まじめな真理のことば

2020年4月12日イースター礼拝「まじめな真理のことば」使徒の働き26:22~29佐々木俊一牧師

■使徒の働きの著者は、ルカの福音書の著者の、ルカであると言われています。ルカの福音書も使徒の働きも、テオピロという人物に宛てて書かれたものであることがわかります。ルカはアンテオケ出身のシリア人医師だったと言われています。ユダヤ人ではありません。いわゆる、異邦人です。アンテオケ教会からパウロは異邦人伝道へと遣わされました。いつからか、ルカはいつもパウロに同伴して伝道旅行に出るようになりました。

  パウロは使徒の働き8章にあるように、初めはクリスチャンを迫害していました。そして、時にはクリスチャンを殺すほどまでに、キリストに敵対していました。しかし、奇跡的な復活のキリストとの出会いにより、イエス・キリストを救い主として信じました。その後、異邦人伝道の使徒として立てられました。そんなパウロが捕らえられてしまい、裁判のためにカイザリアからローマへ連れて行かれようとしていた時のことが、今日の聖書箇所です。

■22節~23節 パウロは神の助けを受けて、世の中のあらゆる階層の人々にイエス・キリストの救いを宣べ伝えました。金持ちから貧しい人まで、地位のある人からそうでない人まで、差別することなくあらゆる人にアプローチしました。そして、パウロが語ったことの中心は、常にイエス・キリストです。パウロは当時の最も優れた教育を受けた知識人であると言われていますが、パウロが語ったことは、イエス・キリストのことだけである、とパウロ自身が告白しています。パウロはキリストのことを、旧約聖書の預言書やモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)から人々に教えました。

  イエス様も同じようなことを言っています。ルカ24:27では、復活されたイエス様が、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを説き明かされた、とあります。聖書全体ということは、当時は旧約聖書しかありませんでしたから、旧約聖書からイエス様はご自身の事を説明したということになります。さらに、イエス様は、ルカ24:44で、わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就すると言うことでした、とあります。

  ですから、旧約聖書を調べるならば、イエス・キリストに関して起こる事柄がわかるのです。イエス様の十字架で流された血潮の意味や、イエス様がどのようにエルサレムに入場し、どのように殺され、死んでから何日目、何曜日に復活されるのかということさえ知ることができます。皆さんは、新約聖書の中にキリストとその救いのことが書かれていることは知っています。ですが、その根拠は旧約聖書の中にあるということを知っているでしょうか。旧約聖書を抜きにして、新約聖書はありえません。旧約聖書の中にこそ、キリストの十字架のことや復活のことが、そして、それが人々にとって希望の光となることが書かれてあるのです。パウロは旧約聖書をとおして、そのことを人々に語ったのです。そして、パウロはその希望をイスラエルの民だけではなくて、異邦人にも伝えました。神の救いがイスラエルの民のためだけではなくて異邦人のためでもあるということは、旧約聖書にはっきり書いてあると言うのがパウロの考えです。

■24節~25節 パウロの話を聞いた総督フェストは、パウロは学問のし過ぎで頭がおかしくなってしまったのだ、というような発言をしました。それに対し、パウロは、自分は頭がおかしくなったわけではなく、ただ、まじめな真理を語っているのだと言います。まじめな真理とはどんな真理でしょうか。他の聖書では、真実で理にかなったこと、となっています。実際に、パウロは頭がおかしくなっていたのではありません。正気でした。そして、真剣でした。それによって、何か利益を得ようなどと考えていたでしょうか。そんな動機はみじんも感じられません。あるいは、これはパウロの勘違いだったのでしょうか。使徒の働きに見るパウロの回心の出来事を見るならば、私にはそのようには思えません。以前のパウロは、キリストの救いなるものに敵対していた人物です。そのパウロが、キリストの救いについて、ただ真実を伝えたいという思いで、このまじめな真理を語るようになったのです。

■26節~29節 そして、パウロはまともに聞こうとしない総督フェストではなくて、当時ユダヤの領主であったアグリッパ王に向かって、イエス・キリストと言うお方とその十字架の出来事がイスラエルの地の片隅で起こった出来事ではないことを訴えました。確かにその出来事は、イスラエルの中心、エルサレムにおいて起こった出来事であり、すべての人々が注目し、すべての人々が見た出来事であり、イエス・キリストの十字架の出来事は誰も否定することのできない事実であったことを、アグリッパ王は知っていました。アグリッパ王自身、そのことを否定しませんでした。彼は言いました。「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている」と。イエス・キリストの十字架の出来事は当時の人々にとっては否定することのできない事実であった、と私は思います。イエス・キリストの出来事を信じる私たちの頭がおかしいわけではありません。

  パウロは自分の心からの願いを同席するすべての人々に訴えました。パウロのように囚われの身になる必要はないけれども、パウロの証しを聞いた人々がみなイエス・キリストを救い主として信じるように、パウロは願ったのです。

■パウロはタルソ出身のパリサイ派ユダヤ人でした。タルソは現在、タルススと呼ばれるシリヤ寄りのトルコ南部にある町です。タルソは昔からずっと存在する町なのです。そして、パウロ自身が言っているように、パウロは生まれながらにしてローマ帝国の市民でした。パウロの親はきっと、裕福で地位のある人々であったのでしょう。そこは当時、アテネやアレクサンドリアに並ぶ、教育と文化の中心地だったそうです。そこで高度な教育を受けたパウロは、親元を離れてエルサレムでパリサイ人としての教育を受けたようです。

  そんなパウロが十字架に死んだイエス・キリストを直に見たかどうかはわかりませんが、しかし、少なくとも、イエス・キリストが十字架に付けられて死んだことは事実として受け止めていたのだと思います。そして、十字架にかかって死んだはずのイエス・キリストが復活したと言う話も聞いていたことでしょう。もちろん、パウロは、そんな事を信じてはいませんでしたし、ただの作り話(フェイクニュース)だと思っていたでしょう。でも、実際に偽装工作を行なったのは、ユダヤ人とローマ兵でした。彼らは復活して消えたイエス様のからだのことで、弟子たちが盗んで行ったと言ううわさを流したのです。パウロはそれを信じていたはずです。しかし、そんなパウロでしたが、復活のイエス様が、クリスチャンを捕えるためにダマスコに行く途中だったパウロに非常にまぶしい光の中で現れたのです。そのことは、使徒の働き9章に書かれています。パウロはこの体験によって目が見えなくなってしまいました。彼にとっては危機的な状況でした。しかし、神様の不思議な導きとみわざによって、パウロの目はいやされ、イエス・キリストを救い主として信じるようになりました。イエス・キリストは人の罪を負って十字架に死にました。しかし、死んで終わったのではなく、死から復活しました。そのことを信じる者は同じように死から復活し、神の御国の相続人とされるのです。パウロはそのことを異邦人に宣べ伝える者とされました。

■イエス・キリストは死んで3日目に死者の中からよみがえりました。イエス・キリストは死に勝利し、死の力とその支配を打ち砕いたのです。それまで、死は人類に恐れと失望を与え続けてきました。しかし、それはもうおしまいです。私たちはイエス・キリストの復活をとおして、もはや死を恐れる必要はなく、死は失望ではないことを知ることができたのです。死は新しいいのちへの途中経過であることがわかりました。イエス・キリストは私の主であると告白する者は誰でも、イエス・キリストが死んで復活したように、復活して永遠に神の御国の住人となるのだと言うことを知りました。

  イエス様は十字架上で悔い改めた犯罪人の一人に言いました。「あなたは今、わたしと共にパラダイスにいます。」と。パラダイスとは天国です。罪を悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じる者はパラダイス(天国)に導かれるのです。

  また、イエス様はこんな話もしています。ある金持ちと全身おできの貧乏人ラザロの話です。ある金持ちも貧乏人ラザロもこの地上を去って行きました。死後、金持ちの行ったところはハデス、日本語で黄泉と言われているところです。黄泉はヘブライ語ではシェオルとなっています。ギリシャ語のハデスと同じ意味として使われています。それに対して、貧乏人ラザロが行ったところは、アブラハムのふところとなっています。金持ちのいるところは苦しくてたまらないところであり、貧乏人ラザロがいるところは慰めを受けるところであったようです。二人がいる場所の間には大きな淵(溝)がありました。ですから、お互いにそこを越えて行ったり来たりはできません。

  黙示録1:18でイエス様は言っています。「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスのかぎを持っている。」と。死とハデスの鍵を持っているとはどういうことでしょうか。それは、死とハデスに鍵があるとしたら、その鍵を使って自由に開けたり閉じたりすることができるということです。イエス様がその鍵の所有者です。イエス様はその鍵を使って自由に開けたり閉じたりする権威があるのです。そのようになったのは、イエス様が十字架にかかって死んで三日目に復活されたからです。ところで、イエス様は金曜日に十字架に死んで日曜日の朝までどこにおられたのでしょうか。

  マタイ12:40でイエス様はとても面白いことを言っています。「ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子(イエス)も三日三晩、地の中にいるからです。」ヨナ2章はイエス様が十字架にかかって死んだ後、どこにおられたのかについて私たちが想像するのを助けてくれる箇所だと思います。イエス様は、地の中にいると言っています。地の中と言えば、真っ暗で苦しくて息もできないようなところを想像するのではないでしょうか。そして、そこは死者たちがいるところでもあります。イエス様はそのようなところからよみがえられたのです。

  さらに、マタイ27:52~53の記述がとても興味深いと思います。イエス様が十字架で死なれた時、驚くべき現象が起こりました。神殿の聖所と至聖所の間にある幕が上から下まで真っ二つに裂けました。そして、地が揺れ動き、岩が裂けました。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返りました。そして、イエスの復活の後に墓から出てきて、エルサレムに入って多くの人に現れたと言うのです。イエス・キリストの死が霊的に何らかの影響があったのでしょう。

  旧約時代の人々は死んだらみな黄泉へ行くと考えていたようです。ヤコブやダビデもそのように考えていたようです。しかしながら、ある金持ちと貧乏人ラザロの話からすると、同じ黄泉でもこの二人の待遇は深い淵によって分かれていました。これが、イエス・キリストの十字架以前の事です。しかし、イエス様が十字架上の犯罪人に言ったことは、「今日あなたはわたしと一緒にパラダイス(天国)にいる。」、です。イエス・キリストの十字架の後は、信じる者はパラダイスへ行くのです。   

  それでは、ハデスとは何なのでしょうか。地獄と言う言葉がありますが、それは、ハデスではありません。地獄はゲヘナと言われています。それは、黙示録20:14にある「火の池」を指しています。黙示録20:13~14にこのように書かれています。「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。」ハデスとは人が最後の審判を待つところであると言う説明がありました。しかし、その場所もいずれ、ゲヘナ(地獄・火の池)に投げ込まれると言うことです。死もハデスももはや必要ないからです。

  クリスチャンはどうなるのでしょうか。黙示録20:6に、「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。」と書かれています。それでは、他の人々はどうなるのでしょうか。黙示録20:12に書かれています。神様のみ前に立つのです。そして、そこには、数々の開かれた書があります。他にもう一つの書が開かれています。それは、いのちの書と言われています。「人々はおのおの自分の行ないによってさばかれた」、とあります。

  大きな声では言えませんが、また、これは人が言うことでもありません。あくまでも神様の領域です。しかし、いのちの書があると言うことは、行ないによってさばかれる人々の中に、もしかしたら、いのちの書に名前が書かれている人がいるのかもしれません。そのように考える人々がいます。ただ、はっきりしたことは言えません。明確なことは、イエス・キリストの他に救いの名はないと言うことです。イエス・キリストを救い主と信じることこそが確実なことなのです。

■こんなことばかりを話していると、カルトと思われてしまうかもしれません。けれども、真のいのちがかかっているのです。神の愛は人を救いに導くために、時には、厳しいと感じることをあえて行うものです。時には、危機感をもって対応することが神の愛をまっとうすることができるのだと思います。

  イエス・キリストは死者の中から復活しました。それは、私たちにとって大きな希望です。そして、それは「まじめな真理のことば」なのです。それでは、お祈りします。