クリスチャンのニューノーマル

2021年1月3日主日礼拝「クリスチャンのニューノーマル」ヤコブ4:15佐々木俊一牧師 

■新しい年を迎えました。2021年です。いつもとは違う雰囲気の新年です。2020年はほぼコロナで始まりコロナで終わるような一年でした。私たちは、というよりも、世界中が今までにない感染症のパンデミック(世界的大流行)を経験をしました。世界のすべての国々の人々が新型コロナウィルス感染という同じ危機の中に置かれてしまったのです。今現在もそれが続いています。みなさんの仕事や学校も、そして、教会の活動である礼拝等の集会や伝道の働きにおいても、いつもとは違って自由にできない状態が続いています。そんな中でも何とか活動を続けていくために、今までとは違う新しいやり方で、たとえば、マスクをしたり、手指消毒をこまめにしたり、換気や湿度に気をつけたり、ソーシャルディスタンスをとって密にならないように気を付けたりしながら、礼拝やそのライブ配信をしています。

 非常に特異な年となった2020年ですが、この約1年間、このような状況の中でよく聞く言葉がいくつかありました。たとえば、ニューノーマルというのがありました。日本語にすると「新しい意識や行動、新しい常識、新しい生活様式」といえばわかるでしょうか。マスクをするのも、手指消毒をするのも、ソーシャルディスタンスをとるのも、密にならないようにするのも、仕事や授業をオンラインでするのも、今ではニューノーマルと言ってよいでしょう。そのようなことが数年で済むのか、それとも、ずっと続くのかはわかりません。とにかく今は、新しい常識に従わなければ、新型コロナに感染したり、させてしまったりしてしまう恐れがあります。ですから、私たちはお互いにお互いを守るためにはニューノーマルに従うことが重要です。

■考えてみると、ニューノーマルという言葉はクリスチャンの信仰生活にも適用できる用語であると思います。私たちが自分の罪を認めてイエス様を救い主として信じて歩み始めた時から、聖書のことばが私たちの常識となります。私たちのそれまでの常識は聖書のことばによって影響を受け始めるでしょう。聖書のことばには神様の価値観が反映されていて、それまでの私たちの価値観とは違うものも含まれています。それは、私たちがクリスチャンとして歩むときの指針となっていきます。そして、それは、私たちの人生や人間関係や日々の生活を豊かにするものであると思います。それだけではなくて、私たちの将来や未来、この地上を去った後のことまでを祝福するものであると思います。クリスチャンにとってのニューノーマルは、神様の祝福をたくさん受ける者となるために、また、神様の祝福をたくさん与える者となるために、私たちの古い意識と行動を変えてくれるものでもあります。 

 聖書には、私たちに神様のニューノーマルを教えてくれるたくさんのことばが書かれてあります。その中には、聞いて安らぎが与えられる優しいことばもあれば、反対に、聞いて耳の痛くなるようなことばもあります。どちらも私たちにとっては有益な神のことばです。神様は愛であるゆえに、時には優しく時には厳しく私たちを導いてくれるのです。そして、そのことばに聞いて従った者だけが見ることのできる祝福があるのです。

 今日の聖書箇所は、どちらかと言うと、ちょっと厳し目の神様のことばであるかもしれません。けれども、そのことばに従うとき、私たちはその祝福を見ることができるのです。

■15節 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、また、あのことをしよう。」 この箇所の前後も含めて読んで皆さんはどう思われるでしょうか。もしかすると、何か不自由な印象を持つかもしれません。私たちは、何をするにも、いつも主の御心を伺わなければならないのでしょうか。もしもそうだとしたら、それは、息の詰まるような状態です。神様は、私たちを支配して神様の思い通りに導きたいのでしょうか。そのために、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、また、あのことをしよう。」という生き方を求めているのでしょうか。いいえ、けっして、そうではありません。かえって、神様は私たちを不自由になることから守り、もっと自由にしたいのだと思います。イエス様は、真理はあなたがたを自由にしますと言っています。イエス様の言う真理とは、ある意味、私たちにとってはニューノーマルです。そのニューノーマルによって、イエス様は私たちをもっと自由にしたいのだと思います。

また、この箇所は、命も人生も、価値のない、意味のないものだと言っているのでしょうか。この地上のことには関心を持たず、情熱を傾けず、否定的で消極的に生きることを勧めているのでしょうか。神様のことだけを考えて、天のみ国のことだけを思っていればいいのだと言っているのでしょうか。私たちが、この地上においては、否定的に、消極的に生きるために、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」と言っているのでしょうか。そうではありません。商売をすることも、金もうけをすることも自由です。しかし、もし、私たちが神様を抜きにして、自分の人生を生きるなら、また、神様の御心を思うこともなく、自分の好き勝手に生きるなら、そして、この地上のことだけに自分の思いが支配されるなら、私たちは人生で一番大切なものを見失ってしまうかもしれません。

 「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」と書かれているのは、私たちが一番大切なものを受けとることができるためであり、地上の人生がもっと豊かで、充実した、意味のあるものとされるためです。

それでは、クリスチャンにとってこの世の価値観とは違うこのニューノーマル、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」という生き方がどのような生き方なのか、三つのことをお話ししたいと思います。

 ①主(神)に聞く態度を持って生きる:聖書には、何事でも神の御心にかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださると書かれています。神の御心にかなう願いとはどのようなものでしょうか。一つは、願いの内容です。願った内容が神の御心にかなうことであるならば、その願いはかなうのです。もう一つは、願いの動機です。願った動機が神の御心にかなうのであれば、その願いはかなうのです。自分の願いが神の御心であるなら、それは必ずなるのです。しかし、その願いが御心なのかどうかは、結果が出るまでわからないとも言えます。時には早く結果が出る場合もあれば、結果が出るまで長い時間を要することもあります。なかなか結果が出ない時に、何度も、何度も、しつこく祈ることは信仰的なことと言えるでしょう。ですから、それは良いことではあります。けれども、神様にあなたのために他の計画があるとしたらどうでしょうか。この場合、私たちの願いを祈り求めるだけではなく、神様は何と言っておられるのか、どのように導いておられるのか、聞くことが必要なのです。神様に聞いて、時には、ただ待つだけではなくて、一歩踏み出すことが必要な時もあります。また、時には、自分のこだわりを捨てたり、動機を改めたりしたのちに、向きを変えて進まなければならないこともあります。「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」というのは、主に聞く態度をもって生きることです。

 ②主に感謝を表して生きる:私たちは一人一人、神によって生かされています。人間だけではありません。人間に比べると価値がないと思われるような雀でさえも、神の意志によって生かされています。神様はご自身が造られた被造物を見てよしとされ、喜ばれました。神様はご自身の作品を愛しておられます。私たちにとって、この地上に生かされていることはすばらしいことであり、感謝なことです。でも、この地上の命には限りがあります。ゆえに、神様は愛する者たちのために、永遠の命を備えてくださいました。将来、その命を私たちは神のみ国において体験することになるでしょう。この地上の命も将来の計画も神様の与えられるものは本当にすばらしいものです。私たちはこれに対して、どのようにして主に感謝を表すことができるでしょうか。「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」というのは、主に感謝を表して生きることです。

 ③主に信頼して生きる:主に聞く態度をもって生きているつもりでも、また、主に感謝を表して生きているつもりでも、いつもいいことばかりではありません。うまくいかないと感じることもあるのです。しかし、そのような中にあっても、主に聞く態度をもって、主に感謝を表して生きるときに、神様の計画が見えないところで進んで行くことを覚えましょう。後になって、目に見える形での神の栄光と、目に見えないところでの神の栄光が豊かに表されるのを知るでしょう。聖書の中に登場する信仰の人々を通して私たちはそのことを見ることができます。また、皆さんもそのことを体験しているのではないかと思います。「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」というのは、主に信頼して生きることです。

■聖書のことばは私たちを神様のニューノーマルな歩みへと導きます。それは、私たちを不自由にするものではなくて、自由にするものです。私たちが信じて従う時、私たちはその祝福を見るでしょう。どうぞ、みなさん、聖書を読んで神様のニューノーマルに親しんでください。そして、祝福をいっぱい受けて、祝福をいっぱい与える者にされて行きましょう。

 コロナ禍においては、ますます、「主の御心なら、私たちは生きていて、このことをしよう、または、あのことをしよう。」という年にしていきましょう。それは、つまり、自分の思いだけで進むのではなくて、神様に祈り神様に聞きながら進むことを私たちの新しい意識と行動として行くことです。そうして、個人としても、教会としても、この2021年、神様のわざと祝福を見ていきましょう。それではお祈りします。