イエスは希望の光

2020年12月13日主日礼拝「イエスは希望の光」ヨハネ1:5~18佐々木俊一牧師

■ヨハネの福音書は12弟子のひとり、ヨハネによって書かれました。ヨハネは神の御子、救い主なるイエス・キリストの目撃者の一人です。彼が見たもの、近くでじっと見、手で触ったもの、神なるお方、イエス・キリスト、そのお方から聞いたことをこの福音書の中で証言しているのです。それらのすべてを書きしるすならば、世界はその書かれた書物を入れることができないほどにあまりにもたくさんの量になるだろう、とヨハネは言っています。自分のことをイエスが愛された弟子であると言っているヨハネが、聖霊の導きによって書いたこの福音書の1章のことばから今日は見て行きたいと思います。

■5節 ヨハネの福音書の始まりを見ると、きっとヨハネは、創世記を読んだことがあるんだろうなあ、と思うでしょう。「初めに、神が天と地を創造した。」これが創世記の初めのことばです。そして、「初めに、ことばがあった。」これがヨハネの福音書の始まりです。非常に似ています。ヨハネは創世記の始まりを意識していたのではないかと思われます。あるいは、聖霊の導きに従った結果、そうなったのかもしれません。

  また、ヨハネ1:5には、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」とあります。きっと、ヨハネは、イエス様からイザヤ書を教えられていたのではないでしょうか。イザヤ9:1~2に、「しかし、苦しみのあった所に、闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」

  イザヤは南王国の王に仕えていた預言者ですが、この箇所は、北王国に対する預言です。BC720年に北王国(イスラエル王国)はアッシリアに滅ぼされました。この歴史的事件が起こる前後にイザヤによって語られた預言であると思われます。ゼブルンとナフタリは北王国に属する部族の名前です。彼らに与えられた領土はガリラヤ湖の北側と西側の地域です。ナザレ、カナ、カぺナウム、ティベリア、ベツサイダ、コラジンなどの町や村があったところです。そこは、サマリアと同様に、アッシリア捕囚の後、異邦人がたくさん移住してきた場所でした。その後、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマに支配される中、異邦人との混血が進みました。そういった意味で、南のユダ王国の純粋なユダヤ人から見ると、異邦人のように扱われて見下されていたようです。しかし、「異邦人のガリラヤは光栄を受けた」とあるように、イエスの宣教は、この地域の出身である弟子たちと共に、ゼブルンとナフタリの地、特に、カぺナウムの町をベースにして広がって行きました。これは、マタイ4:13~16にあるように、預言の成就でした。見下されていた人々の希望のない闇のような世の中に、まず、その光は輝いたのでした。

■6節~8節 ここでは、同じヨハネでも、バプテスマのヨハネの事が書かれています。「神から遣わされたヨハネという人が現れた。」とあります。ヨハネのお父さんはレビ族の祭司でした。そして、お母さんは同じくレビ族のアロンの家系の人でした。ザカリヤとエリサベツ、二人ともに神様に誠実でへりくだった人々でした。そして、エリサベツはイエスの母、マリヤの親類でした。彼らの息子である、ヨハネもとても謙遜な人でした。自分の役割をわきまえ、神様の御声に従順な人でした。こんなエピソードがあります。ある日、ヨハネのところにヨハネの弟子がやって来て報告しました。「最近、バプテスマを受けるために、みんなあなたではなくてイエスの方に行っています。どうしたらよいでしょうか。」そうすると、ヨハネは言いました。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」今まで活躍し用いられていても、時が来ると、後から続く者に譲らなければならない時が来ます。寂しいことですが、ヨハネは、神様から受けていた自分の役割をきちんと理解し、そして、受け入れたのだと思います。

  ヨハネの責任と役割は、イエスがキリスト(救い主)であることをあかしすることです。そして、すべての人がヨハネのことばによってイエスがキリストであることを信じるように導くことが彼の役割でした。人々は、もしかすると、このバプテスマのヨハネが預言者たちによって言われてきたキリストではないだろうか、と思いました。しかし、ヨハネははっきりと、自分はキリストではないことを人々に告げました。彼はけっして、自分が賞賛を受けるために、自分がキリストであるなどとは言いませんでした。彼自身、自分はキリストではないことを十分に承知していました。彼は最後まで神様から受けた自分の役割に徹したのです。そこが彼の偉大なところではないでしょうか。

■9節~11節 光であるこのお方は、ユダヤ人のためにだけ来られたのではありません。全世界のすべての人のために来られたのです。なぜならば、このお方は創造主だからです。この世界のすべて、海も山も川も空も、すべての自然、植物も動物も人間も、地球も月も太陽も、全宇宙を造られたお方なのです。しかし、人間はある時から創造主である神様を神様として認めることが出来なくなってしまいました。

  また、このお方は、人としてはアブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、ダビデ、そして、ソロモンの家系の人として生まれました。つまり、イスラエル人としてこの地上にお生まれになったのです。しかし、こう書かれています。「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」イスラエルの民の僅かな人々はこの方を受け入れましたが、多くはこの方を拒絶しました。

AD70年にイスラエルという国はローマ帝国によって滅ぼされました。しかし、1948年に、イスラエルは再び国として建国されました。現在、日本の四国くらいの国土におよそ800万人のユダヤ人が生活しています。さらに、他の国々におよそ700万人のユダヤ人がいます。イスラエルに移住するユダヤ人は年々増加しているそうです。また、注目すべきは、イエスをキリスト(救い主)と信じるユダヤ人も年々増えているそうです。

■12節~13節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

  みなさんは、神の子どもとされることに魅力を感じていますか。この地上の生活があまりにも素晴らしくて満たされている人は、あまり魅力を感じないかもしれません。ですから、私たちに時々許される労苦や困難があることは神の子どもとされることに魅力を感じるためには必要なことなのかもしれません。

イエス様が十字架に架けられる前に、ローマ総督のピラトにイエス様はこんなことを言っています。「わたしの国はこの世のものではありません。・・・わたしは真理のあかしをするために生まれ、このことのためにこの世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

  この地上でどんなに満たされた生活をしたとしても、それは、永遠には続かないことはだれでも知っています。でも、多くの人がそのことを悟るのは、命の光が消えかかって来た時です。私たちは、命の光が完全に消えてしまう前に、イエス様の声に聞き従う必要があるのです。私たちの国はこの世のものではないのです。私たちの国は神の御国です。神の御国に入るのは、神の子どもの特権なのです。

■14節~15節 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」この出来事がクリスマスの出来事です。今から約2000年前に、イスラエルの民が長い間待ち望んできた救い主なるお方がやっとお生まれになりました。神様は、このクリスマスという出来事のために、「イスラエル」という国を選びました。この出来事が起こる、ずっとずっと昔から、イスラエルの預言者たちによってことばをもって語られてきたのです。そして、予告通りに、ベツレヘムという町でキリストは生まれした(ミカ5:2)。 

  キリストは人々の間に住んで、神様がどんなに人々のことを気にかけて愛しているのかを知らせてくださいました。ある時は、病のために希望を見いだせないで苦しんでいる人々をいやしました。ある時は、あまりにもの罪深さのために人々から仲間はずれにされているような人々を受け入れ、ともに交わり、神の愛を身をもって示しました。ある時は、奇跡によって神の圧倒的な力を表し、人々の信仰を回復しました。希望を見いだせず、傷ついた人々の心に、もう一度、信仰と愛と希望を回復するために働かれたのです。イエスを通して、人々は神の愛を知らされました。その愛が、最も表されたのが、イエス・キリストの十字架の出来事です。そして、復活は、人々の将来に大きな希望と可能性を示してくれました。

■16節~18節 私たちは、イエス・キリストをとおして神様がどのようなお方かを知ることができます。イエス様が言われたことやイエス様のなされたことをとおして神様の人への思いや気持ち、愛や赦しや寛容を知ることができます。しかし、それはそうとしても、新約聖書を通して受ける神様のイメージと旧約聖書を通して受ける神様のイメージにはあまりにも大きなギャップがあると思いませんか。このギャップをどう理解したらよいのでしょうか。旧約聖書を読むと、神様が恐くて厳しい、近寄りがたい存在であると思わざるを得ません。神様は愛のお方であると言われても、正直言って、理解しがたいところがあるのではないでしょうか。イザヤ9:7にこう書かれています。「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」私が思うには、神様には何としてもやり遂げなければならないミッションがあったのだと思います。それは、人を滅びから救うための道を実現することです。そのためには、イスラエルの民がこの世から絶対に消えてしまってはならなかったのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、ダビデ、ソロモンの家系が絶えてしまってはならなかったのです。救い主なるお方がこの地上にお生まれになるまでは、何としてもやり遂げなければなりませんでした。神様のこの計画に対して、旧約聖書を見ると幾多の妨げや困難があったことがわかります。アブラハムの子孫は、何度も滅ぼされそうになったのです。ダビデを見ても何度も殺されかけました。イスラエルの民としても国を失い、ユダヤ人としても絶滅されかけました。そして、ついに、アブラハムからつながり続けたダビデの家系に、ヨセフとマリアを両親として、神の御子、救い主なるイエス・キリストが人となってこの地上にお生まれになりました。その時に至っても、その命を奪おうとする悪魔の執拗な策略がありました。最後には、見た目には悪魔の勝利でキリストの敗北と思われた十字架の出来事によって、神様のご計画の通りに、救いの道は実現したのです。万軍の神の熱心がこれを成し遂げました。成し遂げるために、ある時は神様は人に対して鬼のようにふるまう必要があったのかもしれません。しかし、それは神様の愛ゆえの計らいだったのだと私は理解します。

■ユダヤには多くの祭りがありますが、その中に、10月頃に仮庵の祭りというのがあります。ユダヤの3大祭りの一つです。過越しの祭り、五旬節、そして、仮庵の祭りです。過越しの祭りは、イエス・キリストの十字架の死と復活、五旬節は聖霊降臨と関係があります。そして、仮庵の祭りは何を意味するのでしょうか。

  Ⅱコリント5章にあるように、私たちの地上の体は仮の家、粗末なテントのようなものかもしれません。そのような体の内に、私たちの霊とともに神なる聖霊が住んでおられます。神学用語で言うならば、聖霊の内住です。イエス様は人としてお生まれになり、その体には神の霊を宿しておられました。ですから、イエス様は完全に人であり、完全に神であられるお方であると言われています。仮庵の祭りはある意味、キリストの誕生を表しているのかもしれません。そして、また、キリストが再び来られることを表わしているのかもしれません。

  私たちはこのクリスマスの時期に、イエス様が人の体をもってこの地上に来られたことを心から感謝しお祝いしたいと思います。そして、イエス様が人となって来られたこの出来事と、イエス様が再びこの地上に来られることとを、世代から世代へと語り継いでいきたいと思います。

■最後に、イザヤ書60:1節~3節をお読みしたいと思います。「あなた」とはイスラエル、また、これを霊的なイスラエルである教会、私たち一人一人の事を指していることを覚えて読んでみましょう。

「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。闇が地をおおい、暗闇が諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光の内に歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。」

  光とは神の御子、救い主なるイエス・キリストのことです。世界中のすべての国々、すべての人々にとって、イエス様こそが希望の光なのです。今、闇が地をおおい、暗闇が諸国の民をおおっています。しかし、私たちはイエスが希望の光であることを知っています。私たちの心が、喜びのない、感謝のない、ただ不安と恐れという闇におおわれてしまうことのないように、イエス様に目を向けて、イエス様を礼拝し、祈りましょう。そして、イエス様から力を受け、導きを受け、安らぎを受けましょう。私たちは守られています。神様によって私たちの将来と希望が約束されていることを、今一度思い起こして感謝しましょう。それでは、お祈りします。