あなたを生かす水

2020年10月11日主日礼拝「あなたを生かす水」ヨハネ7:37~43

佐々木俊一牧師

■前回は、ヨハネの福音書2章からカナと言う小さな町で行なわれた婚礼のときのお話をしました。このとき、イエス様は手足を清めるために用意されていたかめ中の水をぶどう酒に変えたという奇蹟を行なわれました。これは、イエス様が行なった初めての奇蹟でした。婚礼の祝宴の中でぶどう酒がなくなってしまい、必要があって導かれた奇蹟でした。しかし、それは、神様の計画の中にあって、イエス・キリストの救いの出来事を象徴することとして現わされた奇蹟でもありました。

  今日もヨハネの福音書からお話をしたいと思います。ヨハネ7:37~43です。

■37節 今年はコロナのために世界中でお祭りが中止になっています。日本もそうです。毎月のようにどこかで必ず行われている祭りが今年はすべてと言っていいくらいに中止になっています。

  日本は祭りの多い国です。イスラエルもまた、日本と同じかそれ以上に祭りの多い国です。聖書を見てもそれがわかります。現在、イスラエルの新年は秋にあります。昔は春にありました。正確に言うと、イスラエルの新年は秋と春にあります。出エジプト記12章にあるように、3月から4月にかけての1ヵ月間が第一の月になります。これが宗教的な新年です。この月に過越しの祭りがあります。キリスト教会ではイースターがある時期です。9月から10月にかけての1ヵ月間が第七の月になります。これが政治的な新年です。現在のイスラエルでは、この月が新年として祝われています。太陰暦なので、毎年、新年の日にちが変わります。 今年は、9月19日がユダヤ歴の1月1日でした。そして、その月の15日目からあるお祭りが始まるのです。37節に、「祭りの終わりの大いなる日」とあります。この祭りは何と言う祭りでしょうか。7章の2節に戻るとわかります。「仮庵の祭り」です。仮庵の祭りとは、ユダヤ人にとってどういう祭りかと言うと、今から3500年くらい前に起こった出来事ですが、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトの地からカナンの地に入るまでの40年間、テント生活、つまり、立派な家にではなく仮の家(仮庵)で生活していたことを後の世代に伝えるために、このような祭りをするように神様が言われたのです。彼らはナツメヤシの葉や木々の枝を使って小屋を作り、収穫した美しい木の実で飾りました。そこに1週間家族で寝泊まりし、昔の出来事を子どもたちに語り伝えて行ったのです。現在も行われている習慣です。

  その初めの日と終わりの日は、「大いなる日」と呼ばれていました。終わりの大いなる日に、イエス様は立ち上がって、大声で群集に向かって言われました。一言目はこうです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」このことばによってイエス様は、いったい何を言いたかったのでしょうか。実は、仮庵の祭りがある頃と言うのは、水が最も不足する時期なのです。イスラエルには、乾季と雨季があります。乾季は5月から10月です。雨季は11月から4月です。雨季といっても、日本のように雨量は多くはありません。しかし、一旦大雨になると、岩地や砂漠などの乾燥地帯では川のなかったところに川(ワジ)ができて、それが激しい洪水のように、勢いよくあふれ流れるほどなのです。そのような流れに侵食された地形が、イスラエルには多く見られます。

  11月頃から、新たな収穫のために種まきが始まります。それに備えてイスラエルの人々は、この終わりの大いなる日に神に向かって雨乞いをするのです。祭司たちはシロアムの池から神殿まで水を運び、祭壇の上に何度も何度も水を注ぎながら、「神様、どうぞ、雨を降らせてください。」と言ってお願いするのです。そのような状況の中でイエス様は立ち上がり、群衆に向かって大声で言ったのです。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と。時期的に、命を与え、命を育てる、生きるための水が一番必要な時に、人々に向かって、イエス様はこのことばを叫ばれました。

■38節~39節 二言目に、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とイエス様は言われました。イエス様を信じる者は、心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる、とイエス様は言いました。これはどういうことなのでしょうか。その答えが39節にあります。これは、イエス様を信じる者が後になってから受ける御霊(聖霊)のことを言われたのであると書かれています。

  ヨハネの4章で、イエス様は、井戸端で一人のサマリヤの女に出会ったことが書かれています。その時にも、同じようなことをイエス様は言っています。イエス様がサマリヤの女に言ったことはこうです。「わたしの与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」生ける水の川も永遠のいのちへの水も、御霊(聖霊)のことを意味していることがわかるかと思います。

■先ほど38節のところで、「聖書が言っているとおりに」と書かれてありましたが、この聖書とは、当然、旧約聖書のことです。旧約聖書の中にも、生ける水についての言及を多く見つけることができます。たとえば、仮庵の祭りの発端となった、イスラエルの民の荒野での40年間の歩みの中にも、そのようなことを見つけることができます。

  出エジプト記15:22~25にはこのような話が書かれています。イスラエルの民は水を捜し求めたけれども、三日の間水を見つけることができませんでした。やっとのことで水を見つけたのですが、でも、それは苦くて飲める水ではありませんでした。民は、何を飲んだらよいのかと、モーセに文句を言い始めました。モーセが神に叫び求めると、1本の木を示されたので、それをその水の中に投げ入れました。すると、その水は甘くなって飲める水になりました。ここに出て来る1本の木は、イエス様の十字架を表わしていると言われています。イエス・キリストの十字架によって、私たちに生ける水、永遠のいのちへの水が与えられることを意味しています。

  次に、出エジプト記17:1~7を見てみると、ここでもイスラエルの民は飲む水がなかったとあります。そして、民は水に渇いて、ここでもモーセに文句を言いました。状況はエスカレートして、モーセを殺そうとさえしました。挙句の果てには、「神はいるのか、いないのか」と言って、神を試みたとあります。この時は、神様はモーセに、杖をとって岩を打つように言われました。すると、その岩から水が大量に流れ出て来ました。この岩も、イエス・キリストを表していると言われています。イエス・キリストこそが私たちに生ける水、永遠のいのちへの水を与えてくださるお方なのです。

  水を見つけるのが困難な荒野という環境の中で、神様はいつもイスラエルの民に水を備えてくださいました。イザヤ書12章に、このようなみことばがあります。「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。その日、あなたがたは言う。『主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを全世界に知らせよ。シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。』」3節のところは有名なところです。「マイムマイム」というフォークダンスの歌詞として使われています。前にも言いましたが、「マイム」とは、ヘブライ語で水のことです。「救いの泉」とは、イエス・キリストのことであり、また、御霊(聖霊)のことです。

■40節~43節 イエス様のこのことばを聞いて、この人はキリスト(救い主)であると言う者、反対に、この人はキリストではない、と言う者がいました。そして、そこに分裂が起こったとあります。いつの時代にも信じる者と信じない者がいます。それによって、分裂や分断が生じても不思議なことではありません。

  7章の初めに戻ってみましょう。7:5に「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである」、と書かれています。兄弟たちとは、イエス様の母、マリヤの子どもたちであり、イエス様の弟や妹のことです。この時、イエス様の家族もこの仮庵の祭りのためにエルサレムに行こうとしていたようです。兄弟だからこそ、どうしても信じられないと言うことはあると思います。りっぱな成功をおさめて世の中では偉い人と思われているお兄さんであっても、家族の中にいるとふつうの人っていうことはよくあることです。小さい頃からずっとそばにいて人としてのイエス様を実生活の中で見てきているわけですから、なおさら、自分たちと何も変わらないただの人であると思ってしまうのは仕方ないことかもしれません。イエス様の兄弟たちの内面には、イエスがキリストであるのかどうかについて、大きな心の葛藤があったのだと思います。しかし、そのようなイエス様の兄弟たちの中にも、イエスはキリストであると信じる信仰へと導かれた者たちがいたのです。彼らは弟子たちと共にイエス様の奇蹟やいやしを見、イエス様の十字架と復活を見、ペンテコステの時には聖霊降臨を、身をもって体験しました。新約聖書の中にあるヤコブの手紙とユダの手紙は、イエス様の兄弟であるヤコブとユダによって書かれたものであると言われています。最初は疑っていたヤコブとユダでしたが、初代教会においてはクリスチャンへの迫害が強まる中、指導者として活躍していたのです。

■先ほど、イスラエルの民が荒野の中を40年間通らされた話をしましたが、私たちも辛く苦しいところを通らされることがあります。何でこんなに苦しめられるのだろうかと思うことがあります。できることならもっと楽に生きたいと私たちは願っています。でも、それがかなわないことが多々起こるのです。それが、人生です。私たちが辛く苦しい状況の中を通らされるのには、何か理由があるのだと思います。でも、はっきりとその理由が何かを言えることはほとんどないように思います。私自身、そのようなところを通らされましたし、でも、その理由が何かをはっきり答えられることはあまりなかったように思います。「神様、なぜですか。」と、その理由を何度聞いてもわからないとしても、また、そんな時、つい文句を言ってしまったとしても、また、疑ってしまったとしても、疑うことをやめて、イエス様に心を向けて、イエス様を信じてイエス様について行く時、私たちは人として成長し、自分の信仰が強められていることに気づくのです。

  私たちが辛くて苦しい時というのは、水がなくて、喉が渇いて、水が欲しいと言っている時に似ていると思います。水を飲まなければ、私たちの苦しみはもっと深刻なものになるでしょう。しかし、水を飲んで水の力を受けるならば、その苦しみはやわらぎ、やがて楽になります。私たちの心は人によって程度は違っても、荒れ果てた乾いた地のような状態になっているのかもしれません。私たちが困難や問題の中に陥ると、荒れ果てた乾いた地のような心は激しい痛みと苦しみを感じ始めます。しかし、そこで聖霊の力を受けるならば、その苦しみはやわらぎ、平安の中へと導かれます。ですから、イエス様を救い主として信じて聖霊を受けてください。私たちは聖霊の力を受けてその痛みと苦しみを乗り越えて行くことができるのです。そして、ただ乗り越えるだけではありません。その時、私たちは実を結び収穫を体験するのです。その時、大切なことは、イエス様に心を向けて、イエス様を信じて、イエス様に従い続けることです。聖霊はイエス様を信じる者の中にあって、必ず、乗り越えることのできる力と助けと導きを与えてくださいます。

■「わたしを信じる者は、聖書が言うとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」ヨハネ7:38のことばです。この水は、この地上であなたを最善の計画へと導き、あなたを活かすことのできる水です。さらに、この地上の営みが終わった後にも、永遠にあなたを生かすことのできる水なのです。それは、イエス・キリストが私たちにまことの命を与えるために、十字架の上で私たちの罪の償いを代わりに支払ってくださったので与えられた水、聖霊の恵みと力によるものなのです。どうか、イエス・キリストが十字架の上で、あなたのために、ご自身のいのちを捨ててなされた救いのみわざを、ぜひ信じて受け取っていただきたいと思います。それではお祈りします。