オープンドアして食事する

2020年6月7日主日礼拝メッセンジャー:俊子姉

テーマ「オープンドアして食事する」/中心聖書箇所:黙示録3:20

「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする。」

 

■主にオープンドアしましょう。

 今日のみことばはどこかの教会の名まえの由来になった箇所だと私は聞いていますが、間違いないでしょうか?この教会の初代の牧会者であるホエーリー宣教師が主からいただかれた聖書箇所だと思います。オープン・ドア・チャペル、この教会の名まえはとても良い名前で、私は大好きです。みなさんもきっとそうだろうと思います。この名まえの由来を聞く前は世間や地域に対してオープンドアしていく教会という意味なのかな?と思っていましたが、3章20節からということを聞いた時、主に対してオープンドアしていくということなのだなーと分かりました。

 この教会は主のみ声を聞いて戸を開ける教会です。この教会は主を歓迎する教会ですよね。主を喜ぶ教会です。名前通りです!!オープン・ドア・チャペルのいちばん良いところはどこですか?と人に聞かれたら、主を喜ぶところです!と答えたいです。この教会が明るい雰囲気であるのもまず主を喜んでいるところからきているのかなと思います。

でも、教会だけではなく、私たちひとりひとりが主に対してオープンドアすることを主は求めておられます。昔こんな話を聞きました。ある人は主のみ声を聞いて扉を開けはしますが、自分の家の全ての部屋に主をお通しすることをしません。この部屋だけは入らないでください。ここは片付いていないし、掃除していないので汚いんです。この部屋は窓がなくてとても暗いのでお通しできません。段ボール箱が積み重なっていてひどい状態なのでお見せすることはできません。と言います。もしも小ぎれいな片付いた部屋だけに主をお通しするならそれは違いますよ。というお話です。確かに、主よ、私の中のここだけには触れないで!という部分を持っているなら、その部屋に主をお入れしないなら、主は私たちを取り扱うことはできません。もちろん主は全てお見通しです。なんでも分かっておられます。でも、マタイ11:29「わたしは心優しく、へりくだっているから」と書かれているように主は無理やりドアを突き破って入って来られたり、ふすまをがら―っと開けたり、土足で踏み込んだりはされません。こちらがどうぞと言ったところだけに入られます。主に取り扱っていただくためには自分の全てを主の前にさらけ出さなければなりません。

 

■主とともに食事をしましょう。

 さて私の家の扉を開けて主をお入れしました。「主よ、良く来てくださいました。」と言います。次に私たちがすることは「主とともに食事をする。」ことです。このオープンドアも毎週食事をしますね。ホエーリー先生はそこまで考えておられたのでしょうか?面白いです。私たちは毎週何か食べ物を持って集まりますが、ここでは主が用意してくださる食べ物があるようです。何でしょう?それは「命のパン」…神さまの口から出るひとつひとつのことばです。私たちは主とともに「みことば」を食べます。黙って食べるのでしょうか?オープンドアでは交わりながら、ことばを交わしながら食べます。交わりながら食べるのが楽しみなのです。主とともにみことばをいただく時にも交わりながら食べます。それはとても楽しくおいしい時です。

 

■主に耳を開かれましょう。

 そして主とともに食事をしていると、主に耳を開かれるようになります。私たちには耳が付いていますが、耳が付いていることと耳が開かれていることには大きな差があります。耳が開かれていないと主から聞くことができません。主から聞けるようになっていくことが大切です。

 自分の証ですが、古い証で恐縮です。もう30ウン年も前のことになりますが、昔は結婚する年齢になると、近所の「世話焼きのおばちゃんたち」が「縁談」を持って来るのです。要するに結婚する相手を紹介してくれるのです。「こういう人がいるんだけど一度会ってみたらどう?」ってなもんです。そして「お見合い」をするのです。どこかの場所で会わせてくれて、もしも気に入ったらお付き合いが始まります。今も友だちの紹介で彼氏彼女と知り合うってことはよくあることですが、昔は「近所の世話焼きのおばちゃん」という方々が存在していました。世話焼きのおばちゃんだけではなく、世話焼きのおじちゃんもいたし、私の場合は少し年上の同僚がご自分の知り合いや親族を紹介してくださったり、ご自分の息子さんなど紹介してくださったこともありました。このお話をすると、ちょっと笑われるかと思いますが、私は正直10回ほどお見合いをしました。それでも結婚が決まらなかったのですが、ある時こういうことがありました。これは10回目か11回目のことです。もう30歳を過ぎていたと思うのですが、私の伯父がある方を紹介してくれました。その方に会った時、「ああ、この人とは結婚しないなー。」とはっきり思いました。でももう30を過ぎていて、「見合い話」も来なくなっていました。それで結婚はしないけど何か男性と付き合うドキドキ感とかわくわく感が味わいたくて何度か食事をしたりお出かけしたりしました。そうこうしていたある日のこと、今度は主といっしょに食事をしていました。みことばを読んでいたのですね。マタイによる福音書16章23節を読んだ時、そのみことばが私に突き刺さってきました。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」主からはっきり語られた瞬間でした。「やっぱりだめだよね。こんなことしていたら。」それからすぐにわたしはこの「縁談」を丁寧にお断りしたのです。

ボクシングなどの試合でセコンドからタオルが投げられ、試合がストップされるということがありますよね。試合で自分の側の選手が痛めつけられて、もう勝つ見込みがない時に、コーチがタオルを投げ込みます。すると降参することになるので、その試合には負けてしまうんですが、また次の試合に繋がります。もうぼこぼこにやられて再起不能になる(この先闘えない体になる)前に自分の側の選手を助けるのです。ですから「このタオルは愛のタオルなんだよ。」と内藤大輔さんを育てたボクシングジムのトップの人が話していたとあるブログに出ていました。

 私たちは自由意志を与えられていて、自由に生きていいのです。でも、主はキリストを信じる者たちを目的をもって導いておられるので、ポイントポイントで介入してこられます。再起不能になる前にタオルを投げ込んでくれるのです。

■まとめ

 私は18歳でイエス・キリストを自分の主と信じて救われました。でも25歳までは非常にいい加減なキリスト者でした。この世に片足、イエス様に片足掛けているようななまぬるい歩みの者だったのです。今日のみことばの前のところに主がラオデキアの教会に対して嘆かれるところが出てきます。「あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:16)と書かれています。私は本当になまぬるい者でした。ですが、25歳の時のある体験をきっかけに主に対して熱心な者、熱い者にされていました。自分の家の戸を開けて主とともに食事する者とされていたのです。そこからだんだん耳が開かれて行きました。そして神様はみことばを通してはっきりと語られました。この時は叱られましたが、いつもみことばを通して叱られるわけではありません。ほとんどの場合は慰め励まされます。またある場合はみことばの中に導きがあり、ある場合は約束をくださり、ある場合は自分への使命を語られます。もしも主が語ろうとなさっていることを聞き逃すようなことがあればそれは非常にもったいないことです。

 キリスト教会においては、あまり努力ということは語られません。どちらかと言えば神さまに頼るということが強調されます。それは大切なことです。でも、人が努力すべきところと神様に委ねるべきところをはっきりさせておかなくてはならないと思います。今日の箇所においては戸を開いて主をお入れすることと主といっしょに食事をすることは人間の側の努力によります。最近聞いたユーチューブのメッセージの中でも「主に近づく努力はいつも必要です。」と語られていました。主は私たちの口を無理やり開けてみことばを食べさせたりはなさいません。こちらの側から求めて行くことが必要です。こちら側から戸を開けて、こちら側からパンをいただくのです。

 このコロナウィルスの流行っている時代に主は何を語っておられるのでしょうか?この煮詰まった時代に、閉塞感のあるこの時代に主は何を語っておられるのでしょうか?これはこの時代に生かされているおひとりおひとりが主から聞き、受け取るべきことがらだと思わせられます。