私たちの父なる神

2020年6月28日主日礼拝「私たちの父なる神」ガラテヤ1:3~4佐々木俊一牧師

「どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。」

■3節 先週は父の日でした。5月に出来なかった母の日と合わせて、父と母への感謝のイベントとしてリトル・トゥリー・テイクアウェイから美味しいサンドイッチを注文して食べました。

  神様は私たち人間の父であると聖書は言っています。神様は宇宙を造りこの地球を造りました。そして、そこに住むすべての植物も動物も、そして、人間も造りました。いのちを生じさせてくれたと言うことは、生んでくださったと言うことでもあると思います。その意味で、神様は私たちの親、聖書では父なる神と言われています。今日の説教聖書箇所に、「私たちの父なる神」というフレーズがありました。今日は、父なる神様と私たちの関係について見て行きたいと思います。

  ガラテヤ人への手紙からお話をしますが、この手紙の背景について少しお話したいと思います。ガラテヤ地方は、現在のトルコ中央部にありました。この手紙はパウロによるもので、ガラテヤ地方の諸教会に向けて書かれた手紙です。書かれた年代については2つの説があって、一つは第一回目の伝道旅行の終わりで、使徒13:1~14:26にその伝道旅行の行程が書かれています。もう一つは第二回目の伝道旅行の終わりで、使徒18章に書かれています。AD48年から58年の間に、アンテオケで書かれたものだろうと考えられています。

  この手紙を書いたパウロを、当時、使徒として認めない多くの人々がいました。おもに、イエス・キリストの救いを受けながらもユダヤ人の慣習に固執していた人々です。パウロが宣べ伝える福音が、それまでユダヤ人が守ってきた律法による生き方とはまったく違って、あまりにも自由でありすぎることが非難の理由でした。

  パウロの使徒であることの確かなことは、使徒の働き9章に書かれてある通りです。そこには、パウロが復活のイエス・キリストに出会ったときの出来事について書かれています。そして、その後、他の使徒たちと合流し、働きに加わった経緯が書かれています。使徒の働き9:15に、このように書かれています。「しかし、主はこう言われた。『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。』」これは、アナニヤという弟子が、パウロについて神様から語られたことばです。同様に、ガラテヤ2:7~9には、ペテロにユダヤ人への宣教がゆだねられているように、パウロには異邦人(ユダヤ人以外の人々)への宣教がゆだねられていることが書かれています。

  実際に聖書を読むとわかりますが、ヨーロッパにおける福音宣教に果たしたパウロの役割は非常に大きなものがあります。パウロの働きによって、ギリシャ人やローマ人をはじめ、多くの国民と民族に宣べ伝えられ、当時のローマ帝国に築かれていた道路に沿って福音は広がって行きました。パウロもガラテヤ1章の初めで言っています。「私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。」と。もとはと言えば、パウロはキリスト教やクリスチャンが大嫌いでした。クリスチャンを迫害し、捕らえては牢獄に入れるほどの人物でした。しかし、それが、劇的な復活のキリストとの出会いによって、パウロの信仰は180度変えられました。

■イエス・キリストを信じていても信じていなくても、神様はすべての人を愛しておられます。神様は公平なお方ですから、聖書に書かれていることを行なうならば、イエス・キリストを信じていても信じていなくても、その行いによってその人は祝福されます。たとえば、クリスチャン以上に聖書的な行いをしているクリスチャンではない方々がいます。彼らはとても思いやりがあり、とても親切な人々で、誰に対しても良識があって公平です。彼らは、聖書的な教えをとても喜んで受け入れています。そして、その逆もあります。

  聖書に書かれていることの中でも、その核心である救いに関しては、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるならば、誰であろうとも、そのことによって人は、その報いと祝福を受けるのです。これは、私たちが何かよいことを行なったので受けることのできる報いでもなく祝福でもありません。ただ、罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主として信じ受け入れることによって与えられることなのです。ですから、これは、報いや祝福と言うよりも恵みと言った方が適切なのです。私たちがイエス・キリストを救い主として信じ受け入れると、神により恵みが与えられるのです。恵みとはヘブル語でヘセドゥ、ギリシャ語でカリスと言うそうです。無償の賜物、ギフト(贈り物)の意味になります。イエス・キリストの救いは、行ないによるのではなく信仰によるのですから、これは、まったくの贈り物なのです。その贈り物とはどういうものかというと、罪赦され、神様との間に平和が与えられ、神の子とされ、永遠のいのちを与えられます。イエス・キリストを受け入れる前は、罪が自分と神様との間を隔てていました。罪が神様の恵みをさえぎっていました。しかし、イエス・キリストを救い主として信じた後は、その罪はもはや隔たりとはならず、神様の恵みをさえぎることもありません。イエス・キリストを信じたからといって、罪がなくなるわけでもなく、罪をおかさなくなるわけでもありませんが、神様の目には正しい者として見てくださるのです。完全に正しい者だけが受けることのできる祝福を、私たちは受けることができます。正しい者でないのに、祝福を受けることができるのですから、この祝福はまったくの恵みなのです。

  私たちは神様によって祝福されています。その祝福はまったくの恵みです。私たちが何か良いことをしたので受けることができるのではありません。完全に、これは、イエス・キリストの十字架のおかげなのだということを忘れてはなりません。

  さらに、与えられるのは恵みだけではありません。平安も与えられます。平安とは、ヘブル語でシャローム、ギリシャ語でエイレーネーです。前にやりましたが、ユダヤ人が日常一番使う挨拶のことばは、シャロームです。その意味は、平安の他にもいくつかあります。平和、和解、繁栄、安定、健康、健全など、精神的、物質的、個人的、社会的に満たされた状態を示すそうです。神様は、私たちのために、日々必要な平安を与え、平和を与え、祝福を与え、守りを与え、健康を与えてようとしておられるお方です。

■4節 「悪の世界から私たちを救い出そうとして」と書かれています。このところから連想される旧約聖書の出来事があります。一つはノアの箱舟、一つはロトの家族がソドムとゴモラの町から逃れた話です。イスラエルの民がエジプトから脱出した話もそうでしょう。これらの話は、イエス・キリストの救いを予め表わしているものだと思います。イエス・キリストは十字架に死んで、3日目によみがえられました。これは、この悪の世界から人間を救い出すための神様の計画です。

  イエス・キリストを信じる者は、神の子の立場にあることを覚えてください。イエス・キリストを信じるということは、神の家族の一員になることを選ぶことを意味します。そして、神様は私たちの父(親)ということになります。

  ダビデとヨナタン(サウル王の息子)が契約を結んだ話を知っているでしょうか。ダビデとヨナタンが契約を結ぶ様子の一部がⅠサムエル18章に書かれています。この種の契約は非常に強い関係をもたらすものであると聞きました。その契約の項目の一つとして、自分が死んだとき、家族や子どもの面倒を見るという約束事が含まれていたそうです。(たとえば、・・・・)ヨナタンにはメフィボシェテという一人息子がいました。ヨナタンがペリシテ人に殺された後、ダビデはヨナタンと結んだ契約に従って、その一人息子メフィボシェテを王宮に引き取りたいと思いました。メフィボシェテはペリシテ人から逃れる途中、事故で両足が不自由になり、貧しい境遇の中にありました。そんなメフィボシェテでしたが、ダビデの申し出を受け入れたので、ダビデの家に迎え入れられました。メフィボシェテはその後、ダビデ王の養子となり、ダビデの子どもたちと同じ待遇を受けて王宮で暮らすようになりました。ヨナタンがダビデと契約を結んでいたおかげで、メフィボシェテはダビデの家族の一員のように扱われたのです。しかし、もしも、この時、メフィボシェテがダビデの申し出を断っていたならば、彼はそのような待遇を受けることはありませんでした。

  私たちは、まるでこのメフィボシェテのような者です。神様の子どもになるような資格がないのに、私たちが選ぶならば、神の子とされるのです。この契約を完成させてくれたのがイエス・キリストの十字架なのです。私たちがイエスキリストを信じるとき、私たちは神の家族の一員となり、神の子とされるのです。

■イエス・キリストを救い主として信じ受け入れるとき、私たちは神の家族の一員として迎え入れられます。神様は私たちの父となるのです。しかし、このことが神様にとっては喜びであると同時に、新たな忍耐を求められることでもあるのです。親には子どもが自立できるまで多くの忍耐が要求されるものです。みなさんもよくお分かりかと思います。私自身、親になって、やっと親の苦労や気持ちがわかるようになりました。私がどんなに親に迷惑をかけ忍耐を強いて来たことか、よくわかりました。もちろん、父母も人間ですから、欠点があります。それゆえに、こちら側がそれによって我慢しなければならなかったことがあったかと思います。しかし、私たちの天の父は完全なお方です。私たちの側が神様に我慢しなければならないことがあるなんてことはありません。ただただ、神様は私たちの父(親)であるゆえに、忍耐をもって導いてくれています。父(親)と子の関係の中で、私たちは赦され、愛されています。私たちが成長するのを、忍耐をもって見守ってくれています。たとえ、私たちが過ちを犯してしまったとしても、イエス・キリストによってもたらされた父と子の関係は簡単には壊れません。私たちから神様を捨てない限り、神様は私たちのことを捨てたりはしません。だからと言って、神様にあまえてばかりいるのはどうでしょうか。神様の忍耐を思うとき、私たちの神様への愛は強められるのではないでしょうか。そのようにして、神様との信頼関係を深めていくことが大切なことです。

  神様は私たちにとって、父なる神です。その関係はイエス・キリストによってもたらされました。私たちは、父と子の関係の中で、恵みと平安を豊かに受けることができます。そのことを感謝したいと思います。詩篇116篇12節に、「主がことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。」とダビデは言っています。私たちはただ父なる神様から受けるばかりのものです。でも、もしも、私たちがいつまでも甘えてばかりの者としてではなくて、神様の手となり足となって、イエス・キリストのみ名をかかげて救いを宣べ伝えるなら、きっと、神様は喜ばれるでしょう。詩篇116:12~15を読んでみてください。それではお祈りします。