神様からの賞賛

2021年1月24日主日礼拝「神様からの賞賛」Ⅰコリント4:3~6佐々木俊一牧師

■コリント人への手紙にはⅠとⅡがあります。これらの手紙はパウロによって書かれました。パウロがコリントの町に住んでいたクリスチャンに向けて書いたものです。コリントの町は現在も、ギリシャの首都アテネから西に80キロメートルくらい離れたところにある港町です。

  コリント人への手紙を読むと、コリントの教会には多く問題があったことがわかります。それら一つひとつの問題に対してパウロは丁寧に答えています。その問題の一つとして、分裂分派の問題がありました。パウロにしても、ペテロにしても、アポロにしても、お互いに仲が悪かったわけではありません。ですが、3章を見ると教会では、「私はペテロにつく」とか、「私はアポロにつく」とか、「私はパウロにつく」とか言って、分裂が生じていたようなのです。信徒たちには、それぞれに高く評価しているお気に入りの使徒たちがいたのかもしれません。そして、使徒たちがいない間に、このような分裂騒動が起こっていました。パウロも知らないうちに、その中に巻き込まれていたのです。

■3節 ここでパウロはこのように言っています。自分にとって人の判定や判決を受けることは非常に小さなことだ、と。さらに、パウロは、自分で自分をさばくことさえしないとも言っています。判定や判決、あるいは、さばく、とは何を意味しているのでしょうか。たぶん、コリントの教会の人々の間で、パウロや他の指導者たちについて、いくつかの見方や評価があったのでしょう。各指導者に対する彼らの判定には、肯定的な見方もあれば、否定的が見方もあり、良い評価もあれば、悪い評価もあったのだと思います。パウロについても、良いことばかりではなく、悪いこともあったのでしょう。実際に、パウロを使徒として認めない人々がいたことを伺わせる箇所が新約聖書の中にあります。そのような時、パウロは働きの難しさを感じたはずです。しかし、人の判定や評価を気にしていたのなら、働きはいっこうに進んで行きません。ですから、パウロに与えられた神様の答えは、人の判定や判決は非常に小さなことであると言うことです。

  このことは、人への判定や評価をすべて否定しているのではありません。他のところでパウロは、自分をさばいて罪を悔い改めることの大切さや、罪の中にある兄弟姉妹をどうさばくべきなのかについて語っている箇所もあるのです。何よりも、こういった人の判定や評価が分裂や分派を引き起こし、神様のみこころから大きく外れさせている状況をパウロは問題視しているのです。そして、どうにかしてコリントの教会の人々がそのことに気がついて改めるように導こうとしているのです。

  神様の働きというのは、人から良い評価を得るために行うものではありません。そのことを私たちはしっかりととらえておく必要があります。そうしなければ、私たちは、人の評価に振り回されて、神様のみこころを行なうことから外れてしまう恐れがあるのです。箴言29:25に、「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。」とあります。人の意見をないがしろにしてもよいというわけではありません。時には人の判定や評価も益となります。しかし、それは神様のみこころを行なうことを第一とするときに有用なのであって、人からの良い評価を受けることが優先されるならば、それはかえって害となるでしょう。私たちはいつも神様のみこころは何かというところに目を注ぐべきです。そうするならば私たちは、的外れな歩みから守られます。何よりも、人がどう思うかよりも、神様がどう思うかに思いを向けていきたいと思います。

■4節 ここではパウロは、「私にはやましいことは少しもありませんが」、と弁明しています。先ほども言いましたが、パウロに対する評価や評判は良いことばかりではありませんでした。もしかすると、コリントの教会の一部の人々は、パウロは何かやましいことをやっているのではないだろうか、と疑っていたのかもしれません。しかし、パウロは身の潔白をはっきりと言い切っています。そして、次に、だからと言って、それで無罪とされるのではありません、とも言っています。どっちなのでしょうか。パウロは何かやましいことをやっていたのでしょうか、それとも、やっていなかったのでしょうか。

  たぶん、パウロは良心の呵責を覚えるほどの罪深いことは行なっていなかったのだと思います。けれども、パウロも人間です。完全ではありません。ですから、罪の自覚はなくても、もしかしたら、神様の目から見たら、きっと、自分にも悪いところがたくさんあるのだろうと思っていたのではないでしょうか。

■新約聖書を見ると、弟子たちや使徒たちの欠点や失敗がはっきりと書かれています。あるところでは彼らの神様への忠実な面を見ることができます。しかし、あるところでは弱さのゆえに不忠実な面が見えたりします。また、彼らの判断や行動にはまだ未熟な点があったり、しかし、後になってその未熟さが克服されたのか、その判断や行動に変化と成長が見えたりするところもあります。

  たとえば、使徒の働き15:36から書かれている出来事です。パウロとバルナバが第一回目の伝道旅行に出たときのことです。この時、バルナバの従弟(コロサイ4:10)マルコも一緒に連れて行きましたが、マルコは伝道旅行の途中で勝手に離れて帰ってしまいました。そんな自分勝手なマルコはパウロの反感をかったようです。そんな事があったものですから、第二回目の伝道旅行にマルコを連れて行くことをバルナバが提案した時、パウロは大反対しました。そのため、バルナバとパウロの関係は悪くなってしまいました。結果、パウロとバルナバは別行動することになりました。この時のパウロは、元パリサイ人と言うこともあってか、マルコに対しては非常に厳しい態度で臨んだようです。若いマルコに対してはもう少し寛容に対応し、もう一度チャンスを与えても良かったのではないだろうか、とも思えます。この頃のパウロは宣教に熱心で、自分にも他人にも厳しい人だったのかもしれません。しかし、その後、Ⅱテモテ4:11を見ると、パウロのマルコに対する見方に変化が起こっていることに気づかされます。ここでは、パウロはマルコのことを、「彼は働きのために役に立つ人であるので、パウロのもとに連れて来てほしい」とお願いしているのです。とても厳しかったパウロが、寛容なパウロに変えられているのを見ます。また、以前は自分勝手なマルコも、神様の働きのために役に立つ人に変えられていました。こうなるまでに、どれくらいの時間がかかり、何があったのかはわかりません。ただわかることは、いつしか二人は互いに和解していたということです。このように、人は失敗をし、でも、そこから学び、その後それぞれに、神様の恵みと導きの中、変えられてさらに神様の働きをする者へと整えられて行くのです。神様に従う時、クリスチャンにはそんな可能性があるのです。

  私たちが未熟であればあるほど、自分の言葉や態度によってどんなに他人を傷つけたり、ストレスを与えたり、迷惑をかけたりしているのか、なかなかわからないものです。自分が何をしているのかがわからないままに、そのような状態を作り出していることはお互いによくあることです。パウロが、自分は潔白だけれども、しかし、だからと言って自分が無罪とされるのではないと言ったのは、自分にはわからなくても神様にはわかる、自分の欠点や落ち度や罪があることを認めていたからではないでしょうか。そして、パウロは大胆に言うのです。私をさばく方は主です、と。パウロは、主のさばきをあまり恐れていないように思います。なぜなのでしょう。そこが今日のポイントだと思います。

■5節 「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。」

  先ほども言いましたが、パウロはここで、さばくことをすべて否定しているのではないことを知ってほしいと思います。コリントの教会で起こっている分裂分派の問題が、誤った目的で人をさばくことで起っていることに気づかせることでした。教会の一致や秩序が壊されたり、信仰的に悪い影響を与えると判断される場合には、教会として、さばくという行動を起こす必要があるのです。その目的はあくまでも教会のお一人お一人を守ることであり、また、悔い改めて成長へと導くためです。けっして、つぶしたり、排除するためであってはなりません。

  「主が来られるまで」とあります。初代教会の時代のクリスチャンは、彼らが生きている時代にイエス様はこの地上に戻って来られると信じていたようです。信じていたと言うよりも、待ち望んでいたと言った方が正しいかもしれません。しかし、彼らの時代にイエス様が戻って来ることはありませんでした。その時からもう、2000年になろうとしています。イエス様は本当に戻って来られるのでしょうか。もちろんです。イエス様はいつか必ずこの地上に戻って来られます。それがいつなのか、はっきり知っているのは父なる神様だけです。しかし、いつの時代のクリスチャンも自分たちが生きている間にイエス様が戻って来られるのを待ち望んでいました。私も同じです。信じているというよりも、待ち望んでいます。みなさんはどうでしょうか。

■一つ質問をしたいと思います。クリスチャンはさばかれないのでしょうか。言い方を変えます。クリスチャンは罪赦された者なので、神様のみ前に立たなくてよいのでしょうか。

  ローマ14:10に、「・・・。私たちはみな、神様のさばきの座に立つようになるのです。」とあります。また、Ⅱコリント5:10には、「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」とあります。私たちは将来神様のさばきの座に立つのです。

そこで、さばきと言うことについて考えてみましょう。さばきと聞くと、連想されることばは、罰ではないでしょうか。裁き=罰です。でも、実際は違います。裁きは、判決、判定、判断、評価です。裁きが罰とは限らないのです。

  人のさばきは絶対的なものではありません。しかし、神様のさばきは絶対的なものです。人のさばきは信頼できません。なぜなら、すべてを知っているわけではないからです。しかし、神様のさばきは信頼できます。なぜなら、すべてを知っているからです。5節に、「主は、闇の中に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。」とあります。神様は私のすべてを知っています。神様に隠しおおせることのできることは何一つありません。私の心の中にあるものすべてが人前にさらけ出されたら何と恥ずかしいことでしょうか。しかし、恐れることはありません。イエス様がついています。

  Ⅰヨハネ2:1に、「・・・。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」そして、2:2に、「この方こそ、私たちの罪のための、なだめの供え物なのです。」とあります。イエス・キリストは私たちの罪のためのなだめの供え物です。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったのは、私たちが罪に定められて罰せられることのないようにするためです。イエス・キリストを救い主として信じている者は、罪に定められることもなく、罰を受けることもありません。イエス様が弁護して私たちを守ってくれるからです。すべてはイエス・キリストによる恵み、イエス様がしてくれたことです。ですから、私たちはイエス様に感謝し、イエス様に賛美をささげるのです。そして、日曜日には共に集まり、礼拝をささげるのです。

■私たちは生きている時に、悪いこともしましたが、良いこともしました。私たちは忘れてしまっていても、神様が覚えていてくれていることがあるのではないでしょうか。だれにも知られていない隠されたままの悪いことは、イエス・キリストのゆえに咎められることはありません。しかし、闇の中に隠されていた、だれにも知られていないあなたの良いことは、神様は評価してくださって、賞賛してくれるのです。そのことを覚えましょう。そして、たとえ人から評価されないことがあったとしても落胆しないで、人の目に隠されていることこそ神様が賞賛してくれることを覚えて、ますます、神様に喜ばれるように生きていきましょう。そして、最後に忘れてはならないことは、神様からの賞賛もまた、イエス・キリストの十字架ゆえの賜物なのです。それでは、お祈りします。