道は開かれる!

2020年11月22日主日礼拝「道は開かれる!」 マタイ7:7~8、12 佐々木俊一牧師 

■私が以前いたキリスト教団体で江別に牧師として遣わされたのは今から24年前の事です。1997年の4月でした。私たち家族を含めて5人から始めた開拓伝道でした。その時、私も妻も信仰と宣教に燃えていました。

 私たちは牧師として働きを始める前に、ぜひともイスラエルに行きたい、行ってイエス様が歩まれたその地を見てみたい、マタイ28章の最後にあるイエス様の大宣教命令がなされた、あのガリラヤの地を踏んでから牧師としての働きを始めたいと強く願いました。それで、1996年の11月、家族3人でその団体のイスラエルツアーに参加することにしました。出発の1週間くらい前のことだったと思います。4才7ヵ月だった息子の耳が痛くなって病院に連れて行ったところ、中耳炎でした。お医者さんは、長時間のフライトには反対でした。私は一人でも行かなければならないという思いでしたが、妻はとてもがっかりしていました。私たち夫婦は息子の耳の癒しのために祈りました。何とかして一緒に行けるように祈りました。そして、数日たって再度病院へ連れて行ったところ、完全ではありませんが、かなり良くなっていました。病院の帰りに、妻は雨の後に大きなダブルレインボーを見ました。虹を信仰するつもりはありませんが、その時の大きな美しい二重の虹に妻は励まされたそうです。そして、大丈夫!イスラエルに行ける、という信仰が与えられたそうです。

 みなさん、虹の約束は、神様とノアの間で結ばれた永遠の祝福の約束です。それは後々の子孫にまでずっと及ぶ契約です。雨の後に虹が出ても不思議なことではありませんが、虹が神様から人類への祝福の印であることは、聖書に書かれていることなのです。ですから、虹が出たときに、虹を見て神様が私たち人間を愛し祝福してくださっている、と思ってもそれは間違いではないのです。

 私たちは息子を連れてイスラエルに向かって飛び立ちました。息子は旅行中何の問題もなく過ごすことが出来ました。本当に感謝でした。その時の写真です。

■今日の説教聖書箇所を見てみましょう。

 マタイ7:7~8「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば、見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、探す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 「求めなさい。」とありますが、みなさんは求めたことがありますか。ありますよね。求めるということは、「ちょうだい」とか「ください」ということですよね。または、お願いするとか、頼むということです。

 今までに、誰かにお願いしたり頼んだりしたことはありますか。もちろん、ありますよね。私もあります。その結果、与えられましたか。だいたい、頼めば聞いてくれますよね。だとしたら、神様だったらもっと聞いてくれますよ、とマタイ7:9~11は言っています。

 みなさんはどう思いますか。人よりも神様の方がもっと聞いてくれる、と思いますか。そうは思えない、という方はいませんか。実は、私が若いころ、神様に祈り求めても神様はなかなか聞いてくれない、と思っていました。正直言って、マタイ7:7~8のみことばが、実感できませんでした。でも、前にも言いましたが、ある時期からその印象が変わりました。ある時期というのは、結婚して子どもが与えられた時からです。

 そして、今ふり返ってみると、神様に求めたことの中でも、大切なことと思われることはほとんど聞かれているのです。捜してもなかなか見つからないと感じたり、たたいてもなかなか開かれないと感じたこともよくありました。けれども、こうして今ある自分が、きっと、これまでに求めて、捜して、たたいてきて与えられた最善の形なのだと思います。

 確かに、私が求めた通りにすべてが与えられたのではありませんし、私が捜した通りにすべてが見つかったのでもありませんし、私がたたいた通りに開かれたのではなくて、他のものが開かれたりもしたわけですが、しかし、これが今のところ、最善の結果なのだと思います。

■人生にはいろいろなことがあります。思い起こすと、いいこともありましたが、本当に大変なこともたくさんありました。

 私が激しい耳鳴りになった時は、人生はこれで終わったと思いました。本当に世にも恐ろしい耳鳴り地獄を味わいました。100匹ぐらいのアブラゼミが頭の後ろにくっついてジージージーと泣いているんです。夜になって眠れないとその音がもっと大きくなりました。私が43歳の時だったと思います。1カ月ぐらいそんな状態が続きました。徐々に鬱的になっていきました。神様に癒しを祈り求めました。聖書の言葉に神様の力と約束と導きを必死になって求めました。が、何の変化もありませんでした。私はもう限界でした。家庭の中で私の存在が大変な重圧になってきていたので、本気で別居することを考えました。

 そして、ある日、あるクリスチャンの勧めで精神科に行きました。眠剤をもらいました。耳鳴りは続いていたのですが、眠剤で、ある程度眠れるようになりました。眠れるようになると、少しずつですが耳鳴りの音が小さくなりました。しだいに状態が良くなっていきました。耳鳴りが完全になくなることはなく、また、眠気が全く無いので眠剤を飲み続けなければ眠れない状態ではあったのですが、やっと、精神的に普通の状態に戻ることができました。教会の働きにも復帰することができました。

 この時、私は耳鳴りの癒しのために神様に祈り求めました。けれども、神様の直接的な癒しはありませんでした。だからと言って、私は神様を恨んだり、否定したりはしませんでした。と言うよりも、そうしなくてすんで本当に感謝でした。この体験をとおして私が学んだことがいくつかありました。それは、このことを通して、神様の訓練があったと言うことです。この訓練をとおして、私の傲慢さが多少なりとも砕かれました。私は自分の健康を過信していました。実際に、1日や2日徹夜しても食べていれば大丈夫でした。また、私からすると妻は体が弱くて、何でこれくらいできないのだろうか、と思うこともよくありました。ですが、私自身が弱くされることによって、妻への思いやりと優しさを持てるようになりました。

 この戦いは私たち家族にとってはとても長く感じた戦いでした。この中で、私が祈り求めたような神様の直接的な介入はありませんでしたが、回復へのプロセスを通して私は信仰者として僅かかもしれませんが整えられたように思います。そして、一時は絶望していましたが、それでも、道は何とか開かれるものだと思わされました。

■マタイ7:12 「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者なのです。」

 マタイ7:7~8とマタイ7:12はつながっています。この二つの箇所をどのようにつながっているのでしょうか。私はこう考えます。あなたがたの神様は、あなたがたが求めるときに与え、捜すときに見つけ、たたくときに開いてくださる、あなたたちにとっては本当に良いお方、あなたがたのことを思ってくださるお方ですよ。だから、あなたがたもお互いに、自分にしてもらいたいと願っていることは、ほかの人にもそうしてあげなさい、お互いに良い者でありなさいと、そう言っているように思います。

 私はクリスチャンになって間もない頃、当時通っていた教会ではよく伝道集会をしていました。伝道集会が終わると、パーティー(交わり)がありました。その時に、周りの人は楽しくおしゃべりしていたのですが、私は内向的な性格で話しかけるのは得意ではありませんでした。誰か話しかけてくれるのを待っていたのですが、一向に誰も話しかけてくれませんでした。そのうちに、自分はそんなに興味を持たれないつまらない人間なのか、そんなに話かけにくい嫌な人間なのか、自分はそんなにダメな人間なのか、とだんだん自信喪失になっていくのでした。でも、ある時から、思い切って自分から話しかけるようにしました。そうしたら、おのずと話しかけられるようになっていきました。結局のところ、話しかけてほしいと思っているのは自分だけではありません。みんな話しかけてほしいと思っているのです。自分にしてもらいたいと思っていることは、だいたいほかの人も同じようにそうしてもらいたいものです。ですから、自分にしてほしいと思っていることは、ほかの人にもしてあげましょう。そうする時に、あなたは、それまでの自分の殻を破り、新しいステージへと進んで行きます。そのようにして、道は開かれていくのです。

■今日の説教聖書箇所と、とても似ているところが、ヨハネ15:16~17だと私は思います。マタイ7:7~8と12、そして、ヨハネ15:16~17を比べると、とても似ていると思います。

 私たちが神様に求めてから与えられるまでのプロセスの間に、神様からの訓練や学びがあります。神様にとってはそのプロセスがとても大切なことです。私たちにとっては、道が開かれることがとてもたいせつなことです。私たちの道は、必ず開かれます。私たちの思い通りにではなくて、最善の形で私たちの前に開かれます。ですから、求めたなら、忍耐をもって、道が開かれるのを待ち望みましょう。それでは、お祈りします。