信仰者としての自立

2020年7月12日主日礼拝「信仰者としての自立」ローマ14:4 佐々木俊一牧師

■今日は「信仰者としての自立」というタイトルでもってお話しをしたいと思います。私は、今日の説教箇所のあるローマ人への手紙14章を読んで、信仰者としての自立への招きを感じました。まず、14:1~3を読むと、食べて良いものと食べてはいけないものについての意見の相違が、互いに裁き合う原因になっていることがわかるかと思います。このような問題はローマの教会に限られたことではなくて、コリントの教会にもあったことがパウロの手紙からわかります。

  Ⅰコリント10章を見ると、市場に売っている肉のことが取り上げられています。市場ではよく偶像にささげられた肉がそうでない肉と一緒に売られていたので、偶像にささげられていたのかどうかをはっきり判別のできないような肉を買って食べるのは良くないと言う人と、そんなの気にしないで食べても特に問題はないと言う人がいたようです。そして、自分の考えが正しいのだと互いに主張し合い、互いに裁き合うことがあったようです。

  このことについてパウロはどのように考えていたのでしょうか。問題なのは、偶像にささげられた肉を食べるとか食べないとかよりも、互いに自分の考えの正しさを主張することによって、少々考え方の違う相手を否定し同じ信仰者として認めようとしない人々の心のあり方です。偶像にささげた肉を食べる・食べないよりも、主にある兄弟姉妹を失うことの方がずっと重要なことのはずです。

  イエス・キリストを信じる私たち一人一人がみな神様によって選ばれた者であることを覚えるべきです。私たちクリスチャンは今、天の御国に向かっている途中です。途中にある私たちですから、見たところはまだまだ中途半端な状態、欠けのある状態です。ですが、私たちは天の御国に向かって歩みながら、その信仰によって変えられつつある仲間でもあります。互いにそのことを認め合い、尊重し合いたいと思います。 

  さらに、その人が一人のクリスチャンとして立つことは、私たち人間が決めることではありません。神様が決めることです。なぜならば、神様は私たちみなの主人であって私たちはみな神様のしもべだからです。神様だけがそのしもべを立たせることも倒すこともできるお方なのだ、とローマ14:4に書いてあります。私たち人間には、人を裁いて倒す権限はありません。

■次に、ローマ14:5を見てみましょう。当時、ローマは国際都市でした。ですから、ローマの教会には、ローマ人もいれば、ギリシャ人やシリヤ人もいました。そして、ユダヤの慣習をよく知っていたユダヤ人もいました。たとえば、ユダヤの慣習によるならば安息日は土曜日ですから、土曜日が特別な日であると思っていたでしょう。けれども、イエス様がよみがえられたのは安息日の次の日、つまり、日曜日でした。また、それから50日後、聖霊が下られたペンテコステの日も安息日の次の日、日曜日でした。その意味で、日曜日が特別な日と考える人々もいたでしょう。しかしまた、土曜日でも、日曜日でも、何曜日であっても、主を礼拝することには変わりはないのだから、どの日であっても同じだと思っていた人もいたでしょう。

  私たちにとって特別な日はあるでしょうか。イースターやクリスマスは特別な日ですね。ペンテコステも特別な日です。そして、毎週、日曜日になると私たちは共に集まり礼拝の時を持ちます。私たちにとって日曜日は特別な日です。しかしながら、現代においては、日曜日が休日でないために、日曜日の礼拝に出席できないクリスチャンはたくさんいてもおかしくありません。もしかしたら、そのような方々のために、日曜日以外に礼拝を行っている教会があるのかもしれません。礼拝は、必ずしも日曜日でなければならないと考える必要はないと、私は思います。

  コロナの事があってから、教会に来ることが難しい方々のためにオープン・ドア・チャペルでもオンライン礼拝が始まりました。これもまた、神様の導きであると感じているところです。現在のコロナの状況の中、健康上の理由やいろいろな事情によって、またそれぞれの判断によって、オンラインでの礼拝出席を選択しておられる方々がいます。会堂に来て礼拝に出席する人もオンラインで出席する人も、他人に言われたからではなく、それぞれに、祈って、考えて、納得した上での選択であると思っています。ローマ14:5の後半に、「確信を持ちなさい」とあります。祈って、あるいは聖書を読んで、考えて、納得して、確信をもって行動することは、信仰者として自立することです。そして、私たちは自分の選択と行動については神様の導きであることを信じて、進んで行く者でありたいと思います。

■ローマ14:6を見てみましょう。 自立するクリスチャンは、神様への感謝の心を持つ人々でもあります。もちろん、神様に感謝の心を持つ人々は、人への感謝の心も忘れてはいません。彼らは神様のみこころを求め、神様のみこころに従う人々です。そして、彼らは確信と感謝をもって行動するのです。でも、6節を読むと面白いですね。ある人は主のために(偶像にささげられたものかもしれないので)肉を食べないことを選びます。また、ある人は主のために(偶像にささげられたものかどうかを気にせずに)肉を食べることを選びます。そして、両者ともに主に感謝しているのならそれでよいと言うのです。どちらかが正しくて、どちらかが間違っていると言うことではないようです。  

  基本的に私たちクリスチャンは、何をするにも主が喜ばれることを選び、そして、感謝して行なうのです。どちらを選ぼうとも、私たちは祈って、考えて、主のためによしとした選択を疑わずに行なうのです。神様が私たちに許している自由の範囲は、私たちが考えている以上に広いのかもしれません。しかしながら、これは明らかに悪い事であると判断することについては、私たちはけっしてやってはいけません。もしもやってしまったら、神様のみ前にその罪を言い表しましょう。このように、自立するクリスチャンは、神様のみこころであると信じていることを、感謝の心をもって行います。

■ところで、みなさんは、神様のみこころや導きは、常識の範囲だと思いますか、それとも、常識の範囲を超えて、突飛なことであると思いますか。私は、よほどのことがない限り、神様は常識的な範囲で導かれる、常識的な判断を大切にされる、と信じています。常識的でない場合は、よほどのことがある時だと、私は自分の経験からそのようにとらえています。

  たとえば、主の晩餐式について考えてみましょう。主の晩餐式はクリスチャンにとって主イエス・キリストの十字架のみわざとその救いを思い起こすためにとても大切な礼典です。しかし、主の晩餐式は飲食を伴う行為なので、現在のようにコロナ感染の危険がある中では、何としても主の晩餐式をやらなければならないと言うような導きを神様はしない、と私は考えます。もしも、このような中で危険を冒してまで主の晩餐式を導くとしたら、何か特別な理由があるに違いないと考えます。その時は、たとえ危険があったとしても、主の晩餐式を執り行うことでしょう。しかし、そのような時には、必ず、神様からの平安があって、神様が安全にそのことをなさせてくださると言う確信が与えられると思います。平安もなく、確信もなければ、それは絶対に行うべきではありません。

  自立するクリスチャンは、神様から来る平安と確信に導かれて行動します。そして、その導きがどのようなものであっても、感謝の心をもって行います。

■Ⅱテモテ3:16を見てみましょう。聖書はすべて神の霊感によって書かれたものであることが書かれています。聖書というと、旧約聖書と新約聖書がありますが、パウロがこの手紙をテモテに向けて書いている段階において、聖書とは旧約聖書を指していたと思います。その旧約聖書は神の霊感、つまり、聖霊の働きと導きによって書かれたものであるとパウロは言っています。それは、けっして、人の思いから出たことではありません。神様から出たことを人が受けて書かれたことばなのです。それを、啓示と言います。それには、神様の教えと戒めが示されていて、信仰者として自立していくために有益な情報が詰まっているものなのです。それを私たちは読むだけでなくて、実際に行うことによって自立したクリスチャンとして成長することができるのです。

  現在、私たちにとって聖書とは、新約聖書と旧約聖書のことです。旧約聖書には、救いについてや救い主が来られることについて書かれています。新約聖書には、救い主が来られ、救いが成就したことが書かれています。旧約聖書は新約聖書に比べて難解であるととらえられがちですが、新約聖書を見ると旧約聖書を面白く読むためのヒントが書かれてあると思います。特に、福音書では、イエス様がどのように旧約聖書を読み、とらえていたかを見ることが出来ます。それによって、イエス様の旧約聖書の見方やとらえ方を学ぶことが出来ると思います。パウロの手紙やペテロの手紙にもイエス様の旧約聖書の見方やとらえ方が表されている箇所があります。パウロやペテロもそのような見方やとらえ方をイエス様から、また聖霊によって、学んだに違いありません。

  私たちは信仰者として自立するために、先ほどⅡテモテ3:16にあったように聖書のことばによって訓練されることが必要です。そのために、私たちは、毎日、聖書を読みたいと思います。それは、日々、神様に触れ続けることであり、関わり続けることであると思います。日々、聖書を読む者であるとともに、日々祈る者でありたいと思います。祈ることを通して、また、聖書を読むことを通して、私たちは神様がどのようなお方なのか、神様がどのような考え方をされるのか、知識として、経験として、感覚として分かってくるものがあると思います。また、その中で私たちはさらに神様の導きやみこころを知るようになるでしょう。それは、私たちの思考や行動にも影響を与えます。私たちはただ自分で考えたり思ったりするのではなくて、聖書を読んで、祈って、考えて、行動するようになります。私たちはそのようにして神様の思いや考えに影響を受けながら生きて行きたいと思います。それは、信仰者として自立するためのプロセスでもあります。私たちが祈って、聖書を読んで、考えて、決断して、行動していくことは自立したクリスチャンとしての歩みなのです。

■終わりに、信仰者としての自立のために、一つ言わせていただきたいことがあります。ローマ14:4、今日の説教聖書箇所に書かれていることです。しもべを立たせるのは神様です。人ではありません。しもべを倒せるのも神様です。ですから、人の言うことや人のすることで、けっして、倒れないでください。倒れる必要はありません。また、人を立たせることが出来るのも神様しかいないことを覚えておいてください。ですから、人に求めるのではなくて、神様に求めてください。人に期待するのではなくて、神様に期待してください。もちろん、必要な場合は人に求めてよいと思いますが、人に求めても自分の期待通りにならないこともよくあることです。自分の期待に応えてくれないからと言って人を批判したり裁いたりするならば、私たちはいつまでたっても信仰者として自立できません。私自身がそのことを経験してきましたし、いろいろな人の歩みを見て経験的に知らされたことです。

  私たちは、祈り、聖書を読みましょう。そして、考えて、決断して、確信をもって行動しましょう。そうすれば、いつもうまくいくというわけではありません。しかし、それでも、感謝の心をもって進み続けるならば、神様は私たちを自立したクリスチャンとして立たせてくださいます。それでは、お祈りします。