新しい自分を生きる!

2020年5月3日主日礼拝「新しい自分を生きる!」ローマ6:6 佐々木俊一牧師

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」 

■2011年に放映されたクローズアップ現代と言う番組で、遺伝子のすべてを解読する技術が飛躍的に向上して、誰でも自分の遺伝子情報を知ることができる時代がやって来たという話題を取り上げていました。その時、費用は50万円、1時間ちょっとで解析可能と言っていました。今は1万円でできるそうです。科学の進歩は加速しているようです。

  その時、司会の国谷裕子さんがDNAのことを個々人の設計図と言っていたのがとても印象的でした。DNAが設計図であると言うことは、その設計図を作った人がいることを自ずと認めていることになります。その設計図は聖書の神様が作ったものです。聖書は、神様が人を創造したと言っています。そして、神様が人を造られた時、神様と人との関係はとても良かったのです。しかし、人が罪を犯したために、神様との関係が壊れてしまいました。その後、神様が言われたとおり、人は死ぬようになってしまいました。それでも、神様はご自身が創造した人間を深く愛しておられたので、神様はそのひとり子イエス・キリストを地上に遣わし、その方によって再び人が永遠のいのちを得るように道を備えてくださいました。ここに、神様の愛が私たち人間に示されたのだと、聖書は言っています。その神様の愛は変わることがありません。神様のことばも変わりません。イエス・キリストは、昨日も今日も、これからいつまでも変わりません。

  変わることのないイエス・キリストの救いを、今日も語りたいと思います。救いに必要なことは行いではなく、イエス・キリストを信じる信仰であるということを私たちは知っています。神様はありのままの私たちを受け入れて愛してくださっています。時には失敗をし、神様のみ心でないことをしてしまう私たちですが、神の子としての立場は揺らぐことはありません。ですから、神様から離れず、日々の生活の中で、神様に応答し、また、神様の応答を見出して、神様と関わり合って歩み続けることが大切だと前にお話しました。

■イエス様は、「医者を必要とする者は健康な人ではなく、病人です」と言われました。また、「わたしは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」とも言われました。覚えていますか。イエス様は、罪人のレッテルを貼られていた取税人や遊女、いかがわしい職についている人々と、よく食事を一緒にしました。そして、神のみ国とその教えについて話しました。彼らの中には、イエス様を信じて、従う者たちがいました。その後、彼らの人生は大きく変えられました。また、一方では、罪人の友となったイエス様のことを軽蔑し妬む人々、パリサイ人、律法学者、祭司と呼ばれる宗教指導者たちがいました。彼らは、イエス様の教えを否定し、その働きの邪魔をしました。そんな彼らに対しては、イエス様は大変厳しいことばをもって戒めています。イエス様が厳しい態度をとられたのは、罪人に対してではありません。イエス様の教えを否定し、救い主なるお方を否定し、自分たちこそが正しいと主張した偉い人々に対してです。

■取税人ザアカイの話は、みなさん、よくご存知かと思います。彼は自分の立場を利用して不正な富を蓄えていました。しかし、イエス様と出会い、イエス様の愛にふれて、彼は悔い改めました。そして、一大決心をしたのです。「私の財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は4倍にして返します。」ルカ19章にあるお話です。この言動は、悔い改めたザアカイの心を反映しています。自分のような悪い人間を否定しないで認めてくれたことが、彼にとって大きな喜びとなったのでしょう。これは、今まで彼の思いや感情を支配してきた古い自分から自由にされて、新しい自分に生きようとする瞬間だったと思います。イエス様には人を古い自分から新しい自分へと向かわせてくれる力があるのです。

  ザアカイのように、劇的に生き方が変えられる場合がありますが、私のように、少しずつ少しずつ変えられる場合もあります。人によってそれぞれの成長の仕方があるかと思います。

  バックスライドということばを聞いたことがありますか。一度神様を信じて初めはうまくやっていたのだけれど、しばらくすると、神様から離れて、また、前の生き方に戻ってしまう人のことです。しかし、一度バックスライドしたけれども、悔い改めてまた信仰生活に戻る人がいます。中には、そのような過程を経て、人生を神様に捧げて神様の働きに献身する人々も少なくありません。神様の憐れみは本当に大きいのだと思います。 

  また、キリスト教界において多くのスキャンダルを見て来ました。ある有名な牧師や伝道者はスキャンダルによって働きの第一線から退きました。しかし、再び活動を始めた人もいます。悔い改めと回復のために長い時間が必要だったと思います。復帰することについては、賛成する人もいれば反対する人もいます。ダビデの例が示すように、神様を信じていても過ちを犯してしまう可能性はだれにもあるように思います。私たちは本当に神様の憐れみと恵みに頼る以外ないのです。

私たちは、行いによるのではなく信仰によって義とされるのです。信じた後も、神様の働きに就いた後も、それは変わることがありません。罪をおかしてしまったとしても、イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは神のみ前に正しい者のままです。ローマ8:1に、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにあるものが罪に定められることは決してありません。」と書かれています。

■これまでの話をまとめてみましょう。2つの事実にまとめることができると思います。

①キリスト・イエスにある者はけっして罪に定められない!

  罪をおかしてしまったからと言って、神の子どもでなくなったわけではありませんし、神のみ国に入る資格を失うわけでもありません。

②キリスト・イエスにある者は、罪の性質が無くなったわけではない!

  だから、クリスチャンも罪をおかすことがあるのです。

  そして、これからお話しすることは、もしかするとこれまでお話したことと矛盾して聞こえるかもしれないお話です。でも、矛盾はしていません。

  ローマ6:1でパウロはこう問いただしています。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」

  また、ローマ6:15には、「それではどうでしょう。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪をおかそうということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」

  ローマ6:1と6:15は何を言っているのでしょうか。クリスチャンであっても罪の性質があるのだから罪を犯してしまうことがある。しかし、クリスチャンは罪を犯しても罪に定められることはない。ならば、罪を犯しても大丈夫だから罪を犯しましょう、ということでよいのでしょうか。いいえ、絶対にそんなことはありません、とパウロは言っています。

  前の2つの事実に、もうひとつの事実を加えたいと思います。

③私たちの古い人はキリスト・イエスとともに十字架に付けられた!(ローマ6:6)

  私たちの罪そのものとなってイエス様は十字架に付けられて処分されました。そのことのゆえに、私たちはもはやその罪のことで裁かれることはありません。そして、十字架に付けられたのは、私たちがやってしまった罪だけではありません。私たちの古い人も十字架に付けられたとあります。これは何を意味するでしょうか。それは、私たちがもう罪の奴隷ではないということです。

  ローマ8:12「ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。」とあります。肉とは罪であり、古い自分のことです。私たちは罪の奴隷ではないので、古い自分に従う責任はありません。

古い自分とはどんな自分でしょうか。自己中心の自分、自分の正しさを主張する自分、自分の考えやこだわりに固執する自分、自分が認められないと気に食わない自分、人を責める自分、自分の思い通りに行かないと誰かに八つ当たりする自分、誰かを妬む自分、誰かを恨む自分、人が悲しむことをあえてやる自分、これらがもたらす結果はすべて破壊です。これは神様が喜ばれることではなくて、悪魔が喜ぶことです。

■私がまだ20代前半、クリスチャンになって1、2年の頃、私は妬みの問題に思い悩まされました。マルタや放蕩息子の兄、ヨセフの兄たちの気持ちがよくわかります。妬みを感じる自分が恥ずかしいと思い、私は自己嫌悪に陥いりました。そんな自分を隠そうと一生懸命取り繕いました。だんだん、それが苦しくなって、教会生活をもう止めようかと思いました。結局、私は止めないで教会に通い続けました。苦しい気持の中、祈りや聖書を読むように導かれました。そして、いつしか、そのような感情から解放されている自分に気が付きました。今思うと、古い自分に従い続けていたならば、教会を離れて、今頃は教会に行っていなかったかもしれません。教会につながり、兄弟姉妹と交わり、祈り、そして、聖書を読み、神様にふれ続ける中で、自分の心が少しずつ整理されていったように思います。これは、自分の力ではなく、神様の恵みによって破壊的な感情や思いから自由にされた一つの例だと思います。

  私たちにとって、罪をおかさないことが一番よいことではあります。神様はそのことを喜んでくださいます。けれども、罪をおかしてしまった時でさえも、古い自分に従わない選択はまだ残されているのです。私たちは古い自分に従う責任はありません。新しい自分に従いましょう。そのために、まず神様に祈り、ありのままの気持ちをさらけ出し、助けを求めましょう。そうすれば、神様は必ず、助けてくださいます。

■今、新型コロナウィルスによって、これまでにない不自由な生活を強いられています。学校にも行けません。会社にも行けません。したいことが自由にできません。ごく普通の日常というものを失って私たちは初めてその大切さに気づかされました。失ってみなければわからない大切なものは他にもあります。大切にすべきものを大切にするために、この時に今までの自分の生き方をもう一度見つめ直したいと思います。そして、新型コロナウィルスの問題が終わった時には、社会としても個人としても、新しい生き方を求めてゆきたいと思います。

  クリスチャンとしても、古い自分を捨てて神様から頂いた新しい自分を生きていきましょう。それは、神様を大切にし、お互いにお互いを大切にする生き方であると思います。私たちは神様の恵みの中で、新しい自分を生きるように導かれています。神のみ国にいる自分の姿を思い浮かべてください。それは、必ず来る私たちの本当の未来の姿です。未来を先取りして、新しい自分を生きる機会が、この地上にいる時から私たちには与えられているのです。ますます、新しい自分を生きて行きたいと思います。それでは、お祈りします。