イエス様が何とかしてくださる!

2020年9月27日主日礼拝「イエス様が何とかしてくださる!」ヨハネ2:1~5 佐々木俊一牧師

■1節~2節 「それから三日目」とありますから、前の文脈を見るならば、この出来事がガリラヤ地方でイエス様がペテロやヨハネたちを弟子として召し出して間もない頃の事であったと思われます。

 カナと言う町で婚礼がありました。カナはイエス様の育ったナザレからガリラヤ湖に向かって10キロくらい北東にあった町です。このカナの婚礼の話はとても有名な話です。水がぶどう酒になったと言う奇蹟は、イエス様の最初のしるしとして現わされた奇蹟でした。イエス様の母、マリヤの親類がカナにいたのかもしれません。そこで行なわれた婚礼にマリヤが招かれ、そして、ついでだったかどうかわかりませんが、イエス様と弟子たちもその婚礼に招かれました。このヨハネの福音書の著者、ヨハネ自身も招かれたのでしょう。

■ここで、ユダヤの習慣として結婚式がどのようなものであったのか、少しお話をしたいと思います。ここには、「婚礼」とありますが、これが、婚約式だったのか、それとも、結婚式だったのか、確かなところはわかりません。ユダヤの習慣として、当時、婚約式があり、そして、結婚式がありました。婚約式も結婚式も、1日では終わりませんでした。数日間続いたようです。この箇所の婚礼もまた、1日だけで終わったとは考えられません。ですから、式の途中、ぶどう酒が無くなったとしても不思議ではありません。しかし、ぶどう酒は式を進めていく上でなくてはならないものです。ですから、ぶどう酒が式の途中でなくなることは、一大事なのです。こんなに大切な婚礼の場でこのようなことが起きることは新郎の家の側としては面目が立ちません。結婚式には本当にいろいろとハプニングがつきものです。しかし、ここで、マリヤが立ちあがりました。イエス様が何とかしてくださる、と思い立ったのでしょう。

■話はそれますが、ふり返ると、私たちの結婚式においても想定外のことが起こりました。けれども、そのおかげで、神様の守りと助けを体験することができました。そして、結婚式も新婚旅行も大変祝福された結果となりました。神様が働いてくださり、いろいろな局面で何とかしてくださったことを思い出します。皆さんの中にも同様の思いを持たれている方がいるかもしれません。

(結婚式前日と結婚式当日の奇蹟の話をする)

■3節 イエス様が何とかしてくださる、という信仰は、皆さんお持ちでしょう。イエス様への信頼、イエス様への期待を皆さんお持ちのことと思います。イエス様が何とかししてくださるという信仰は、とても大切です。

 マリヤにはその信仰がありました。イエス様が誕生する前からマリヤは神様のことばと奇蹟によって導かれてきました。そんなマリヤにとって、このような窮地に至っては「神様から授かった奇蹟の息子、イエスなら何とかしてくれる」という信仰が湧き上がって来たのではないでしょうか。マリヤは、この大事な時にぶどう酒がなくなってしまったことをすぐイエス様に伝えました。「ぶどう酒がありません。」この現実をマリヤはイエス様に伝えただけで、具体的には何もお願いしてはいません。当然、マリヤには水をぶどう酒に変えるなんてことまでは思いつかなかったでしょう。けれども、イエス様なら何とかしてくれるに違いないと思ったのではないでしょうか。

■4節 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」イエス様はマリアに言いました。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。」なんて冷たい応答だと思いませんか。確かに、イエス様は聖霊によってお生まれになったお方ですから、マリヤと血縁関係はありません。しかし、そうだとしても、幼子の時から面倒を見てきたマリアにとってあまりにも冷たいことばに聞こえます。たぶん、この日本語訳には説明が必要なのだと思います。結局、これは何を言っているのかと言うと、「あなたの関心はわたしとどのような関係があるのか。」です。つまり、マリヤの関心とイエス様の関心は違っているのです。マリヤはこの婚礼で接待係か何かをしていたのでしょう。そんなマリアにとってぶどう酒とは、婚礼になくてはならないものであって、それがなくなってしまったという現実を何とかしなければならないということがこの時のマリアの一番の関心事なのです。しかし、イエス様にとってのぶどう酒とは、人の罪のために流される血の象徴であり、最後の晩餐でのぶどう酒を意味しているのです。それは、イエス様の「わたしの時はまだ来ていません。」ということばに表されています。

 最後の晩餐のところを思い起こしてください。マタイ26:26~29です。このところは、イエス様と弟子たちの間で明らかに契約を交わしているところです。おもしろいことに、ここではイエス様はぶどう酒を飲んでいません。ぶどう酒を飲んでいるのは弟子たちだけです。29節でイエス様はこのように言っています。「ただ言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造ったものを飲むことはありません。」どうして、イエス様は、ここでぶどう酒を飲まないのでしょうか。どうして、イエス様は、このところではぶどう酒を飲まないけれども、神の御国で再び弟子たちと会う時にはぶどう酒を飲むのでしょうか。イエス様にとって、もう一つ、ぶどう酒が意味していることがこのところからわかります。

 皆さんは、教会はキリストの花嫁であるということを聞いたことがありますよね。教会はキリストの花嫁なのです。男でも女でも、イエス・キリストを信じている者はみなキリストの花嫁なのです。先ほど、ぶどう酒は婚約式でも結婚式でも欠かすことのできないものであるとお話ししました。そこで、婚約式では花嫁はぶどう酒を飲んでも、花婿はぶどう酒を飲まないそうです。さらに、花婿は結婚式までぶどう酒は飲まない習慣があるそうです。最後の晩餐でイエス様は、その時から父の御国で再び会う時までぶどう酒を飲まないと言っています。そのことを考えると、最後の晩餐の約束事は婚約式のようなものではありませんか。クリスチャンはみなイエス様と婚約関係にあるようなものです。

 次に、ヨハネ14:2~3を見てください。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいるところに、あなたがたをもおらせるためです。」婚約式を終えた花婿と花嫁はそれぞれに結婚の準備にとりかかります。花嫁は花婿の家に行くために花婿から受けたお金や物を用いて準備をします。花婿は花嫁を迎えるために住む家を整えて準備します。そして、花婿の方の準備が整うと使いを出して花嫁を自分の家に迎えるのです。いつ花嫁を迎えに行くのかを決めるのは花婿自身ではなくて、花婿の父親が決めるということです。

 イエス様はご自身を救い主として信じる者たちのために、神の御国に住まいを備えてくださっています。そして、備えたなら信じる者たちをイエス様のもとに迎えてくださると約束してくださっています。そこでは、マタイ22章や黙示録19章にあるように、小羊(イエス・キリスト)の婚宴、祝宴の時が始まるのです。イエス様はそこでぶどう酒を皆と一緒に飲むのだと言っています。ユダヤの婚礼の習慣を知った上でこれらのところを読むと、イエス様の言ったことや行なったことの謎が明らかになって来ます。

■5節 4節のイエス様のことばはマリヤにとってけっして冷たく感じることばではありませんでした。またイエス様ご自身も意地悪のつもりでマリヤにあのような言い方をしたのではありません。かえって、このイエス様のことばはマリアにとって心に留めておくべきことばであると感じさせたと思います。このときのイエス様のことばは確かにマリヤの信仰をかきたてるものであったのではないでしょうか。その証拠に、この後マリヤは手伝いの人たちにこう言いました。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」これこそがマリヤの信仰的な対応です。どのような方法でぶどう酒を備えてくれるのかわからないけれども、イエス様は何とかしてくれるという信仰がマリヤにはあったのです。そして、信仰において大切なことは、自分の考えにとらわれないことです。自分の考えに固執しないことです。そんなことやっても無駄だと思ったり、従うことに自分のプライドが許さなかったり、それらのことは信仰の妨げです。神様に対して心から願うならば、自分を低くして必死になって何でもやってみることです。

■聖書には、イエス様が何とかしてくださるという信仰の人々がたくさんいます。私たちもその一人になりたいと思います。イエス様が何とかしてくださると言う信仰を持ちましょう。

 私たちはキリスト教を信じているのではありません。私たちはキリストを信じているのです。私たちがキリスト教ではなくてキリストを信じているならば、そこには必ず、キリストとの関わりや交わりが必ずあります。キリスト教の教えだけを信じていても、そこにキリストとの関わりや交わりがなければ、何の意味もありません。ですから、祈りましょう。そして、神様に願いましょう。願って、それで終わりではありません。神の御心に、そして、導きに従いましょう。必ず、何かが変わって行きます。たとえ時間がかかったとしても、必ず神様の御心のとおり最善の形へと変わって行きます。イエス様が何とかしてくださる!と言う信仰をもって進んで行きましょう。それではお祈りします。