無条件の愛

2020年12月27日主日礼拝「無条件の愛」ルカ15:10~24佐々木俊一牧師

■前回のメッセージで、旧約聖書と新約聖書を読んで受ける神様のイメージがあまりにも違うのではないだろうかというお話を少しだけしたかと思います。新約聖書を読むならば、神の御子、救い主なるイエス・キリストを通して知ることのできる神様が、愛の神様であると言うことは容易に理解できるかと思います。でも、旧約聖書を読んで、神様が愛の神様であるということを理解することは容易なことではありません。やはり、旧約聖書の神様は、愛というよりも恐いというイメージが強いのです。なぜならば、旧約聖書からは神様に従わない者に対する怒りや裁きの出来事があまりにも多いという印象を受けるからです。しかし、そうだとしても、神様の親としての思いや赦しや寛容さや忍耐を感じさせる出来事やことばを旧約聖書の中にたくさん見つけることが出来ることも事実です。旧約聖書の事柄やことばは、基本的に神様が罪ある人間を愛しているゆえの結果なのだと私は思います。ですから、そのことを心に留めながら旧約聖書を読んでみましょう。そうするならきっと、旧約聖書の中に神様の愛が見えてくると思います。

 また、神様の愛は無条件の愛であると言われるのを聞いたことがあるかと思います。けれども、旧約聖書を読むならば、どうしても、神様の愛は条件付きの愛だと思えてならないのです。なぜならば、神様の祝福を受けるためには、第一に律法を守るという条件を満たさなければなりませんでした。そして、罪を犯せば、場合によっては死をもって償わなければなりませんでした。そうでなくても、毎日のように、動物のいけにえを祭司のところに持って行かなければなりませんでした。それらは祭壇の上で焼き尽くされて、罪の償いとされたのです。貴重な財産である羊や牛をささげることは、当時の人々にとって大きな負担であったに違いありません。神様が無条件の愛の神様であると言われても、このような記事を見ると、本当に神様の愛は無条件なのだろうかと正直言って思ってしまうのです。でも、新約聖書を読むならば、イエス様をとおして、神様の愛は無条件の愛であると言うことに納得できるのです。旧約の神様も新約の神様も同じ神様です。にもかかわらず、旧約の神様と新約の神様の間にどうしてこんなにも大きなギャップを感じてしまうのでしょうか。

 それは、パウロがガラテヤ人への手紙の中で言っているように、旧約聖書とは、人がキリストに導かれるための養育係の役割を担っているからだと思います。私たちは、罪が神様と人にとってどういうものかを知る必要があります。罪は神様と人との間に本来あるはずの平和な関係を壊しました。神様にとって罪はそのまま放って置けるものではありません。罪を犯した人は処罰されなければならないのです。しかし、人は罪を咎められたくありません。罪を罪と思いたくないし、時には罪を楽しむことさえしたいのです。そのために、人は罪を咎めない神様を自分で作り出したり、あるいは、神はいないと言ってその存在を否定したりします。

 私たちは、自分の罪深さを認める必要があります。どんなに頑張っても自分の力で正しい者になることはできません。そのことを認める必要があります。そして、罪人である私たちには、救い主なるイエス・キリストが必要なのです。神様と自分との間に本来あるべき平和の関係を回復し、神様のみ前に正しい者として立つためには、私たちには救い主なるイエス・キリストがどうしても必要なのです。そのことに気づくように導いてくれるのが旧約聖書であると、パウロはガラテヤ3:24で言っています。

■今日は、神様の無条件の愛について見ていきたいと思います。イエス様はルカ15章にある放蕩息子のたとえ話によって神様の無条件の愛についておしえてくれています。

 ルカ15:1を見ると、イエス様は、この放蕩息子の話を取税人とその仲間たちに向けて語っていました。当時、彼らほど罪深い人間はいないと言われるほどに、彼らはユダヤ人の間で軽蔑されていた人々でした。イエス様がこの話をしている時に、そばに何人かのパリサイ人や律法学者たちもいました。彼らは、ユダヤ人の知識人であり、社会的地位のある人々でした。

放蕩息子のたとえ話に出てくるおもな登場人物は、放蕩息子とその父と兄の3人です。放蕩息子は、そこにいた取税人とその仲間たちを表しており、父は天の神様を、兄はパリサイ人や律法学者を表していると考えてよいでしょう。今日は、放蕩息子でもなく、その兄でもなく、彼らの父親に焦点を当てて、神様の愛がどのようなものなのかを見てみたいと思います。

■私自身思うことなのですが、自分が親になってはじめて、父親や母親の気持ちがやっとわかるようになりました。私以外にも、多くの方がそう言うのを聞いたことがあります。人は実際に体験してみないと、なかなか人の気持ちを理解することができません。なぜ、あの時、母はあれほどうるさいことを言っていたのか、また、なぜ、あの時、父はあれほど怒ったのか、そんな両親に対し反発を覚えた私ですが、実際に親になってみると、その気持ちが理解できるようになりました。また、親元を離れて一人で生活してみると、親のありがたみがわかるようになりました。

■ルカ15章に出てくる放蕩息子の場合も、親元を離れて初めてわかったことがあったようです。この放蕩息子が家を出て行ったのは何歳の時だったかは明らかではありませんが、たぶん、まだ若かったと思います。親の家にいた時には、何不自由することなく生活していました。住む場所も、食べ物も、着る物も、すべてが当たり前のように与えられていたのですから、ありがたみを感じることはほとんどなかったことと思います。それどころか、親の価値観に合わせて生活することが、何とも窮屈で仕方ないのです。その束縛から解放されて、早く独立したいと思ったことでしょう。親がそばにいなければ、うるさいことを言われなくてもすみます。何でも自由にやりたいことができます。親としては、子どものことを考えていろいろと助言しているつもりなのですが、子どもにはそれが理解できず、ただうるさく聞こえるだけなのです。

■11節~17節: このたとえ話に出て来るお父さんには、二人の息子がいました。そして、弟が偉そうに言うのです。「お父さん。私に財産の分け前を下さい。」気前のいいお父さんは、財産を弟と兄に分け与えてやることにしました。弟にはお金で、兄には土地と家を分け与えたのかもしれません。弟はそのお金を持って、早速荷物をまとめて遠い国に旅立ちました。ところが、あっという間にその大金を使いはたしてしまいます。箴言23章におもしろいことが書かれています。「富は必ず翼をつけて鷲のように天へ飛んで行く。」大金を手にしたからと言って、そのお金はいつまでもあるわけではありません。羽が生えてどこかに飛んで行ってしまうのです。ですから、私たちが頼りにするものはお金ではなくて、神様であるべきです。また、このようなときに限って悪いことが続けてやって来るものです。何もかも失った後に、その国に大飢饉が起こります。仕事はないし、食べ物はないし、住むところはないし、彼は困ってしまいました。ある人のところに身を寄せて、豚の世話をするという仕事にありつきました。でも、十分な食べ物は与えられませんでした。そんな中、彼は豊かだった昔の境遇を思い起こします。父親のところには食べ物がいっぱいありました。雇われている人々でさえ、食べ物は余るほどありました。それなのに、自分は今、食べ物がなくて死にそうな状態です。自由になりたくて父の家を飛び出したけれども、結果は、もっと不自由な生活でした。父の家のルールを守っている方が、ずっと自由があったことに気づかされました。そのルールさえきちんと守っていれば、これほどの危機的状況にはならなかったでしょう。

■18節~19節 そして、ついに彼は決心するのです。「自分は間違っていた。できることなら、もう一度やり直したい。お父さんが神様のことばを大切にしていたように、自分も神様のことばを大切にして従うべきだった。自分は、天の神様に対して悪いことをしてしまった。お父さんに対しても悪いことをしてしまった。こんな自分はもうお父さんの子としての資格はない。ただの雇い人でよいから、再び家に住むことを許してほしい。」と思いました。彼は立ち上がって、父の家のある方向に歩き出します。

■20節~21節 放蕩息子の父親をとおして、私たちは、天の父なる神様の思いを知ることができると思います。放蕩息子が戻ってきた時、まだ家まで遠くて、誰なのかをはっきりわからないはずなのに、父は自分の息子だとすぐにわかって急いで走り寄って行きました。そして、小さな子供を抱くように、抱いて口づけしたのです。父は、たまたま彼を見つけたのではなく、毎日のように息子の帰りを待ち望んでは、遠くをながめていたのです。だから、自分の子供が帰って来た時にすぐにわかりました。

神様はどういうお方でしょうか。

1)神様は、悔い改めて神様のもとに帰って来る者を日々待ち望んでいます。

2)神様は、悔い改めて神様のもとに帰って来る者を何一つ咎めることなく、ただ受け入れます。

3)神様は、悔い改めて帰って来る者を小さな子供を抱いて口づけするように愛おしく思っています。神様はそのようなお方なのです。

■22節~24節 次に、父はしもべたちに指示します。急いで一番良い着物を持って来て、着せるように、それから、手には指輪をはめさせ、足には靴をはかせるように言いました。さらに、肥えた子牛をほふってみんなでお祝いしようと言いました。一番良い着物、指輪、そして、靴は、その家の子どもとしての身分や地位を表すものです。

神様はどういうお方でしょうか。

4)神様は、悔い改めて帰って来る者を無条件で自分の子として神様の家に迎えてくれます。

5)神様にとって、ひとりの人が悔い改めて帰って来ることは最高の祝宴をあげるほどに喜ばしい出来事なのです。神様はそのようなお方なのです。

■軽蔑されていた取税人やその仲間たちは、イエス様からこのたとえ話を聞いた時、どのように思ったでしょうか。まずは、神様に対するイメージが変わったのではないでしょうか。彼らにとって、神様のイメージは、宗教指導者たちに代表されるように、いかめしくて、暗くて、無表情で、親しみにかけた恐い存在でした。それが、イエス様の放蕩息子の話をとおして、もしかしたら、自分たちのような人間も受け入れてくれるような神様なのではないだろうかという、かすかな希望の光が、ぽっと彼らの心に灯されたに違いありません。

■終わりに、ルカ15:10を見てみたいと思います。「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神のみ使いたちに喜びがわき起こるのです。」とあります。ひとりの罪人が悔い改める度に、天では大騒ぎになっているようです。最近はどうなのでしょう。日本のことを考えると、天では静まり返っているかもしれません。でも、世界のどこかでは、毎日のように罪人が悔い改めてイエス様を信じて救いが起こっています。ですからきっと、毎日のように、天ではみ使いたちが大喜びをしているのだと思います。

 悔い改めは、一度限りのことではありません。イエス様を信じた後にも、私たちは何度も悔い改める時があったと思います。Ⅰヨハネ1:9にあるように、悔い改めるとは、自分の過ちを認めて神様のみ前にその罪を言い表すことです。それによって神様はその罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。そのようにして、私たちはイエス様に似た者へと変えられていくのです。このように、悔い改めはイエス様を信じた時だけのことではないのです。私たちの信仰生活の中で悔い改めることはとても大切なことです。自分の過ちを認めて、そして、向きを変えて正しい方に向かって再び進んで行くのです。

  悔い改めることは、私たちにとって簡単なことでしょうか、それとも、難しいことでしょうか。簡単な時もあれば、難しい時もあるでしょう。あることについては簡単であっても、あることについては簡単ではないかもしれません。間違いや罪を認めるのが嫌な時、私たちの心の中はどんな感じでしょうか。平安がありません。喜びがありません。怒りがあるかもしれません。赦せない思いがあるかもしれません。どれも苦々しくて、否定的な思いです。そのようなことはすべて忘れてしまいたいのに、頭から離れません。そんな状態に陥ったことはないでしょうか。私の経験では、そのような時に、祈りと共に相手のことはさておいて、まず、自分の過ちを認める時、気持ちが楽になりました。神様が私の心の中で、また、実際的にも働いてくれました。そして、平安と喜びが戻ってきました。

 悔い改めがない時、そこには負のスパイラル、破壊的なスパイラルが繰り返し続いて行きます。自分に対しても周囲に対しても、何も良いことがありません。けれども、悔い改める時、創造的なスパイラルが動き始めるのです。自分の中でも自分の外でも神様が働いてくださいます。そうして私たちは前向きに希望をもって進んで行くのです。

 悔い改めて、イエス様を救い主として心の中に迎え入れた人々は、無条件の神様の愛の中にいます。私たちは、無条件で神の子として神様の家に迎えられました。私たちは神様に咎められることはありません。ですから、自分の過ちや罪を認めることは不名誉なことでもなく、恐ろしいことでもないのです。それどころか、私たちが悔い改める時、一人の人がイエス様を信じて救われる時と同じように、天では喜びが沸き起こっているはずです。私たちは悔い改めることをとおして、神様と天のみ使いたちを大いに喜びに湧かせていきたいと思います。人が悔い改める時、天では喜びが沸き起こっていることを覚えましょう。

 放蕩息子の話の中には、神様の無条件の愛が光輝いています。神様の無条件の愛を、今一度、思いめぐらして、感謝の祈りをささげたいと思います。それでは、お祈りします。