人生を築き、天で身を結ぶ

2020年10月25日主日礼拝「人生を築き、天で身を結ぶ」ルカ22:24~29 佐々木俊一牧師

■今日は、「人生を築き、天で身を結ぶ」と題してお話をしたいと思います。タイトルを見て、「身」ではなくて「実」ではないのか、と思った方もいるかもしれません。しかし、「身」でいいのです。ネット辞書で調べてみたら、「身」とは、「自分という存在」、「本体となる部分」、「社会的な立ち位置」、「社会的な地位・身分・立場」とありました。

■24節 今日の聖書箇所はヨハネの福音書からではありません。ルカの福音書から見てみたいと思います。早速、22:24を見てみましょう。またもや弟子たちの間でいざこざが起こっているようです。「誰が一番偉いのか」論議が始まっていました。文脈の流れから見ると、この論議は、過越しの食事のとき、私たちにとっては「主の晩餐」と言われていることの後に起こっているようなのです。この後イエス様は、1日もしないうちに十字架に架けられようとしていました。イエス様は、弟子たちにご自身が十字架に架けられて死ぬことについて話したばかりなのです。弟子たちにパンとぶどう酒を与え、イエス様の引き裂かれるからだと流される血潮を覚えて、イエス様が再び来られるまでこれらのことを行なうように、そしてこの新しい契約を思い起こすように話されました。そして、その後に、弟子たちはまた、「誰が一番偉いのか」論議をしていたのです。これは、驚きです。また、何と愚かで情けない人々だとも思います。しかし、これは他人ごとではないように思います。もしかしたら、自分も弟子たちと同じようなことをしているかもしれません。

■次に、ヨハネの福音書を見てみたいと思います。ヨハネの福音書13章を開いてください。

13:1に、「過越しの祭りの前に」、とあります。ここは、過越しの祭りの前にと言うより、過越しの食事の前にと言った方が、状況をとらえやすいのではないかと私は思います。太陰暦ですから日没から次の日が始まります。洗足の出来事は過越しの食事の始まる日没の前、午後6時前に行なわれことでしょう。ですから、洗足は木曜日から金曜日に日付がもう少しで変わろうとしている時に行なわれたはずです。それから日が沈み、金曜日になってイエス様と弟子たちは一緒になって過越しの食事を食べて祝ったのです。

   ヨハネ13章は「洗足式」のところです。オープン・ドア・チャペルでは、イースターの前の金曜日に受難日礼拝を行っています。ある教会ではイースターの前の木曜日に洗足式をします。洗足の後に、過越しの食事が始まり、礼典となった主の晩餐が行なわれたはずです。ところが、ヨハネは最後の晩餐については詳しい記録を残していません。ただ、イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダのことにふれて、「パン切れを浸し」と書いてあるので、確かにこの時、他の3福音書では書かれている最後の晩餐が洗足の後に行なわれていたと考えてよいかと思います。

  マタイ、マルコ、ルカは共観福音書と言われていて、同じ記事が重複しています。この最後の晩餐の記事についても同じことが言えます。マタイ、マルコ、ルカに同じように書かれています。しかし、ヨハネの福音書には書かれていません。私は思うのですが、この4つの福音書の中で一番後で書かれたと言われているのはヨハネの福音書です。ですから、ヨハネは他の福音書を読んだか、聞いたかしていて、その内容についてある程度知っていたのではないでしょうか。証拠はないのですが、わたしはそのように推測します。ヨハネは福音書の終わりで、「イエスが行なわれたことは、他にもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書き記すなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う」、と言っています。なので、ヨハネとしては、他にも書きたいことはたくさんあったのではないかと思います、それゆえに、他の福音書に書かれていないことを出来る限り書くように、聖霊によって導かれたのかもしれません。

  おもしろいことに、ヨハネはその福音書の中で、自分のことを「イエスが愛された弟子」であったことを強調するかのように、何度かこの表現を用いています。さらに、自分の欠点や失敗についてはあまりふれていません。どちらかと言うと他の人について、特にペテロの失敗について複数回取り上げています。私は思いますけど、悪い意味ではなくて、ヨハネは要領がいい人、それに対して、ペテロは要領が悪い人のように思えてなりません。たとえば、マタイ20:20から見てみると、ゼベダイの子たちの母、つまり、ヨハネのお母さんが、イエス様のところにやって来て、イエス様がユダヤの王様になった時には側近中の側近の大臣にしてくれるようにお願いしに行っているのです。また、主の晩餐の時には、ヨハネはイエス様のすぐ右隣りにしっかりと陣取り、でも、ペテロはイエス様から離れたところにいました。この時、ペテロとヨハネの二人は過越しの食事の準備係を担当していました。そうするようにイエス様から言われたからです。この二人は、過越しの食事の幹事だったのです。幹事って言うのは世話役人です。いろいろ準備するのに忙しくて大変なのです。自分のことは二の次にしなければなりません。なのに、要領のいいヨハネは、しっかりとイエス様の右隣に陣取り、ペテロは離れた席にいました。ペテロにとって、これは受け入れがたいことです。

  ヨハネ13章を再び見てください。イエス様が弟子たちの足を一人一人丁寧に洗いました。ふつうだったら、客の足を洗うために、そこにしもべがいるはずです。ですが、この時にはいなかったようです。しかし、席の順番から行くと末席に位置する者がしもべであるということをどこかで聞いたことがあります。その人が足を洗うのです。たぶん、この時、幹事だったペテロが末席にいたのかもしれません。しかし、幹事のペテロはいつまでたっても進んでみんなの足を洗おうとはしませんでした。他の弟子たちも立ち上がって足を洗おうとする者は誰もいませんでした。他人よりも自分の方が偉いのだと主張したい弟子たちの集まりでしたから、これは想定内の結果だったとも言えます。砂埃にまみれた汚い足を洗う仕事はしもべの仕事でした。見兼ねたイエス様は立ち上がってみんなの足を洗い始めました。弟子たち一人一人の足を、心を込めて洗いました。イエス様が末席のペテロのところに来ました。ペテロは自分がみんなの足を洗わなかったために、結局イエス様にこんなことをやらせることになってしまったと、後悔の気持ちでいっぱいだったのではないでしょうか。もちろん、イエス様は神なるお方ですから、このようになることはわかっていた上で、イエス様が弟子たちに知ってほしい真理を教える良い機会としてこの時を用いられたのだと思います。イエス様による洗足が、神の小羊なる主イエス・キリストの血潮による罪の贖いと赦しを象徴する出来事であったことを、後になって弟子たちは理解したのだと思います。

  この出来事に続いて、ルカ22章の主の晩餐があり、この流れの中で、「誰が一番偉いか」論議が始まったことを考えると、とても興味深いことだと思います。人の性質と言うのはなかなか変わりません。イエス様がこんなに良い模範を目の前で示しているのにもかかわらず、それでも変わりません。自分も含めて、人とはそういう者であることを自覚し、反省する必要があるかもしれません。

■25節~27節 イエス様は「誰が一番偉いのか」論議に気づいて、この世の価値観と神の国の価値観の違いについて語りました。この世では、人々の上に立つ者、当時は王様が人々の上に権力をふるって支配していました。しかし、イエス様は違う考えでした。上に立つ者がそんなではだめだと言うのです。どうすればよいのかと言うと、一番偉い人、そして、治める人は、仕える人のようでありなさい、と言うのです。これが神の国の価値観なのです。威張って口だけ動かして人に命令してみんなが嫌がることを人にやらせてばかりいてはいけません。自分が動かないといけないのです。この世では、食卓に着く人と給仕する人とでは、当然、食卓に着く人の方が偉いのですが、神の国では反対です。食卓に着く人より給仕している人の方が偉いと言う評価なのです。仕えられる人より仕える人の方が偉いと言うのが、神の国の価値観です。ですから、イエス様もそのようにして生きて来られました。そして、この時に、そのことを実践して示されました。実際には、弟子たちは、神様の目から見て偉いと言われるにはまだまだ未熟者でした。

■28節~29節 そんな未熟な弟子たちではあったけれども、イエス様は彼らを評価していました。何を評価していたかと言うと、それは、ここに至るまでにいろいろな試練があったけれども、弟子たちこそが最後までついてきてくれた人であることを、イエス様は認めてくれていたのです。イエス様は、たとえ、欠点があったとしてもその人をけっして全否定はしないお方であると思います。そして、弟子たちのために、神様が用意している素晴らしいことがあることを期待させるようなことばが、29節に書かれています。王権を与える、つまり高い地位を与え、偉い人にしてくれることをイエス様は約束されました。弟子たちが欲しいと願っていたものを与えてくださると言われたのです。しかしながら、天において偉い人とは仕えられる人ではなくて、仕える人であることを忘れてはなりません。

■弟子たちは、この地上で、成功したい、高い地位に就きたい、偉い人になりたい、そのような夢をいだいていた人々の集まりでした。彼らには、イエス様がユダヤの王様になった暁には、自分たちがこの国の大臣になって国を治めることになるのだという夢をいだいてイエス様に従って来ました。しかし、イエス様は捕らえられ、鞭打たれ、ののしられ、十字架に付けられて死んでしまいました。それによって、彼らの夢は壊れてしまったのです。彼らは生きる目標を失い、燃え尽きてしまいました。

  ところが、イエス様は死んで終わりではありませんでした。イエス様は復活し、弟子たちの前に現れたのです。その後、聖霊が下られ、聖霊を受けた弟子たちは以前の弟子たちのようではありませんでした。弟子たちは、弟子たちの夢と現実の狭間で失望し、苦しみ、自分たちの人生は終わったと思っていました。しかし、イエス様の復活と聖霊を受けた後、イエス様と共に歩んだ3年半はけっして無駄ではなかったことがはっきりしてきました。彼らの生き方は軌道修正されていました。この世の成功や偉くなることが彼らの目標ではなく、神様の計画と神様のみこころを行なうことが彼らの目標となり生き方となって行ったのです。彼らの人生はイエス様との出会いの時からすでにイエス様と共に築き上げられていました。彼らが願っていた通りにこの地上で権力者になったわけではなく、偉い人になったわけでもありません。それどころか、イエス様を救い主として信じ従ったことのゆえに、苦難と迫害の中を通らなければなりませんでした。しかし、彼らはそのような境遇の中にあっても信仰を保ち続け、最後まで耐え忍び、天に召されていきました。そして、きっと天においては、彼らはイエス様が約束された素晴らしいものを受けたに違いありません。この地上では受けることが出来なかったけれども、しかし、主と共に自分の人生を築き、天で身を結ぶ者となったにちがいありません。

  私たちの人生も同じです。みなさんには、夢があったでしょうか。もちろん、あったかと思います。その夢は実現したでしょうか。あるいは、しなかったでしょうか。実現した夢もあれば、しなかった夢もあったかもしれません。若い人にとって夢は現在進行形です。「少年よ。大志をいだけ。」ということばを聞いたことが誰でもあるかと思います。その後に、「キリストにあって」と言うのが付くそうですね。キリストにあって大いに夢を持っていただきたいと思います。そして、キリストのためにその夢の実現に向かって行ってほしいと思います。しかし、たとえ、その夢が実現しなかったとしても、私たちに出来ることは、地上において主と共に自分の人生を築き、天で身を結ぶ者となることであるということを、忘れないでほしいと思います。それではお祈りします。