あなたが私と共におられますから

2020年5月24日 主日礼拝 「あなたが私とともにおられますから」詩篇23篇 佐々木俊一牧師

 

■神様を表すことばのひとつに、「インマヌエル」ということばがあります。その意味は、「神は私たちと共におられる」です。神様は目には見えませんが、聖書のことばによるならば、いつでもどこでも、私たちとともにおられるのです。イエス様は言われました。「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と。「世の終わりまで」とは、二通りのことが考えられます。一つは、文字通り、「世の終わり」、イエス様が再びこの地上に戻って来られる時までのことを意味します。もう一つは、この体の命には限りがありますから、地上に生まれた者は誰でも例外なく、いつか人生に終わりの時を迎えます。これは個人にとっての、「世の終わり」と言えるでしょう。どちらにしても、最後の最後まで主が共にいてくださるのです。

  人生には山があり谷があります。何もないことの方が珍しいかもしれません。気持ちとしては何もない方がよいのですが、何不自由のない人生には、また別の大変さがあるかもしれません。平穏な日常生活が長く続く時、いつの間にか、神様により頼むことを忘れてしまい、神様のことを求めなくなり、つい世の楽しみに心奪われる誘惑があるように思います。聖書を見ると、そのような失敗がいくつも見られます。私自身、自分の体験からも言えることです。そういう意味では、私たちにとって、平坦な道よりも山や谷のある道の方が感謝すべきものなのかもしれません。

  詩篇23篇は、ダビデによって書かれたものであると言われています。ダビデは、少年時代までは比較的平穏な環境の中で育ったように思われますが、王宮に入ってサウル王に仕えるようになってからは、波乱万丈の人生を送りました。良いところも悪いところも歩んできたダビデが、思うところの神観はどのようなものだったでしょうか。今日は、神様がどのようなお方なのかを詩篇23篇をとおして見てみましょう。そして、神様が私たちと共におられるということが、どんなに大きな祝福なのかを見て行きたいと思います。 

■1節~2節 「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」

  主は私たちの羊飼いであると、ダビデは言います。ダビデは、サウル王に仕える前は実際に羊飼いをしていました。ですから、羊飼いがどのようなものかをよく知っていました。羊飼いは、羊を世話し育て命を守ることが使命です。そのために、羊飼いは、水と食べ物と休む場所を見つけ出し、そこに羊たちを導き入れます。私たち人間は羊のような存在です。弱くて、世話がかかり、一人では生きていけません。神様はそんな私たちが困らないように、水と食べ物と憩いの場のあるところへと導いてくださいます。つまり、私たちの神様は、私たちが生きていくために必要なすべてのものを備えてくださるお方なのです。

■3節 「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」

  主は私たちを、恐れ、心配、不安、失望や落胆から救い出してくださるお方です。私たちの弱った心に希望を与え、平安で満たし、強めてくださるのです。罪を犯してしまった時にさえ、神様の助けがあり、赦しがあります。聖書には、ダビデの犯した恐ろしい罪について、ありのままに書かれています。神を愛し、日々礼拝をささげ、神に従っていたはずのダビデが、姦淫と殺人の罪を犯すとは、人の心とは何と不安定で弱いものでしょうか。ダビデの秘密は誰にもわからないはずでした。しかし、人はだませても、神様をだますことはできませんでした。予見者ナタンをとおしてダビデの罪が明らかにされました。その時、ダビデは即座に降参して、自分の罪を認め、赦しを請いました。その後、ダビデは死ぬまでイスラエルの王でしたが、家族の中には憎しみや多くの問題が生じました。自分のまいた罪の結果は自分で刈り取らなければなりません。それでも神様は、ダビデを赦し、聖霊を取り去ることなく、神様とダビデとの間の契約を保ち続けたのです。

■4節 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」

  ダビデには多くの敵がいました。彼らはダビデの命と王座をねらっていました。しかし、ダビデは言います。「私はいかなる敵をも恐れはしない。」と。なぜなら、いつも主がともにおられるからです。羊飼いが持っているむちと杖が、危害を加えようとするものから羊を守るように、神様はダビデをいつも守ってくださいました。この真実は、ダビデのためだけではなく、私たちのためでもあります。また、むちや杖には別の用途があることを忘れてはなりません。時々言うことを聞かない羊がいます。群れから離れ、危険な場所へ行こうとするのです。困った羊はどこにでもいるのです。そのような羊に対しては、むちと杖で警告を与えることもあります。神様も人に対して同じことをすることがあります。ダビデが罪を犯した時にも、神様の警告がありました。ダビデはこの時すぐに悔い改めて従いましたが、神様からの処罰を受け、非常に痛い目にあいました。詩篇118篇18節と119編71節を見てみましょう。

「主は私をきびしく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。」

「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

  神様は、人が罪を犯し続ける時、警告し、懲らしめることがあります。しかし、殺すことも見捨てることもありません。そして、神様が懲らしめるのは、人が自分の罪深さを認識し、罪がいかに人の幸せを破壊するものかを認識するためです。さらに、人が罪を犯さなくなるように訓練し、神の義によってまことの命、永遠の命を受けることができるように導かれるのです。神様は罪を憎まれます。ですが、人、一人一人を愛しておられます。ゆえに、神様は、どんな悪人も心から悔い改め、神に従って歩みだすことを喜ばれるのだ、と聖書は言っています。

■5節 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」

  強盗や敵に追われた旅人が天幕に逃げ込んだら、そこの主人は、旅人をかくまい、保護する習慣が旧約聖書の時代にありました。家の主人はその旅人を保護するだけではなく、もてなし、食事をふるまい、歓迎して頭の上から油を注ぎ、杯をかわすのだそうです。私たちが神様のところに逃げ込み、隠れ家とするとき、同様に神様は私たちを保護してくださるのです。しかも、私たちを歓迎してくださり、主イェス・キリストの救いと恵みの中へと導かれます。

■6節 「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

  主の家には私たちのすべての必要が豊かに備わっています。肉体的にも、精神的にも、霊的にも、すべての必要を備えてくださるのです。私たちがこの地上に生きているときも、この地上を去ったあとも、それは変わることがありません。神様のいつくしみと恵みは、私たちを追ってくるかのように、いつでもどこでもともにあるのです。経済的に困難なときもそれを乗り越えさせてくださいます。病気で落ち込んだときも支えてくださり、乗り越えさせてくださいます。罪を犯してしまったときでさえも、それによって、神様との関係が断たれてしまうことはありません。もちろん、その罪で苦しめた人々に対しては、償いをするのが当然でしょう。蒔いた種は責任をもって刈り取ることが必要です。神様との関係は悔い改めるならすぐに回復しますが、人との関係は回復するのには時間がかかることを覚えておかなければなりません。 

■良いときも、そうでないときも、ダビデは神様と関わり続けました。成功したときも、失敗したときも神様と共に歩みました。人から思いやりを受けたときも、人から裏切りを受けたときも、神様がともにおられました。他人の罪によって被害者になったときも、自分の罪によって加害者になったときも、神様には正直であることを選びました。聖書に出てくる人物の中で、ダビデほどありのままの人物像が描かれている人はいません。こんなダビデをとおして、神様が私たちに示そうとしておられることは何でしょうか。

  一つは、「私は大丈夫。なぜなら、あなたが私とともにおられますから。」ということです。もう一つは、「あなたが私とともにおられますから。」の信仰は、与えられている使命をまっとうさせることができるということです。ダビデはイスラエルの王様になりましたが、完全な人ではありませんでした。確かに優れた能力があり、信仰的でもありました。しかし、そんなダビデにも、欠点もあれば、弱点もありました。律法によるならば処刑されても仕方のない大きな罪まで犯してしまいました。しかし、それでも、ダビデは神様にしがみついて離れませんでした。悔い改めて、再び、神様と共に歩み始めました。ダビデの人生を見るとき、彼は、神に与えられた使命をまっとうすることができたと言えます。なぜできたのか、それは、「あなたが私と共におられますから。」の信仰をもって歩み続けたからです。   

■来週の日曜日は、ペンテコステの日です。日本語では、「聖霊降臨日」です。天に戻られたイエス様は父なる神様から聖霊を受けて地上に聖霊を遣わされました。イエス・キリストを救い主と信じる者には聖霊が与えられ聖霊が内に住まわれます。その意味で私たちの体のことを聖霊の宮であると聖書は言っています。インマヌエル、「神は私たちとともにおられる」と言うことばがそのことを通して実現したとも言えるのです。私たちの内に聖霊なる神が住まわれます。神様はいつも私たちと共にいてくださるのです。

  今、世界中の人々が新型コロナウィルスという災難の中にあります。私たちも例外ではありません。しかし、そんな中にあっても、私たちには今も生きて働いておられる神様が共におられます。そのことは、何と力強いことでしょうか。「大丈夫、主が私たちと共におられるから」の信仰で進みましょう。また、祈りや聖書のことばをとおして、神様の導きを受け、慰めと励ましを受け、たまったストレス、イライラ、恐れ、心配、不安から自由にしていただきましょう。

  また、神様はあなたにどのような使命を与えておられるでしょうか。ちょっと、考えてみてください。ぜひ、神様があなたに与える使命をはっきりと受け取ってほしいと思います。すべてのクリスチャンに与えられている使命があります。それは、救い主イエス・キリストを宣べ伝えることです。私たちは、直接言葉でもって誰かにイエス様のことを伝えることが出来ます。また、私たちは、私たちの人生をとおしてイエス様のことが表わされ、それによってイエス様のことを誰かにあかしすることが出来ます。どちらにしても、イエス様のことを伝えることには、楽しいこともありますが、苦しみや痛みがともなうこともあります。しかし、「あなたが私と共におられますから」の信仰をもって歩むなら、私たちは必ず神様によって与えられている使命を全うすることが出来ると信じます。その使命を全うするために、神様は私たちに信仰と勇気を与えてくれます。神様は私たちを助け、ある時には命をも守ってくれます。ですから、何があっても、イエス様から離れず、主と共に歩んでいきましょう。それではお祈りします。