イエス様の聖書の見方から学ぶ

2020年7月26日 主日礼拝 

「イエス様の聖書の見方から学ぶ」ルカ11:29~32 佐々木俊一牧師

■2016年3月13日に「ヨナ書に見えるイエスの姿」というタイトルでお話をしたことがあります。そのときは、マタイ12:31~41のところからお話をしました。今日は、ルカ11:29~32をとおして、「イエス様の聖書の見方から学ぶ」と題してお話をしたいと思います。

 このヨナのお話については、マルコの福音書とヨハネの福音書にはありません。マタイの福音書とルカの福音書にあるお話です。マタイの福音書に書かれているものとルカの福音書に書かれているものはほとんど同じですが、その前後に多少の違いがあります。たとえば、イエス様がこのヨナの話を語り始める状況説明がマタイの福音書とルカの福音書では異なっています。マタイでは、パリサイ人や律法学者とのやりとりの中で語り、ルカでは、群衆の数が増えてくると、語り始めたとあります。たとえ、同じ状況だったとしても、その状況を見ている人によって印象の受け方やその説明の仕方に違いがあってもおかしくはありません。

 また、イエス様が語ったお話は1回限りのものではなかったと思います。イエス様の3年半の公生涯の中で、いろいろな状況の中で同じ話を何度もしたのではないかと私は思います。大切な話は何度も繰り返して弟子たちに語ったとしても不思議はありません。福音書で語られているイエス様のお話は弟子たちを初め、周囲の人々の記憶に残るためには、何度も語られ何度も聞かれる必要があったのではないでしょうか。それを言い訳にして、私も大切と思うことについては何度も語りたいと思います。

■29節 「しるし」とは何でしょうか。注釈を見ると、「証拠としての奇跡」と書いてあります。イエスが本当に神から遣わされている者なのか、あるいは、イスラエルを救うメシヤなのか、それを証明する天からのしるしです。マタイ12:38を見ると、特に、パリサイ人や律法学者などの宗教家たちはイエスにそんな天からのしるしを求めました。しかし、イエス様は知っていました。たとえ、彼らがそのしるしを見たとしても信じません。イエス様が言うには、ヨナのしるしの他には、しるしは与えられないのです。と言うことは、預言者ヨナに、イエスが神から遣わされているのか、あるいは、イスラエルを救うメシヤなのかを証明する鍵があるのだと思われます。

■30節 ヨナが、ニネべの人々のためにしるしとなったとあります。そして、人の子(イエス)がこの時代のしるしとなるのだと言っています。イエス様は、非常に謎めいたことを言っています。どいうことなのでしょうか。ヨナ書にそのヒントがありそうです。ヨナ書を見てみましょう。

■ヨナ1章 ヨナは北王国(イスラエル王国)の預言者でした。紀元前800年頃の人です。預言者エリヤやエリシャが活躍した後、出て来た預言者です。ヨナの後からは、預言者イザヤが続いています。

 皆さんは、預言者ヨナにどのような印象を持っているでしょうか。良い印象でしょうか、それとも、悪い印象でしょうか。身勝手で不従順な預言者というイメージがあるかもしれません。でも、Ⅱ列王記14:25を見るならば、そんなことはないようです。北王国において、ヨナは預言者として忠実に神様に仕えていました。しかし、当時の北王国も南王国も人々は真の神様に背いて偶像の神々に心を奪われていました。王様も民衆も預言者ヨナの声に耳を傾けようとはせず、行ないを改めようとはしませんでした。にもかかわらず、神様のイスラエルへのあわれみ深さや恵み深さを見ることがありました。いつまでも裁きを先延ばしにしている神様に対して、ヨナは不服だったのではないでしょうか。ヨナは預言者として忠実に神様に仕えていました。それゆえに、ヨナは自分のしてきたことが無駄であったと感じたのではないでしょうか。ヨナがこんなにも一生懸命になって警告しているのに人々は聞いて従おうとしません。それなのに、どうして神様は彼らをすぐにも罰しないのだろうか。ヨナはそのように思ったかもしれません。このような時、人は疲れてしまい、否定的になり、無力感で何もかもあきらめてしまいます。聖書を見ると、預言者と言うのはいつの時代でもひどい扱いを受けて来ました。ある者は、神様からのメッセージを忠実に語ったために、人々からひどい目にあわされました。時には殺されてしまいました。そのように扱われることが、預言者の宿命みたいなものでした。本当に割に合わない仕事だったのです。

 そんなヨナはある日、神様からあるミッションを受けました。「ニネベに行って、人々の悪行があまりにもひどいので、町を滅ぼすと警告しなさい。」 ニネベは当時、アッシリヤ帝国の首都でした。そこには、12万人以上の人々が住んでいました(ニネベの位置:チグリス川流域にあった町、現在のイラク北部のモスルの近く)。ヨナはこのミッションについて、あまり乗り気ではありませんでした。はっきりとその理由は述べられていませんが、ヨナとしては、ニネベが滅ぼされてしまう方がよかったようです。たぶん、ヨナは、異邦人が嫌いだったのでしょう。あるいは、アッシリヤの勢力が強くなってきていたためかもしれません。実際に、ヨナの時代から約50年後には、アッシリヤによって北王国は滅ぼされてしまいました。預言者ヨナとしては、将来の侵略者アッシリヤのことを脅威と感じていたのかもしれません。

 今回、ヨナ4:1~2を読んで思わされました。ヨナはこう思ったのではないでしょうか。どうせ、自分がニネべの人々に警告したとしても、彼らはその警告に従わないし、行いを改めたりはしないだろう。警告しても、それは無駄なことである、と思ったのかもしれません。イスラエルの北王国の人々と同じです。また、しかし、もしも、彼らが警告に従ったとしたら、あわれみ深い神様は彼らを罰することを思いとどまってしまうかもしれない。そうなったら、それこそイスラエルにとって大変なことになる、と思ったのかもしれません。

 最初、ヨナは神のことばに従いませんでした。ヤッフォでタルシシュ行きの船に乗りました。タルシシュはニネベとはまったく反対方向にありました。すると、嵐が起こって船は今にも難破寸前の状態になってしまいました。水夫たちは恐れて、自分たちの神々に助けを求めました。困ったときの神頼みです。でも、嵐はおさまりません。この嵐の中、なぜかヨナだけは余裕がありました。船底におりて横になってぐっすり寝込んでいたのです。ところで、みなさん、このシーンを新約聖書のどこかで見たことはありませんか。嵐の中、イエス様の弟子たちは恐れで震えあがっていたのに、イエス様だけは船底でぐっすり眠っていたのです。私が思うには、このヨナの箇所を知った弟子たちは、たぶん、あの時のイエス様の姿と重なるところがあったのではないでしょうか。

 この船の船長は、ヨナがイスラエルの預言者であることを知っていたようです。起きて、神様に助けを求めるように言いました。誰のせいでこんなことが起こったのか、みんなで相談してくじを作りました。そうすると、ヨナに当たってしまいました。その後の展開について簡単に言うと、ヨナが天と地の創造主である神を信じていること、神様の命令に逆らってこの船に乗り込んだこと、そして、この嵐がヨナのせいで起こったことが、明らかになってしまいました。そして、ヨナを捕らえて海に投げ込めばこの嵐は静まると、ヨナ自身が人々に言いました。人々はヨナを死なせたくなかったので、何とかして船を陸に戻すために一生懸命に漕ぎました。しかし、駄目でした。このままでは全員が死んでしまいます。ついに彼らは決断し、ヨナが言ったように、ヨナをかかえて海に投げ込みました。そうすると、海は激しい怒りをやめて静かになった、とあります。ヨナ以外、船に乗っていた人はみな死なないで救われたのです。その結果、人々はヨナの神を非常に恐れました。そして、ヨナの神を信じたのです。

 ここに見るように、ヨナの言動によって救いの働きが起こっていました。しかし、海に放り出されたヨナは、三日三晩大魚の腹の中に飲み込まれて苦しむことになります。ヨナは大魚の腹の中で死の苦しみを味わいました。そして、ヨナはそこから救われたいと願ったのです。その願いは聞かれました。三日三晩の苦しみの後に、ヨナの命は守られて、大魚の腹の中から吐き出されました。それからヨナは、神様に従ってニネベに行き、ニネベが残り40日で滅ぼされることを警告しました。そうしたら、ニネベの人々みなは、必死になって悪い行いを悔い改めました。そして、真の神様を信じたのでした。

 こうして見てみると、ヨナはイエス様のことを表している人物であることが見えてくると思います。弟子たちにとってこの箇所は、イエス様から何度も聞いた箇所ではなかったでしょうか。イエス・キリストの十字架と復活と救いとを思い起こさせるところであったと思います。けれども、イエス様がこの地上にまだおられた時には誰一人としてこのことを理解した者はいませんでした。

 ヨナが船に乗っていた人々を救うために荒れた海に投げ込まれたように、イエス様はすべての人を救うために十字架にかけられて死にました。しかし、ヨナが三日三晩の後に、大魚の腹の中から出て来たように、イエス様はよみ(ハデス)、つまり、死から三日目によみがえられたのです(使徒2:27、31、使徒13:34、その他)。ヨナがニネべの人々に40日間にわたって、神のことばを宣べ伝えたように、イエス様は復活して後、40日間にわたって、弟子たちの前に現れてこれから起こることや神の御国のことを宣べ伝えたのです。ヨナに起こった出来事やそれに関わる数字などは、イエス様の十字架の死と復活、それに関わる数字を思い起こさせるものです。

■ヨナは、ニネべの人々のための、神の救いのしるしでした。そして、イエスは、イエスの生きていた時代の人々のための救いのしるしであり、また、全人類のための救いのしるしとなったのです。ヨナは、全人類を実際に救うことのできるお方、救い主イエス・キリストを表しています。ヨナという人とその出来事をとおして、本物の救い主とその救いをとらえることができるのです。ルカ11:29にあるように、イエスが本物の救い主かどうかを見分けるためのしるしとして、ヨナのほかには与えられていないと言うことです。

 ヨナが嵐の海に投げ込まれると海の激しい怒りはおさまり、船に乗っている人々の命が助かったように、イエスが死ぬ(よみに投げ込まれる)ことによって、罪に対する神の怒りはおさまり、すべての人々の霊的な命はその信仰によって助かることになりました。ヨナが三日間大魚のお腹の中にいたことが、イエス様が三日間地の中、つまり、よみの中にいて三日目によみがえられたことを表していると言えます。ですから、「ヨナのしるし」とは、イエス・キリストの十字架と復活を表しているのです。イエス・キリストの十字架と復活が、人類に与えられた神の救いのしるしなのです。

■終わりに、ルカ24:44~47を見てみましょう。さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

 イエス様が弟子たちと共に過ごした3年半の間に、旧約聖書を教えたはずです。そして、この箇所を見ると、イエス様の旧約聖書の見方を学ぶことができると思います。皆さんは、ルカ24:46に書かれていることばをそのまま旧約聖書の中に見つけたことがありますか。「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」旧約聖書のどこにこのようなことが書かれているでしょうか。私はこのようなことばを見つけたことがありません。

 これは、旧約聖書全体を総合的に見て、旧約聖書が人間に伝えようとしているメッセージのエッセンス、福音の中心部分です。イエス様は神様ですから、神様の視点から旧約聖書をとらえたときの結論がここにあるのだ、と私は思います。

 今日は、ヨナ書をとおして、イエス様の聖書の見方を学ぶことができました。ヨナ書に限らず、私たちは旧約聖書の中にイエス様の姿をいろいろなところで見ることができます。イエス様の見方で旧約聖書を見るとき、救いのことばの確かさをもっと強く受けとめることができると思います。

 みなさん、ぜひ、4つの福音書を読んでください。そして、特に、イエス様が語っている部分に注意してください。イエス様が旧約聖書から引用しているところがあったら、ぜひ、旧約聖書を開いてそのところを読んでみてください。そして、そのところを、祈りつつ思いめぐらしてみてください。何か新しい発見があったら、お互いに分かち合いたいと思います。それではお祈りします。