健全な神観を求めて

テーマ「健全な神観を求めて」/中心聖書箇所:「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア書6:6)

 

■はじめに

 ここに持って来た物は今では皆さんよくご存じの物ですが、私が初めてこれを見たのは確か21歳の時だったと思います。当時、ワンダーフォーゲル部という山歩きの部活に入っていて、(以外にアウトドアが好きなのです。)秋合宿のテントの中である部員の女の子がもって来たのです。おそらく、「今日はみんなに珍しい物を食べさせてあげる。」とか何とか言ってザックから取り出したような記憶があります。

 みんなで4,5人いたかと思うんですが、これは何だろうとみんなが首を傾げました。見たところジャガイモのようです!「ジャガイモ?」と誰かが聞きました。その子が「キーウイって言うんだよ。」と言うと、みんなが「キュウリ?」と聞き返しました。人間は自分の経験や知っていることから想像を膨らませていくものです。その後彼女はナイフを取り出してそのキーウイなる物を半分に切りました。何と中は緑色です!その辺から後は覚えていませんが、これがキーウイとの初めての出会いでした。

■神観ということ

 私たちはある時神さまに出会います。生まれてすぐに出会ったという方はおられないでしょう。物心ついた時から神さまのご存在を教わって大きくなられた方はおられるでしょう。大抵の方は人生のある時期に主とお会いして、主を信じられたのだと思います。神さまに出会ってから私たちの中には神さまがどのような方であるか、神さまのイメージが形作られていきます。それが少し難しいことばで、「神観」ということになります。

 短大に入った時、同じ高校から進んだクリスチャンの女の子がいました。彼女は確か短大に入ってからイエス様に出会いバプテスマを受けていました。彼女に連れられキャンパスクルセードの集会に行ったとき、「あなたにとって神さまはどのような方ですか?」と聞かれ、ひとりひとりがその質問に答えるという場面がありました。私は「神さまは私にとって恐ろしい存在です。何か変なことをしていたら裁かれるような...。」と答えたような気がします。でも彼女は「私にとっての神さまはこわーい先生の授業のとき、一緒にいて守ってくれるような存在です。」とにこにこして答えました。うーっ、なんて違うんでしょう!この違いは何なんでしょう!同じ神を見ていてなんでこれだけの差があるのしょう!当時の私の神観はかなり歪んでいました。私は小さい頃から「そんなことをしているとバチが当たるよ!」と言われて育ったので、バチ(罰)を当てる神という変な偶像の神のイメージが強かったのかもしれません。キーウイのたとえでもお分かりのように私たちは新しく出会ったものを自分の経験や知識を元に考えてしまうものです。そしてそのように思い込んでしまうということがあります。しかしあまりにも思い込みが強いと神様の働きにロックを掛けてしまうということも起こってきます。例えば、神様は厳しい方だから私のこんな悩みには知らん顔されるだろうとか、この手の祈りは応えられないだろうとか、自分の思い込みで祈る前に神様の応えを決めてしまう。もしもそこで、神様は恵み深い方だからこの難しいことがらにも何らかの助けを与えてくださるに違いないと信じるか、神様は忍耐強い方だからこの私の頑固な家族も救いに導いてくださるかもしれないとか。神さまがどのような方であるのかの捉え方が違うとその後の歩みが変わってきます。ですからわたしたちは自分のもっている「神観」が本当に健全なものになるまでどんどんと変えられて行く必要があるのです。そしてそれは時間が掛かりますから、人の一生を通してなされていくことがらなのかもしれません。

■イエス様を見れば神様が分かる

 神様がどのような方であるのか。ひとつの知り方は聖書を読むことです。旧約、新約全てに神様は出て来られます。難しい箇所もありますが、その時その時にできる範囲で教えられましょう。解らない時は牧師に聞いたり、主に直接聞きましょう。聖書に親しむということが大切です。

そしてイエス様を知ることが神様を知ることでもあります。コロサイ書1章を見ますと、15節「御子は見えない神のかたちであり、」と書いてあり、19節「神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、」と書かれています。また、ヨハネによる福音書14章9節ではイエスさまご自身が「わたしを見た者は父を見たのです。」と言っておられます。さらにしつこく言うなら、ヘブル人への手紙1章3節「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、」と書かれています。私たちはイエス様を知ることで神様を知ることができます。

 もう一つの知り方は神様を体験すること、主にお会いすることです。

■今も生きておられる主

 私は時々ユーチューブのメッセージを聞くのですが、東住吉キリスト集会というところの高原剛一郎さんというメッセンジャーのお話しを何回か聞きました。東住吉なので大阪弁のおっちゃんなのですが、この方はすごい読書量と情報量で聖書の真理を分かり易く説明して行かれます。聖書の解釈も鋭くて、聞いていて面白いです。今最も用いられているメッセンジャーのひとりではないかなーと思います。

 この方のお話で心に残っていることがあるのですが、ある禅宗のお坊さんのお話なのです。禅宗というのがあまり解らないという方のために少し解説しますが、仏教のいくつかの派をまとめて禅宗というようなのですが、自己鍛錬に重きを置く、例の座禅を用いた修行を行う宗派です。このお坊さんがある時、アメリカ人女性と結婚されて、アメリカに禅宗を伝えたいという望みを持たれたそうです。でもアメリカはキリスト教の国なので、まずキリスト教を学ばなければならないと考え、おそらく聖書を学ばれたのでしょう。仏教とキリスト教の最も根本的な違いを見出されるのです。それは何か!何だったと思われますか?この方が発見されたことは、仏教では教祖である釈迦はすでに死んでしまっている。しかし、キリスト教の神であるイエス・キリストは今も生きている。キリスト教とはイエスが今も生きていることが前提の宗教である、ということだったのです!すごいこと発見しますね!仏教では何なら釈迦は存在しなかったとしても問題にはならないとも言っておられたような気がします。(間違っていたらごめんなさい。)でもキリストは今も生きている!そこが大きな違いだったのです。

 確かに第1コリント15章14節でパウロは「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」と言っており、17節「もしキリストがよみがえられなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく」と言っています。パウロはよみがえりのキリストに出会い、変えられたまさにその本人です。その主が生きておられ働いておられることは皆さん体験しておられますね。キリストを信じる者としての最上の楽しみはこの生きた主とお会いするそのこと主の栄光を見ることです。

■証とまとめ

 ここで自分の証をお分かちしたいと思いますが、今までの人生の中で何度も生きておられる主にお会いしました。私はみことばを通して主にお会いすることが多いのですが、その時その時でお会いする仕方が違います。バラエティーに富んでいるんです。今日のお証はちょっと自分としては例がない最初で最後かもしれませんが、主にお会いした話です。

 50代になって臨時の小学校教員をしていた時のことです。7年間このお仕事をさせていただきましたが、全部で5校回りました、だいたい1年経つと新しい学校に移動していましたが、1校だけ3年間働いた小学校がありました。特別支援学級の担任ということで初めての支援級担当でした。児童が20人を超えていて、担任教師は7人いました。主任の先生はバリバリの40代の男性教員で、理想的な教育をしているところだったのです。子どもたちが良く成長していくので評判が良かったのか、3年目は30人を超えていたような気がします。このバリバリの主任は児童にも厳しいし、他の担任にも厳しいんです。私は毎日のように怒鳴られるようになりました。勉強にはなるのですが、あまりにもよく怒鳴られるので、自信がなくなっていきました。家に帰ると愚痴をこぼし、同僚にも話し、友だちに電話しては愚痴を聞いてもらいました。友だちは一生懸命に励ましてくれましたが、その励ましももう耳に入ってこなくなっていました。

 忙しいので毎日の祈りはきちんとできたわけではありません。でもいつごろからか分かりませんが、土曜日には奥まった部屋に入り、(そんなに広い家ではないのでやや奥まった部屋に入り、)扉を閉じて自分の心を主の前に注ぎ出すようになっていました。ある時は泣きながら辛さを訴えました。いつもはっきりとした応えがあるわけではありません。でもこの土曜日の祈りのときは私にとって至福の時間となりました。ある日、このときもかなり取り乱して祈っていたと思いますが、主が私に語り掛けてこられました。「あなたを愛している!」そうひとこと言われたのです!そのことばを私は耳で聞いたのか心で聞いたのか分かりません。でも確かに主が語られたのです。というのも私は非常に落ち込んでいて、数字で表すならマイナス100位でしたか、そのことばを聞いたときにマイナスがずーーと持ち上がって行って、プラスマイナス0を通り越しプラスの領域まで行ったそんな心持ちになったのです。単なる妄想や幻聴ならそんなことはありえないでしょう!涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら晴れやかな思いへと落ち着きました。落ち込みから開放されたのです!

 その後も学校での状況は全く変わらず、毎日のように怒鳴られ、怒鳴られる度に愚痴を言いました!でももうそんなに落ち込まなくなっていました。そして3年経ったときにはその主任の指導のおかげもあって、私はある程度の自信をつけてその学校を去ることができました。

 神様が生きて働いておられる現実を見る度に聖書のみことばの真実がさらに重みを帯びてきます。そして私たちの「神観」はもっともっと引き上げられ健全なものにされていきます。私たちもやがて天において主にお目にかかりますが、その時「やはり主は私の思っていた通りの方だ!」と言うでしょうか。または「地上にいたときにも主がこんな方だということをもっと知っておきたかった!」「もっともっと知りかった。」と言うでしょうか。主は私たちの想像をはるかに超えた素晴らしい方でしょうからお会いした時にはきっと私たちはことばを失い、ことによれば倒れてしまうかもしれません。日々主と交わり、主がどのようなお方であるのかを教えていただく歩みができますようにと願います。