書の有名な話です。クリスチャンでなくても知っています。ノアは神様が言われたとおりに、大洪水に備えて大きな箱舟を造りました。造り始めてから100年後のことです。大洪水が襲ってきました。ノアとその家族8人は箱舟に入り、その後、箱舟のドアが閉まりました。その日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、嫁いだりしていたのです。普段と変わらない日常がありました。大洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、人々はわからなかったとあります。イエス様が再び来るのも、これとまったく同じだと言うのです。

■40節~41節 「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。」これは、当時の日常の一コマでしょう。いつもと変わらない日常の中で、クリスチャンだけが突然いなくなってしまうのです。フィクションのような話に聞こえますが、私はフィクションではなくノンフィクションだと信じています。

  Ⅰテサロニケ4:17に、「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主と共にいることになります。」とあります。クリスチャンの中にも、そんなことが起こるはずがないという人がいます。実際にそのようなことが起こるのではなくて、何かの比喩だろうという人がいます。けれども、私たちクリスチャンは、十字架に死んだイエス・キリストが三日目によみがえられたことを信じている者たちです。その信仰があるならば、引き上げられて空中で主と会うことなど、信じがたいことではありません。

  イエス様が私たちをお迎えに来る日を、私たちが個人的に迎えるのか、あるいは、主の教会全体として迎えるのか、それは、わからないことです。もしかしたら、イエス様がこの地上に戻って来られるのは、ずっとずっと遠い未来のことかもしれません。その時にはもう私たちはこの地上にはいないかもしれません。でももしかしたら、明日だってまったく可能性がないわけではありません。主の教会全体として迎えられる時に、自分もその中にいたら、それはすごいことだと思います。けれども、もしかしたら、その時を迎えるまでに、迫害や飢きんや戦争などの大変厳しいところを通らなければならないかもしれません。そうだとしても、私たちは心配する必要はないでしょう。イエス様がマタイ24:22でこう言っています。「選ばれた者たちのためにその日数は少なくされます」と。徐々にこの世界はクリスチャンにとって生きずらい場所になって行くのだと思います。もうすでになっているようにも思います。しかし、そのような時代の中にあっても神様が共にいて守ってくれます。思い起こしてください。ソドムとゴモラの町が神様によって滅ぼされるとき、ロトとその家族は神様の言われることを信じてソドムの町から脱出しました。そして、彼らの命は守られました。また、イスラエルの民がエジプトから脱出する時も、その前に10の災難がエジプトの地で起こりました。しかし、その中で、イスラエルの民は神様の言われることに従ったので彼らの命は守られました。そして、初代教会の時代、AD70年にエルサレムの町がローマ軍に攻められた時、イエス様の言われたことに従って山へ逃げた者たちは命が助かったことが歴史家ヨセフスの書いた書物に残されていると言うことです(いのちのことば社/新聖書辞典による)。しかし、エルサレムやマサダの要塞に逃れた者たちは、ほとんど全滅だったと言うことです。

■42節 「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」目をさましていなさいと言われても、具体的にどうしたらよいのでしょうか。私たちは、社会や世界で何が起こっているのか、その動きや状況を見る必要があります。でも、それだけを見るならば、きっと、私たちは不安になってしまうのではないでしょうか。そのような時に、私たちは主を見なければなりませんし、主の言われたことに聞かなければなりません。私たちは、この世の調子に合わせてはならなりません。また、ある人々の扇動にも気を付ける必要があるでしょう。私たちの導き手は神様なのですから、神様のみこころを求めて従いましょう。それによって、私たちは守られるのです。

  迫害によって生きづらくなって来たテサロニケのクリスチャンに対して、パウロがとてもよい勧めをしています。パウロは、彼らに落ち着いた生活をするように勧めました。何か特別なことをするように言ったのではありません。乏しくなることのないように、周りの人々にも良い証しとなるように、仕事に身を入れて働くようにと言ったのです。つまり、日常のことを今まで通りにたんたんとやることなのです。

■私たちが救われるために必要なことはただ一つ、罪を悔い改めて、イエス様を救い主として信じることだけです。そのことをちゃんとやっていれば大丈夫です。救いは恵みです。私たちの行いによるのではなく、私たちのイエス様への信仰によるのです。それ以上でも、それ以下でもありません。そこに私たちの平安があるように祈りたいと思います。

  終わりに、このことだけを言っておきたいと思います。イエス様が再び来られると言うときに二つのことを意味しています。一つは、クリスチャンは引き上げられて空中でイエス様にお会いすると言うことです。もう一つは、その後に、ユダヤ人の人々は、オリーブ山に天から降りて来られるイエス・キリストを見ることになると言うことです。黙示録1:7に、「見よ。彼が雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが彼を見る。・・・」とあります。また、ゼカリヤ12:10に、「・・・彼らは、自分たちが突き刺したもの、わたしを仰ぎ見・・・」とあります。そして、ゼカリヤ14:4に、「主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。・・・そして、すべての聖徒たちも共に来る」とあります。預言は実際に起こってみないとわからないところがありますが、私はいまこのように考えています。 

  すべての人にとって、天の御国への備えとして重要なことはただ一つ、イエス・キリストを救い主として信じることです。そして、信じたならば、与えられている日常を感謝して、自分の仕事や学業にに身を入れて、落ち着いた生活を志していきましょう。そして、機会をとらえて、イエス様のことを伝えて行きたいと思います。それではお祈りします。