信仰によって歩み続ける

2020年11月8日主日礼拝「信仰によって歩み続ける」 ヘブル11:5~8 佐々木俊一牧師 

■ヘブル人への手紙11章には、信仰によって生きた人々について書かれています。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、サムソン、ダビデなど有名な人々をはじめ、預言者たちやその他無名の信仰によって生きた人々について語られています。もちろん、女性もいます。サラ、リべカ、ラハブ、ルツ、エステルなど、他にもたくさんいます。

ヘブル11:6に、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。私たちに信仰がなければ神は喜ばれません。逆に、信仰があれば神は喜ばれるのです。それでは、「信仰がある」、「信仰がない」とはどういうことなのでしょうか。

■信仰があるとは

①  神がおられることを信じること。

  ヘブル11:6に、「神に近づく者は、神がおられることを信じなければなりません。」とあります。この世界には数え切れないほどの宗教があり、それぞれに礼拝対象となる神々があります。しかし、真の神は唯一です。天地を造り、すべての生き物を造られた聖書の神だけです。ここでいう「信仰がある」とは、目には見えないけれども神がおられることを信じ、聖書の神を唯一の真の神として信じることです。

②  神を求める者には、報いてくださる方であることを信じること。

  ヘブル11:6にはまた、「神に近づく者は、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければなりません。」とあります。神を求めるとは、神に願い求めることです。それに対して、神はきっと応えてくださると信じることが信仰です。人生は楽しいことだけではありません。苦しいこともあります。そのような時、人は超自然的な、力ある何かに願い求めるものです。私たちクリスチャンは、聖書の神様に、どんな時にも信頼し、願うように導かれています。神は願い求める者をけっして見捨てることはありません。必ず、助けがあり、報いがあるのです。

  神を求める者には報いがあります。それは、私たちにとって祝福です。ヘブル11章に出てくる人々は、神に求め、神によって祝福された人々でした。しかし、聖書に書かれていることからわかることは、神に求め、神によって祝福された人々、信仰の人々にも、問題や困難が許されたという事実です。祝福=問題や困難がないということではありません。また、彼らは私たちと同じ人間ですから、信仰の浮き沈みがあったことと思います。信仰が燃えているときもあれば、信仰が冷めているときもあったことでしょう。それでも、彼らは、彼らの歩みを修復し、立ち位置を信仰の歩みに戻して、信仰によって歩み続けたのだと思います。神がおられることと、神を求める者には報いてくださるお方であることを信じ続けたのだと思います。そして、その報いを彼らの多くは天において受けました。

■へブル11:5にはエノクのことが書かれています。11:7にノアのことが書かれています。そして、11:8にアブラハムのことが書かれています。三人ともに、信仰によって歩んだ人々でした。神がおられることと、神を求める者には報いてくださるお方であることを信じて生きた人々でした。

  今日は、アブラハムの信仰の歩みをとおして、信仰によって歩み続けることがどういうことなのかについて見ていきたいと思います。

  創世記の12:1を見てみましょう。ここに、アブラムという名前が出て来ます。アブラムは後に、アブラハムと呼ばれるようになります。彼は、今から約4000年前の人であり、これは、約4000年前の出来事です。1節の初めに、「その後」とあります。何の後かというと、それは、創世記11:31に書かれています。アブラムは、妻のサライ(後にサラと呼ばれる)と共に、父のテラに連れられて、ウル(イラク南部にあった)という大都市からカラン(トルコ南部にあった)という都市に移動しました。彼らの最終的な目的地はカナンの地(パレスチナ)だったようです。もしかすると、神様はアブラムの前に、アブラムの父テラにカナンの地に行くように語っておられたのかもしれません。しかし、彼らはカナンの地には行かないでカランに住みついたと書かれています。カルデヤ人の町ウルとカランはともに、ユーフラテス川流域の文明の進んだ整備された住みやすい都市だったようです。しかし、そこでは、真の神ではなく、自分たちのために作った月の神々の像に礼拝をささげていました。アブラムの父テラは、そこで死にました。その後、神はアブラムに、カランを出て神様の示す地、カナンに行くように語られました。

  創世記12:2~3を見てみましょう。神様からアブラムへの祝福のことばが書かれています。カランから出て行くことは、偶像礼拝を捨てることを意味します。そして、カナンの地に行くことは、真の神を信じ、従うことを意味します。そうするならば、という条件で、神様はアブラムに祝福の約束を与えました。

 ①  あなたを大いなる国民としよう:この約束が語られたとき、アブラムと妻サライの間には子どもがいませんでした。年齢を考えると、子どものことはあきらめなければなりませんでした。しかし、神に不可能はありません。その後、アブラムには二人の息子が与えられました。イサクとイシュマエルです。イサクの子孫はユダヤ人です。イシュマエルの子孫はアラブ人です。この約束は成就しました。イサクもイシュマエルも国として民族として存在しているのです。

 ②  あなたを祝福しよう:アブラムの仕事は羊飼いでした。神は彼の仕事を祝福し、経済を祝福しました。神の祝福によって、アブラムもその子孫も繁栄しました。

 ③  あなたの名を偉大なものとしよう:ユダヤ人の間でもアラブ人の間でも、アブラハムの名は偉大なものとして扱われています。

 ④  あなたの名は祝福となる。それゆえに、あなたを祝福する者を祝福し、あなたをのろう者をのろう。

 ⑤  あなたによって地上のすべての民族は祝福される:このことばこそが、救い主イエス・キリストの約束です。アブラハムの家系から、全人類の救い主であるイエス・キリストはお生まれになりました。イエス・キリストを信じる者はみな、人種、民族、国に関係なく、祝福されるのです。

  アブラハムは、この約束を信じました。そして、神様に言われたように、カランを出て、カナンの地へと出発しました。

■創世記12:5~10 カランには、立派なアブラハムの家があったと思われます。アブラハムはそれを捨てて、テント生活をしました。カランの家に比べると、テント生活は居心地のいいものではありません。けれども、アブラハムは、神の約束を喜んでいました。将来、大いなる国民になるのだから、きっと、サラとの間に子どもができるに違いないと期待したことでしょう。神には不可能はないのだから、必ずそうなると、信仰によって進んで行ったのではないでしょうか。

ところが、カナンの地に入ってみると、そこにはもうすでに、カナン人が住んでいました。アブラハムたちは、カナン人を避けて、あっちに行ったりこっちに行ったり、旅は終わることなくさまよい続けました。さらに、南へ行くとそこは、激しいききんでした。家畜に与えるえさがありません。自分たちの食料もなくなってきました。仕方ないので、アブラハムは行きたくありませんでしたが、もっと南へ下って、そして、エジプトで避難生活をすることになるのです。それだけでは済みませんでした。もっと大変なことが彼らに降りかかってきたのです。

  みなさん、人はふつう、こんな状況に陥ると、どんなリアクションをするでしょうか。祝福すると言った神様の約束は本当だったのだろうかと疑うのではないでしょうか。何もかもが嫌になって神様の約束とは言え、すべてを投げ出してしまうのではないでしょうか。

  しかし、アブラハムはあきらめませんでした。アブラハムは、神がおられることと、神を求める者には報いて下さるお方であることを信じ続けたのです。そして、カランを出てから25年、アブラハム100歳、サラ90歳の時、約束の子イサクが生まれました。ふりかえるならば、この25年間にどれほど多くの困難と問題が許されたことでしょう。しかし、そこを乗り越えてついに神のことばが成就したのです。

  アブラハムへの約束はここで終わりではありません。アブラハムに与えられた約束で、彼が生きている間に見たものは、ほんの始まりに過ぎませんでした。残りは、アブラハムが天に召された後のことであり、今私たちが生きている時代にあってさえ、まだ続いているのです。神様の約束と祝福は場所を超え、時を超えて広がっているのです。

■このようにアブラハムとサラのことを話すと、アブラハムとサラが完全無欠の人のように思われるのではないでしょうか。確かに、新約聖書においてはアブラハムもサラも欠点のない立派な信仰の人として書かれているところがあります。でも、創世記を読むと、そうではありません。彼らの信仰は立派です。しかし、二人とも私たちと同じ人間です。失敗もあれば欠点もあります。けっして、完全な人ではありませんでした。信仰によって歩むことは、アブラハムやサラだけが出来ることではなくて、私たちも信仰によって歩むように神様に導かれているのです。

  クリスチャンになれば、問題も困難もなくなると言うわけではありません。祈れば必ず、祈った通りに聞かれると言うのでもありません。祈っても願ったとおりにならないこともあるのです。しかし、私は思います。基本的に神様は私たちの祈りに応えてくださいます。願ったとおりにならないのは、そのような時にこそ、神様の特別な考えがあるのだろうと思います。私たちには計り知れない神様の領域です。もしかしたら、あることについては、生きている間にそのわけがわかるかもしれません。けれども、あることについては、天に行って初めてわかることもあるでしょう。

  しかし、そうであったとしても、クリスチャンになったからには、信仰によって前に進んで行きましょう。あきらめないで、信仰によって前に進み出る時、私たちのそれぞれの歩みの中に神様の栄光が現されます。祈りが聞かれなかった時の私たちの神様への態度は、その後の私たちの信仰の歩みに良くも悪くも働きます。祈りが願う通りに聞かれない時、私たちの信仰を保つことは容易なことではありません。しかし、それでも、神様を信頼して信仰によって歩み続けるときに、私たちが信仰によって見る景色は変わってきます。信仰者として前よりもずっと力強く立たされているはずです。

  教会としても同じです。オープン・ドア・チャペルにおいても、いろいろな問題や困難が許されてきましたし、これからもそうでしょう。しかし、唯一なる真の神様がおられることを信じ、その神様に熱心に求める教会には、神様は必ず報いて下さることを信じて歩み続けましょう。そのことを忘れないようにしましょう。信仰によって歩み続けるならば、たとえ問題や困難があったとしても、その先に、必ず神様の祝福がここオープン・ドア・チャペルに現されます。

  皆さんは神様に何を求めますか。私は、教会から離れてしまった多くのクリスチャンの信仰がリバイバルされて教会に戻って来ることを求めます。また、多くの人々がイエス様を信じて、多くの人々が救われることを求めます。今はコロナのことがあるのでできませんが、コロナのことが過ぎ去った時には、この会堂に入りきれないほどの人々が集まって共に主を礼拝することを求めます。それでは、お祈りします。