永遠のいのちの奇蹟

2020年2月23日主日礼拝

「永遠のいのちの奇蹟」

ルカ9:10~20 

佐々木俊一牧師

  5千人の給食の奇蹟については、4福音書すべてに記録されています。この驚くべき出来事は、人間にとっては不可能であっても、人となられた神なるイエス・キリストにとっては不可能ではありませんでした。今日は、5千人の給食の箇所をとおして、神様が私たちに伝えようとしておられるメッセージを受け取りたいと思います。

■10節~11節 「さて、使徒たちは帰ってきて、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。ところが、多くの群集がこれを知って、ついて来た。それで、イエスは喜んで彼らを迎え、神の国のことを話し、また、いやしの必要な人たちをおいやしになった。」

  12人の弟子たちはイエス様に遣わされて、村から村へと回りながら福音を宣べ伝えて歩きました。ひと仕事を終えた弟子たちは、イエス様のもとに戻って来ました。それから、休むためにベツサイダという町の人里はなれた所にやって来ました。ところが、うわさを聞いた多くの群集が彼らの跡についてきました。しかし、イエス様は彼らを追い返すことはせず、喜んで迎えたとあります。また、マタイ14:14とマルコ6:34 では『喜んで』のかわりに、『深くあわれんで』とあります。イエス様は、イエス様のもとに来る人々を喜んで迎え入れ、あわれみを持って神の国について語り、病にある者をいやしてあげたのです。神様の働きにおいて、この『喜んで』ということと、『あわれみを持って』ということがとても大切なことだと思います。喜びもあわれみも、神様のご性質です。ですから、イエス様に従う私たちも、喜びとあわれみを持って神様に仕え、神様の働きをしていきたいと思います。

  とは言っても、喜びもあわれみも持とうと思って持てるものではありません。Ⅰコリント1:4を見てみるとこのようなことが書かれています。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」困難な中にある時には、神様による慰めをぜひ体験していただきたいと思います。神様の慰めは、聖書のことばから来ることもあれば、祈りを通して来ることもありますし、また、神様が人のことばや態度を用いて来る場合もあります。神様はいろいろなものを用いられます。たとえ人からであっても、すべてを支配しすべてを導かれる神様のことを第一に覚えていただきたいと思います。神様との関わりが深められていくことがクリスチャンとしての成長に必要なことだからです。私たちクリスチャンは、神のみ手の中では、陶器師の手の中にある粘土のようなものです。困難をとおして私たちは練られ、作り変えられて行きます。もしも、自分と同じ困難の中で苦しんでいる人々に出会うならば、私たちはあわれみの心を持って対応し、その人々を慰めることができるようになるでしょう。そのような意味で、私たちに許される困難は、けっして、無駄ではないことも覚えていただきたいと思います。苦しみの中を通ったゆえに私たちに与えられる「喜び」や「あわれみ」という実は、このようにして神様の働きの中で豊かに用いられるのです。

■12節~14節 「そのうち、日も暮れ始めたので、12人はみもとに来て、『この群集を解散させてください。そして、回りの村や部落にやって、宿をとらせ、何か食べることができるようにさせてください。私たちは、こんな人里離れた所にいるのですから。』と言った。しかしイエスは、彼らに言われた。『あなたがたで、何か食べるものをあげなさい。』彼らは言った。『私たちには5つのパンと2匹の魚のほか何もありません。私たちが出かけて行って、この民全体のために食物を買うのでしょうか。』それは、男だけでおよそ5千人もいたからである。しかしイエスは、弟子たちに言われた。『人々を、50人ぐらいずつ組にしてすわらせなさい。』」

  弟子たちが言っていることは、実際的に妥当なことだと思います。常識的な判断です。しかし、イエス様は、弟子たちに食べ物を用意するように言いました。弟子たちが持っていたのは、少年が差し出した5つのパンと2匹の魚だけです。これだけでは5人分の食糧にしかなりません。町まで行って食糧を調達するにもお金がまったく足りません。男だけでも5千人以上いたのですから、女と子どもも入れたら、その3倍はいたことでしょう。これでは、弟子たちがいらいらするのもわかります。弟子たちにとって、これは無理な注文だったのです。そこで、イエス様は弟子たちに、50人くらいずつのグループに分かれてすわらせるように言いました。

■15節~17節 「弟子たちは、そのようにして、全部をすわらせた。するとイエスは、5つのパンと2匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福して裂き、群衆に配るように弟子たちに与えられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、余ったパン切れを取り集めると、12かごあった。」

イエス様は少年から提供された5つのパンと2匹の魚を手にとって、天を見上げてそれらを祝福して、裂いて弟子たちに渡し、群衆に配るように言いました。その結果、人々はみなお腹いっぱい食べることができました。余ったパン切れを集めると、12かごありました。

<5千人の給食の奇蹟の目的>

  この箇所は常識的な判断をすべて否定するものではありませんし、実際に、秩序ある常識的な判断を神様は用いられます。イエス様の無理と思われる指示と、その結果見た奇蹟には、何か目的があったのではないでしょうか。それについて少し見てみたいと思います。 

①旧約聖書の出来事の成就: イエス様が救い主であることが示されるために、旧約聖書の中には、救い主がどのようなお方で、どのようなことをされるのかが予告的に書かれています。たとえば、ヘブル11:17~19には、神様がアブラハムにただひとりの子イサクをいけにえとして捧げるように言われたあの出来事が、イエス・キリストの十字架を表わしていることが語られています。このような旧約の出来事を『型(type)』と言います。(※Ⅰペテロ3:21)その他にも、旧約の人物や出来事などをとおして、救い主なるお方について表わされている箇所があります。5千人の給食の奇跡についてもそれを思わせる出来事が列王記Ⅱ4:42~44にあります。預言者エリシャをとおしてなされた奇蹟です。100人の人には絶対に足りなかったはずの食物が、エリシャをとおしてなされた奇蹟によって、みながお腹いっぱいになるまで食べたにもかかわらず、あり余ったのです。イエス様の5千人の給食に比べたらスケールは小さいのですが、これは預言的な出来事の一つであって、イエス様の5千人の給食によって成就しました。列王記Ⅰの17章や列王記Ⅱの4章には、エリヤやエリシャをとおして、ほんの少しの油や小麦粉が、あり余るほどに増えた奇蹟についても書かれてありますし、その他の箇所には病をいやしたり、死人を生き返らせたりというような奇蹟についても書かれてあります。エリヤやエリシャは救い主の型であり、彼らのなしたことをとおして、人々が待ち望む救い主なるお方がどのようなお方なのか、その一面を垣間見ることができるのです。

②イエス・キリストはいのちのパン(食物): 16節に、「それらを祝福して裂き、群集に配るように」と書かれています。これは、主の晩餐式を思い起こさせます。この箇所と同じ記事がヨハネ6章にもあります。そして、その26節と27節にはこのように書かれています。「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」身体を養う食物は生きていくために必要ですが、しかし、それ以上に、永遠のいのちに至る食物を求めるように、イエス様はここで言っています。それでは、永遠のいのちに至る食物とは何でしょうか。ヨハネ6章47節と48節を見てみましょう。「信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしがいのちのパンです。」イエス様こそが永遠のいのちに至る、まことのパンなのです。5千人の給食の奇蹟の中で見た五つのパンと二匹の魚は、イエス・キリストが永遠のいのちを与えるための食物であることを表す出来事です。

③ささげものを祝福される神: ヨハネ6章9節を見ると、この5つのパンと2匹の魚はある少年のものだったことがわかります。そして、それは、その少年によってささげられたものであると考えられます。この5つのパンと2匹の魚で、群集のすべての人に与えることは初めから無理だとわかっていました。が、この少年、あるいは、その家族にとって精一杯のささげものだったのでしょう。神様は、たとえ少なくても、精一杯のささげものを喜ばれ、祝福し、用いてくださいます。この少年の5つのパンと2匹の魚は、5千人以上の人々がお腹いっぱい食べられるほどに祝福されました。

■18節~ 20節 「さて、イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちがいっしょにいた。イエスは彼らに尋ねて言われた。『群集はわたしのことをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、また他の人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。』イエスは彼らに言われた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えて言った。『神のキリストです。』」

  弟子の一人、ペテロは、イエス様の質問、「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」に対して、思い切って「神のキリストです。」と答えました。ペテロは何の疑いもなく100パーセント、「イエス様は神のキリストです。」と信じていたのでしょうか。そうではなかったと思います。もしも、そうであれば、イエス様を裏切らなかったでしょう。完全に理解できたので信じるのではありません。すべてがわかっているのならば、信じる必要はないのです。少しでも可能性があるならば、それを選んで信じるのが、信仰です。ですから、信仰に疑いはつきものです。しかし、それでも、選んで信じるのが、信仰です。

  身体を養うパンはこの地上で生きて行くために必要なものですが、食べ続けたとしても、この肉のいのちはいつか朽ち果てるでしょう。この朽ち果てるいのちに代わって、永遠のいのちを与える奇蹟をなせるお方は、イエス・キリストだけです。イエス・キリストがいのちのパンです。イエス・キリストを信じるならば、奇蹟は起こるのです。永遠のいのちを与えるイエス・キリスト、これが福音の中心です。福音をストレートに語ると多くの人々は聞いてくれません。ですから、福音によって与えられるその他いろいろな祝福を語るようになってきました。それも、もちろんいいのですが、福音の中心はイエス・キリストであり、イエス・キリストが与える永遠のいのちです。イエス・キリストを信じて、そして、永遠のいのちを受けることができる幸いを感謝したいと思います。それではお祈りします。