主が私たちに望んでいること

2020年3月29日主日礼拝「主が私たちに望んでいること」

Ⅰテサロニケ5:16~18 佐々木俊一牧師

  私たちが神様に望むのは、当前のことであるかと思います。しかし、逆に、神様もまた私たちに望んでいることがあるということが、今日の聖書箇所から知ることができます。神様は私たちに何を望んでおられるのか、見てゆきたいと思います。Ⅰテサロニケ5:16~18に3つのことが書かれています。

■16節、「いつも喜んでいなさい。」とあります。みなさんにとって喜ぶことは簡単なことでしょうか。それとも難しいことでしょうか。今、みなさんがどのような状況に置かれているかによって、喜ぶことが簡単か難しいかが違ってくるかと思います。

  以前、テレビ番組で、フィリピン・マニラにあるスラム街に住む子供たちの特集をやっていました。その地区はスモーキーマウンテンと呼ばれていて、そこに住む子供たちのほとんどは、お金がなくて教育を受けることができません。彼らの仕事は、近所にあるゴミ収集場に行ってお金になる物品を探すことです。なんて不幸な子どもたちでしょうか。しかし、見ていると、子どもたちの顔には笑顔がありました。自分たちは不幸だなんて思っているようには見えません。実にたくましい子どもたちです。彼らの喜びはどこから来るのでしょうか。喜びは、その人が置かれている状況や環境だけによるのではないようにも思われます。

  フィリピン・マニラのスラム街の子どもたちには、きれいで新しい服はありません。美味しい食べ物もありません。狭くて清潔とは言えないぼろぼろの家に住んでいます。教育もまともに受けることができません。しかし、彼らには笑顔があるのです。日本ではどうでしょうか。新しい服、美味しい食べ物、そして、きれいな家は当たり前のように、すべてが与えられています。日本では、当たり前のように与えられているこれらの物を喜ぶ人など誰もいません。

  私たちは、どのような時に喜びを感じるのでしょうか。たとえば、人が生まれて成長していく過程において、母親がそばにいるだけで赤ちゃんはとても喜びます。また、自分の手足を使って移動できるようになると、ただそれだけで喜びます。歩けるようになると、もっと喜びます。何か新しいことができると、とても嬉しいのです。このように、小さなことも喜ぶ理由になるのです。また、それを見た親がほめたりすると、その喜びはもっと大きくなります。人は自分が認められることで喜びを感じるのです。これは、とても自然なことで、人と人とが良い関係を築き上げていくためにとても大切なことです。

  しかし、成長するにしたがって知識や知恵が増し加わると、そう簡単に喜ばなくなるように思います。喜びのハードルが高くなるのでしょうか。小さなことや当たり前のことでは、喜ばないのです。

  ところが、どうでしょうか。1月末から日本でも現実的になった新型コロナウィルスの影響は、私たちの日常をいとも簡単に奪い続けています。以前、私たちは、ふつうの毎日にどれだけ喜びを見出していたでしょうか。私たちの喜びのハードルはあまりにも高かったので、日常のありがたさに気づくことができませんでした。私は、戦争をまったく知らない世代であり、東日本大震災のような自然災害を直接受けたこともありません。ですから、今回の新型コロナウィルスのパンデミック(世界的流行)のように、全世界から日常を奪い去るような経験は生まれて初めてのことです。このようなことが現実に起こるのだと言うことを身をもって知りました。私たちは、私たちの喜びのハードルをもっと下げて、ふつうの毎日をもっと喜ぶ必要があるのではないかと思います。

■17節、「たえず祈りなさい。」とあります。聖書のことばは、霊的な食物とよく言われます。そして、祈りは、霊的な呼吸であると言われます。食物も呼吸もやめてしまえば死んでしまいます。ですから、私たちが生き生きと信仰生活を続けるためには、聖書を読んだり、祈ったりすることが必要なのです。

  また、祈りは神様とお話しすることであると言われます。神様は実際に存在し、生きて働かれるお方です。私たちが祈るのを神様は聞いておられます。神様はただ私たちの祈りを聞いているだけではありません。神様は私たちに語られることもあるのです。祈りとは、ただ私たちが神様に祈るだけではなく、神様が何と言われたのかを聞くことも、祈りの一部なのです。ぜひ、そのことを覚えておいていただきたいと思います。

■18節、「すべてのことについて感謝しなさい」とあります。すべてのことについて感謝するとはどういうことでしょうか。ある英語の聖書では、「あらゆる状況の中で感謝しなさい。」というふうになっています。極端なことを言いますが、どなたかが病気になったり、亡くなったりした時も感謝しなければならないのでしょうか。そういうことではありません。そのような時は、悲しんだり、がっかりするのは当たり前です。そんな時に、もしも感謝したり喜んだりしたら、それはかえって人格が疑われます。けれども、人がもし悲しみ続けたり、落胆し続けたりするならば、それは、心の健康に害を及ぼします。否定的な思考や感情があまりにも長く続くと心の病になってしまうかもしれません。ですから、すべてが神様の御手の中にあることを覚えて、神様に信頼してゆだねることが大切です。そのようなプロセスの中で、神様に感謝する思いを持つことは、私たちの心をより健康に保ってくれるでしょう。

  また、困難な中、主を喜び、主に感謝したところ、神様がすばらしいことをなしてくださった例を使徒の働きの中に見ることもできます。神様は喜ぶことを通して、祈ることを通して、感謝をすることを通して、豊かに働かれるお方であると言えるでしょう。

  そして、18節の後半にこう書かれています。「これが、キリスト・イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」神様は私たちに、キリスト・イエスにあって喜び、キリスト・イエスにあって祈り、キリスト・イエスにあって感謝することを望んでいるのです。救い主なるイエスこそが私たちにとっての喜ぶことの理由であり、祈ることの理由であり、感謝することの理由なのです。どんな状況であっても、どんな境遇であっても、私たちクリスチャンにとって変わらないものがあります。それはイエス・キリストであり、イエス・キリストの救いです。私たちには、どんな時にも喜び、祈り、感謝する理由があるのです。

■19節~22節も見てみましょう。まず、「御霊を消してはなりません。」とあります。御霊とは聖霊のことです。イエス・キリストを救い主として信じている人の内には聖霊が住んでくださっています。この箇所はある英語の聖書ですと、「聖霊の火をけしてはなりません。」とあります。イエス・キリストを救い主と信じている限り、聖霊の火が消えてしまうことはありません。しかし、聖霊の火は小さくもなれば大きくもなるのだと思います。先ほどの3つのことは、ある意味そのバロメーターと言えるでしょう。もしも私たちが、喜ぶ代わりに、怒りや心配や不安や高ぶりに自分の心を明け渡していたとしたら、聖霊の火はだんだん小さくなっている状態ではないでしょうか。また、テレビを見たり、ネットを見たり、遊びに行ったり、そのようなことに夢中になって、神様に心を向けず祈ることもしていない状態が長く続いているとしたら、聖霊の火がだんだん小さくなっている状態ではないでしょうか。また、感謝する代わりに、不平不満に心は満たされ、腹を立て、文句ばかり言っているとしたら、聖霊の火がだんだん小さくなっている状態ではないでしょうか。誰でもそう言うときはあると思います。気づかされたなら、その時私たちは、主を喜ぶように、主に祈るように、主に感謝するように、軌道修正しましょう。

  「喜んでいなさい」に、「いつも」が付いています。「祈りなさい」に、「絶えず」が付いています。「感謝しなさい」に、「すべてのことについて」が付いています。はっきり言ってこれは無理です。喜びますけど、いつもが着くと無理です。祈りますけど、絶えずが付くと無理です。感謝しますけど、すべてのことについてが付くと無理です。これらは強調であって、意味を強めているのでしょう。それは、喜ぶこと、祈ること、感謝することが、聖霊の火を消さないために、さらに、もっと大きな火になるために、本当に大切なことであることを伝えたくてそう表現しているのではないでしょうか。

  次に、「預言をないがしろにしてはいけません。」です。「預言」とは、未来に起こることを予知するとか、予告すると言うことも含んでいますが、それは一部であって、全体的に神様のことばを預かること、受けることなのです。ですから、礼拝での説教、メッセージも一つの預言の働きです。神様から個人的に語られることもあるでしょう。それも預言の働きの一つかもしれません。そして、何よりも大事な預言とは、聖書のことばです。私たちは聖書をないがしろにしてはいけませんし、聖書を読むことをないがしろにしてはいけません。私たちは聖書から学んで、それを行う必要があります。また、礼拝でのメッセージからも私たちは学ぶことができます。メッセンジャーの人はみな祈って語るべきことを用意しています。神様のみこころのことを語れるように、語るべきことばを語ることができるように祈っています。しかし、私たちは不完全な人間ですから、時には神様からではないことを語ってしまうことがあるかもしれません。ですから、21節にあるように、すべてのことを見分けて、本当に良いものを堅く守ってほしいのです。皆さんは、メッセージのすべてをうのみにするのではなくて、皆さんもよく聖書を読んで、できる限り、吟味し、見分けて受け取ってほしいのです。

  そして、終わりに、「悪はどんな悪も避けなさい。」とあります。私たちはどんな悪も避けるように努めなければなりません。何が悪かは聖書を読めばだいたいわかります。ですが、時として、いけないと思いながらも、私たちは、このような悪にはまってしまう愚かな者かもしれません。そのような時には、聖書にあるように、神の御前に低くなって、その罪を言い表しましょう。そうするならば、神様は豊かに赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。いつまでも、罪責感、罪悪感、否定的な感情、暗い気持ちに引きずられていてはいけません。神様の赦しを信じて、新しい気持ちで神様のために生きましょう。そして、祈りましょう。そうしたら、喜びと感謝が心の内に再び戻って来ます。

 私たちは、どのような状況にあったとしても、喜びと祈りと感謝の生活を続けていきましょう。それが、神様が私たちに望んでいることです。それでは、お祈りします。