私は新しくされた!だから・・・

2020年8月23日主日礼拝

「私は新しくされた!だから・・・」コロサイ3:7~12 佐々木俊一牧師 

■私が20代か30代の頃でしょうか。アメリカ人と日本人についてこんな話を聞いたことがあります。アメリカ人はセルフイメージが高い、それに比べて、日本人はセルフイメージが低い。少々、ステレオタイプ的な見方かもしれませんが、私はその話を聞いて納得するところがありました。実際には、アメリカ人にも日本人にもいろいろな性格の人がいます。しかしながら、その時は、アメリカ人はセルフイメージが高いので、自分を上手にアピールすることができる。それに比べて、日本人はセルフイメージが低いので、自分を上手にアピールすることができない、どうしても実際よりも控えめになってしまう、そんなところが確かにあると思いました。セルフイメージの高い、低いは、たぶん、子ども時代に受けた親の態度や言葉の影響が大きいのではないかと私は思っています。

  しかし、1986年に「新人類」ということばが新語・流行語大賞に選ばれた頃から、若い人々がそれまでの日本人とは異質な人々であることがよく話題になったのを覚えています。日本人も経済的に豊かになり、海外の多様な文化や価値観に触れる機会も多くなり、それによって日本人が変わって来たのだと思います。子育てに関して言うと、アメリカ的な価値観に立った育児法が、良いものも悪いものも日本に導入されて、定着してきました。現在に至っては、自己アピールもうまくなってきていますし、昔ほどセルフイメージが低いということもありません。

■学生の時、初めて、アメリカ人宣教師に会いました。大学の英会話の先生でした。とても明るく、いつもにこにこしていて、気さくで話しやすい人でした。その時、彼は50歳くらいだったと思います。同年代の日本人にはあまり見ないタイプでした。その人の名前は、ウェスリー・カルバリと言いました。フリーウィルバプテストの宣教師で、20代と30代は道東の開拓伝道に従事し、いくつかの教会を作りました。その後、札幌に来て愛隣チャペルという教会を開拓しました。出身は、アメリカのテキサスにある、ウェイコという小さな町で、いわゆるバイブルベルト上の信仰熱心な地域で生まれ育ちました。奥さんはアーカンソー出身の宣教師で、エイリーン・カルバリと言いました。

  カルバリ先生は、学生の間では人気者でした。愛称は、オヤジです。みんなからオヤジと呼ばれていました。歌とオートハープがとても上手でした。料理も上手でした。私はカルバリ先生から、パンチの作り方を教えてもらいました。腹話術もうまかったです。名前はカリちゃんと言いました。カリちゃんと一緒に、子供たちに福音を伝えていました。若者たちへの重荷があって、毎年のように教会に多くの教え子をハンバーガーパティーに招待していました。伝道方法については先見の明があったと思います。日本でも早い時期から新しい音楽スタイルや食べ物を取り入れていました。

■私はカルバリ先生から多くのことを学ばせてもらいました。主にあって喜ぶこと。主にあって明るく生きること。主にあって人と楽しく過ごすこと。主にあって人を喜ばすこと。人生に対して肯定的で積極的で楽観的な姿勢。プライベートなことで大変なことがあってもそれは主にゆだねつつ、宣教に対しては常に一生懸命でした。その反面、宣教師としての働きゆえに長い間祖国を離れていたためか、ふと思う家族への思いと寂しさと涙を見せたことがありました。もちろん、人間ですから、弱さもあり、欠点もあり、失敗もあったと思います。私にとっては、大きな影響を受けた人物の一人でした。

  聖書を見てみましょう。今日は、コロサイ人への手紙3章からお話ししたいと思います。パウロが獄中で書いた手紙の一つです。コロサイという町は、現在のトルコ西部、世界遺産のパムッカレの少し南に下ったところにありました。

■7節 「そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました」とはどういうことでしょうか。5節を読むと、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、むさぼり、偶像礼拝といったことばが並んでいます。このようなことが当時、特に悪いという認識もなく、当たり前のように行なわれていたのでしょう。コロサイの教会の人々の中にもそれと同じ歩み方をしている人々がいたのだと思います。どんなに文明や科学が進歩していたとしても、人のすることは今も昔も変わりがないようです。

■8節 「しかしいまは、あなたがたも、すべてのこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい」とパウロはコロサイの教会のクリスチャンに言っています。それは、何を意味するかというと、クリスチャンになっても、以前と同じようなことをしている人々がいたということです。5節に書かれている行為ほどではなくても、それに近いことが行なわれていたということです。その結果、クリスチャン同士の間に、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべきことばが生じ、問題が起こっていたのだということが考えられます。クリスチャンになってから、人々の状態は以前よりは良くなっていたのだとは思います。けれども、さらにもっと、神様に喜ばれる生き方をコロサイの教会のクリスチャンに対して、パウロはチャレンジしました。

  このようなことは他人ごとではありません。私たちの問題でもあるのです。このようなことで、教会から多くの人々が去り、立ち行かなくなってしまった教会がたくさんあるからです。もし教会の中に、怒りや憤り、悪意やそしりが生じてしまったのなら、そして、それが長い間続いたとしたら、その教会は非常に危険な状態に陥っていると言えるでしょう。クリスチャンになる前の古い性質はだれもが持っているものです。私はクリスチャンになって40年になりますが、いまだに古い性質があります。本当にしつこいです。そのような古い性質は、時として人の心を傷つけたり、教会にダメージを与えます。ですから、私たちはそのようなことに振り回されることなく、コントロールすることができるようにしなければなりません。

■私の体験からお話ししたいと思います。私がクリスチャンになって間もない頃というのは、まだまだ、古い性質が活発に働いていた時代です。その頃の私の体験です。自分では気づきませんでした。指摘されて初めてこれではいけないと思わされました。私としては悪いことだという意識がまったくありませんでした。それどころか、かっこいいと思っていました。以前にもお話ししましたが、私はビートルズの大のファンでした。特に、ジョン・レノンが大好きでした。彼の先進的な思想にどっぷりつかっていました。彼らのレコードや本はほとんど持っていました。彼らの皮肉たっぷりの言い方や常識や体制側に対する反骨精神がかっこいいと思っていました。私は彼らから大きな影響を受けました。そのために、私の態度やことばづかいには十分に人の心を傷つける力があったのだと思います。

  ある日、私はカルバリ先生から言われました。「佐々木君をほめてもそれを否定されるし、話しかけてもちょっと話したらすぐにそっぽ向かれるし、何か言ったら反対の事を言うし、話しかけるのが恐いので話しかけられない。自分は嫌われているのかなと思わされることがよくある」と。何か腫れ物に触るような感じで私に接していたようなのです。私は逆に、「カルバリ先生は私のことを好いていないだなあ」と思っていました。私はカルバリ先生からこのようなことを言われて、初めて自分の態度やことばづかいに問題があることに気づかされました。はっきり言ってくれてよかったと思いました。その時から、自分の態度やことばづかいについて考えるようになりました。そんなこともあって、私は、私の古い人を形作っていたビートルズを私の心から捨てることにしました。集めたレコードや本を手放すことに決めました。捨てるのはもったいないので売ることにしました。10万円くらいで売れました。

■9節 「互いに偽りを言ってはいけません」とパウロは言っています。互いに偽りを言うということがどういうことを指しているのか、具体的なことはわかりません。ただ、言えることは、クリスチャンはお互いに誠実であるべきだと思います。軽んじたり、裏切るようなことをしてはいけません。それにしても、コロサイのクリスチャンはなんて程度の低い信仰生活を送っていたのだろうかと思ってしまいます。しかし、それでも、神様に愛されているクリスチャンなのです。だからこそ、パウロは、はっきりと彼らの罪を指摘しているのです。パウロの指摘は、けっして、彼らを叩き潰すことではありません。彼らを教会から追放するためでもありません。彼らがクリスチャンとして建て上げられるために指摘しているのです。

■10節 「新しくされる」ということには、2重の意味があると思います。一つは、イエス・キリストを救い主として受け入れ、御霊(聖霊)によって新しく生まれるということです。ヨハネの福音書3章(パリサイ人ニコデモのお話)やⅡコリント5:17に書かれていることがそれです。これは何かの働きに対して与えられる報いではなくて、信じることによって与えられる恵みです。その人は、神の子とされ、永遠の命を与えられ、神の御国に導かれています。

  もう一つは、この地上においても、新しくされることです。御霊によって新しく生まれた者はそれにふさわしい人を身に着けるべきです。まずは、9節にあるように、古い自分をその行いとともに脱ぎ捨てることです。どういうことでしょうか。それは、私たちは御霊によって新しく生まれても、まだ内に古い罪の性質があるのです。自己中心、ねたみ、憎しみ、怒り、憤り、悪意、意地悪、誹謗・中傷、悪口、不平・不満などなど。しかし、その古い性質があってもその性質から離れ、それを実践しなければ、その古い性質は徐々に力を失って小さくなっていくのです。それが、古い人をその行ないと一緒に脱ぎ捨てるということです。そして、次にすることは、造り主がどのようなお方かを知るということです。その性質が私たちの新しい人が着るべき新しい性質であり、行ないです。神様はどのようなお方ですか。12節にその一部が書かれています。深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさいとあります。先ほどは古い性質を実践しないことでした。今度は、造り主の性質、新しい性質を実践することです。

  私たちは新しくされました。だから、イエス様を模範とし、良き性質と行ないを身につけていきましょう。同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を態度やことばや行ないを通して実践したいと思います。

■イエス様は私たちの良き模範者であり、良き助言者です。イエス様は私たちにけっして完全を求めてはいません。ですから、私たちは間違っても安心できるのです。パリサイ人や律法学者たちは自分たちができていないことを人々には要求し、しかも、完全を求めていました。しかし、安心してください。イエス様はそんなやり方はしません。イエス様は私たちが前向きにチャレンジすることを望んでいますが、しかし、完全であることを求めてはいません。イエス様は私たちが完全に出来ると最初から思っていません。だからこそ、イエス様が必要なんだということを私たちに知ってほしいのです。

  私たちが気をつけなければならないことがあります。それは、私たちがパリサイ人や律法学者のようにならないことです。自分ができないことを人に求めてはいけません。誰も自分に対して同情も愛も謙遜も柔和も寛容も示さないからと言って、もしもそれを批判するとしたら、それは、律法的なやり方に陥っているのです。聖書のことばは他人に向けるのではなく、自分に向けて適用するのが基本です。まずは、自分が神様の喜ばれる歩みをしているかどうかを見るための量りとして用いるのです。そして、私たちが聖書のことばに従うなら、私たちはますますキリストの姿へと変えられていくのです。

■私たちは新しくされた者です。だから、私たちは古い人を行ないと共に脱ぎ捨てて新しい人を行ないと共に身に着けましょう。古い人は私たちの内にあって古い人の行いをさせようとしますが、私たちは古い人に従う責任はありません。古い人には従わなくてよいのです。その代わりに、新しくされた者にふさわしいことばを語り、新しい人にふさわしいふるまいをしましょう。私たちの内にはキリストの霊である聖霊が住んでいるので、私たちにはそれができるのです。聖霊の力と導きによって、私たちの主であり、良き模範者であるイエス様に習って進んで行きましょう。それではお祈りします。