神は自らを助ける者を助ける

出エジプト記17章8〜16節

 

神は自らを助ける者を助ける

 

 今日、私は “ 神様が言われていない事 “ という題で行ってきたメッセージシリーズの最後のメッセージをしたいと思います。私達は、クリスチャンであるなら多分聞いたことがあるだろう様々な格言で、聖書の教えから来ているものと決めてかかっているけれど実際は神様の言葉ではないものについてこれまで見てきました。私達がそうするのは、主の教えに対する誤解が、信仰と愛によって神様に従って行くことを困難にすることがあるからです。ですからこれらのメッセージを受け取る大きな目的は、絶えず神様との関係をより深めることであり、結果的には人々との関係を深めることです。

 

 以下は皆さんがクリスチャンから聞いたことがあるだろう格言ですが、そのどれもが聖書の中にはないものです。

 

  「これもまた過ぎ去るだろう。(良い時も悪い時もいずれは過ぎ去る)」

  「きれい好きは敬神に次ぐ美徳」

  「神様はドアを一つ閉めても、窓を開けて下さる。」

  「ボロボロになっている聖書は、普通心がボロボロになっていない人に

   属する。」

       「神様が仰り、私はそれを信じる。それで解決。」

 

正直なところ、これらには多くの知恵があると私には思えますし、実際、時として正しいのです。ですが、これらは私達の主から直接来ているものではないので、ある意味、容易に誤解を招いたり誤った使われ方をされるのです。

 

 このような言葉を実際のクリスチャンの教えと考えることは、聖書の知識が大変乏しい現代社会においては本当に大きな問題です。いわゆるキリスト教国の中においても、多くの人々は神様の言葉のしっかりとした理解を得ることなく人生をおくっています。

 例えば、チャールズ・ディケンズが1843年に彼の有名な小説、クリスマスキャロルを書いた時には、彼は読者が次のような言葉を理解することを期待できると思っていたのです。

 

 ボブ・クラチットが妻に自由に歩けない彼らの息子、小さなティムのことを話している場面です。

 

 息子は、長いこと椅子に腰掛け思慮深くなって、聞いたこともないような

 キテレツなことを考えたんだ。家に帰って来て私に言ったんだよ。教会で

 皆んなが僕のことを見て欲しいと思ったって。僕は足が不自由なので、僕

 を見ればクリスマスの日に足萎えを歩けるようにして、盲人が見えるよう

 にされたお方を思って嬉しくなれるかもしれないからって。

 

ディケンズはキリストという言葉を全く使っていませんが、読者はディケンズがイエス様と多くの異なる必要から人々の健康を回復されたという聖書の物語のことを言っていると理解すると分かります。

 

 これを最近の時代と対比させると、アメリカにおける調査の一つですが、少なくとも大人の12%が、Joan of Arc(ジャンヌ ダルクの英語読み)がノアの妻であると信じていると言っています(お分かりになりますか? 名前のJoan of Arc がノアの方舟のArkとなっているのです。あの大きな船でノアと動物を運んだことです。) 。 他の調査では高校生の高学年の50%以上で、ソドムとゴモラが夫婦の名前だと思っているとのことです(創世記で神様に滅ぼされた都市の名前ですね。)。また、あるグループのとても高い割合で、山上の垂訓はビリーグラハムの説教によるものと答えた人々がいるとのことです(ビリーグラハムは著名な説教者でキリストの1900年も後で生きた人です。)。伝えられた事によると、他に、イエス様の最も有名な説教は山上の垂訓( the Sermon on the Mount) 呼ばれるが、それは馬に乗って行われたからと思っている人々がいるとのことです(英語のMount は山という意味の他に馬という意味もあるからです。)。まだ他にも、epistles( イピスル 使徒書簡) という言葉が使徒(apostles)の妻達を示すことだというのもあります(分かりますか?新約聖書でキリストによって特別に選ばれた者達、使徒の英語に似ていることから)。

 

 最後の例です、82%のアメリカ人は、” 神は自らを助ける者を助ける” が聖書からの引用だと思っているとのことです。それは違います。私が今日、皆さんとともに焦点を当てて行こうと考えている格言です。イエス様がそのように言われることを皆さんが期待しそうなことですよね。神様は、従って来る者達に、受け身で、怠惰であれとは教えておられないのは事実です。

神様は一般的に、皆さんができる事(神様によって可能とさせられている事)について、皆さんの為に何かをすることはないと私は理解しています。

 

 私達自身を助けるという事に焦点を当てるのは、事実として主の助けに対し私達自身を解放することに焦点を当てないことになります。そしてその事は、聖書の神様の教えにおける要点であると思うのです。私達は多分、実際に、” 神は自らを助ける者を助ける” という格言を聖書よりもイソップ物語から得ているのでしょう。この物事の ”ヘラクレスと牛追い” のことで、荷車が泥ではまって動かなくなった農民の話です。その農民は泥から抜け出そうと努力をせず、ヘラクレスに祈って助けを求めました。そこに現れたヘラクレスは、農民が自分自身で努力をするまで助けることを拒否しました。すると農民はその教えに従って自分で牛を追いたて荷車を脱出させました。

 その教えの要点が、” 神は自らを助ける者を助ける” です。

 

 私達の文化では、場合にもよりますが、クリスチャンの信仰よりもイソップ物語の教えの方が心地よいと思えるものです。人間としての私の中に、助けを求めることに抵抗する何かがあるからです。私は自分自身の面倒は自分で見る事ができるようになりたいのです。助けを求める事は私のプライドを傷つけるのです。それは私を小さく思わせ、十分な力がないと思わせるのです。頭では助けが必要だと知っているのに、助けを求めたくないのです。

 

 そして助けを求めない時、それはより大きな問題となっていくのです。

 もし私が進んで助けを求めることをしなければ、問題として始まったものが容易に危機へと成長していきます。緊張で張り詰めた婚姻関係は離婚になり得ます。悪い習慣は中毒になり得ます。予算の超過は重い借金に、ほんの少しの異性への一時的な興味は不倫と結婚の誓約の破壊に、ぐずぐずと引き伸ばす事は失業へ、皮肉を用いて話す習慣は、誰も友人になろうと思わない者へとなり得るのです。

 

 では誰が神様の助けを受けるのでしょう? 聖書の教えははっきりと、神様の助けを求める人を神様が助けると明かにしています。私達が神様の助けを受けるために最も必要な事は真摯に求める事です。なのでクリスチャンの生活は、ほとんど祈ることのない自分自身を助けるという生活ではありません。私達の父なる神様とのコミュニケーションの中に止まることが大事で、神様の子供として生きることのかけがえのない部分です。

 

 これが真実である一つの例が出エジプト記2章23〜25節にあります。エジプトの王はかつてエジプト政府の重要な指導者であったヨセフの民であるヘブル人を保護してきました。ですが・・・

 

   23節、多くの日を経てエジプトの王は死んだ。イスラエルの人々

   は、奴隷となったことの労役のためうめいて叫んだ。彼らの助けを求   

   める叫びは神に届いた。24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、

   イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。 25 神はイスラエル人   

   を御覧になった。神はみこころを留められた。

 

明らかなこととして、神様は神様の助けを求める者だけを助けるのではないのです。度々神様は、神様に助けを求めておらず、神様が助けている事をも理解しないであろう人々も助けられるのです。その場合彼らはもちろん助けられた事で神様に感謝することはありません。最も大事な事は神様が愛の神であり、慈悲深く、恵みに溢れ、同情される、与える事に寛大なお方であって、それが神様であることの本質であるという事です。イエス様は父なる神様について、” 神は邪悪な人にも、良い人の上にも太陽を輝かせて下さいます。” と仰っています。神様は愛する神であられるので、私達を自由にし、もし私達が真の信仰によって生きるなら私達が自由に神様の助けを求めることが必要なことを知っておられるのです。

 

 このことの最も明らかな例の一つは出エジプト記17章にある物語で、神様の民がアマレク人との戦いに直面するところです。佐々木先生が先週のメッセージで示して下さいましたが、この物語を、神様が、人々が戦争をして戦うことを望んでいると読むのは間違いです。ここのポイントは、私達に敵対したり、そのような関係にある人々を打ち負かせる神様の助けを私達が得られるという事ではないと言うことであって、私達の人生は時に戦いであると言うことです。ヘブル人の場合は、彼らは攻撃され、これを防衛しなければ死んでしまうということと思います。私達の人生の戦いは軍事的なものではないでしょうが、まさに現実のことです。例えば、私達は健康上の事、中毒症状に陥った事、自分自身の中にある誘惑に、様々な種類の不正とに戦わなければならないかもしれないのです。なのでヘブル人の物語も私達の物語なのです。

 

 アマレク人が攻撃してきた時、ヘブル人はどのように反応すべきか決めなければなりませんでした。指導者であるモーセは王であるファラオの家で育てられましたから、高い確率で軍事的な戦略について訓練してきたと思います。ヘブル人の軍事面の重要なリーダーであるヨシュアも、モーセと話をする時、アマレク人との来るべき戦いについて深い戦略を持つ専門家であった事は疑いのない事です。

 しかしモーセの計画は全く違ったもので、戦いが始まった時、戦場を見渡せる丘の頂上に立ちました。兵士達はモーセが両手に持つ神様の杖を見ることができたでしょう。この杖は主の存在と力の象徴で、この同じ杖を持ってモーセは紅海の上に両手を伸ばし、海を分け道を作り神様の民は自由、安全、命、救いへと歩いて行くことができました。

 

 モーセは自分の手を、” 今だ、攻めろ。” とか、” あそこへ行け。” など指示したり合図を出す事に使いません。代わりにただ単に両手を上げるー神様に向かって持ち上げるーことをします。彼は神様の助けを求めているのです。そして彼がそうしている間は、奴隷上がりの訓練されていない集団は、驚くべきことに何とか良く戦っています。彼らは戦いに勝ち始めるのです。

 

 しかしモーセは疲れきます。そして両手を高く掲げ続けることができなくなった時、ヘブル人は負け始めるのです。そこでモーセは、神様の助けを求めて与えられるように、自分の周りの人の助けも必要であることを学びます。

主は、度々そうされるように、普通の人々を通してご自分の救いの御業をなされる事を選ばれるのです。この場合は、それはアロンとフルで、モーセが座る場所を見つけることができるよう助けます。そしてモーセが自分で持ち上げ続けることができなくなる時、モーセの腕を支えます。この時モーセは神様に向かって声を上げて祈っていると聖書には記載されていませんが、確実にずっと祈っています。彼は自分自身を助けようとしておらず、積極的に神様の力。守り、恵みを求めているのです。

 

 このようにして神様の民は戦わなければならない戦いに勝利し、この経験を通して神様をより深い方法で知るようになりました。彼らは神様が困難な時の、またいついかなる時の力として自分達が信頼できるお方であると学んだのです。モーセは15章で神様を、大きく成長する神様に対する理解と信仰を表すアドナイ・ニシ(Jehovah Nissi “ 主はわが旗” )という名前で呼びました。

 

 この物語で、聖書の神様は私達に、簡単ではありますが人生を変えるほどの真実を教えています。皆さんや私は自分自身の力だけで生きるようには作られていないのです。私達は神様に頼って生きるように作られています。私達の誰もが私達自身として生まれ育てられることを決めていません。私達は神様からの贈物として命を授かっています。私達は両親やお世話をしてくれる誰かの愛に頼って生きています。クリスマスの一つの大きな意味は、受肉ということで、それは神様が人間の肉体を取り私達のうちの1人となられたということです。それはイエス様が助けを求めるのを学ばれたことを意味します。例えばイエス様は母マリアに ” 着替えを助けて” , “ 食べるのを助けて”  と言う必要があったことでしょう。人が成長し十分長く生きると、自分達が子供の時にされたように、両親のお世話をする様になることでしょう。そしてもしその人がもっと生きるなら、再び毎日の生活の着替えや食事の助けが必要になります。それはキリストにあっても同じだったと思います。結果的に受肉した神様は自分の十字架を背負い運ぶことができませんでした。イエス様の地上での物語は始まった時と同じようにー全能の神の子として弱いということ、助けが必要であるということを知りつつー終わります。この後でのみ復活が起こるのです。

 

 これが、私達が神様の助けを求めそして受ける過程の中で自分の人生を生きる上で神様が私達にして欲しいと思われる方法です。このことと調和して、私達は、日々そして毎年、お互いに助けを求め、受け、与えて生きるように設計されているのです。私達はお互いに助け合うためにここにいます。私達が真にこれを為す時、私達は単にもっと得るだけではなく、謙遜にもさせられるのです。ですので、作家のアレックス・ヘイリーは、” フェンスの支柱の上に乗っている亀を見ると、その亀には助けがあった(亀は望んでも自分で支柱の上には登れない)。” と言っているのです。言い換えるなら、誰かがいかに成功しようとも、その人生でその人ただ一人ではそこにたどり着けなかったということです。私達の誰もが多くの人から多くのことを得ています。そしてそのことを覚えることは、単に当然の事と思うのではなく、感謝の念を持って生きることの助けとなるのです。

 

 皆さんの人生において神様の助けをどのように経験されたでしょうか。皆さんを助けるために神様はどのように他の人々を使われたでしょう?

今日の礼拝後のバイブルディスカッションでは、これらの質問について皆さんの答えを分かち合う良い機会だと思います。

 

 神様の助けを求めて受け取った1人に、ビル・ウイルソンという男性がいます。彼は1930年代のニューヨークの株式仲買人でした。彼は酷いアルコール中毒にもがいていました。長い間様々なことを試してアルコール中毒の力から自由になろうとしてことごとく失敗していたのです。とうとうどん底まで落ちた時、彼は神様の助けを求めたのです。彼は後に次のように言っています。

 

  完全な絶望の中で私は、” 神様がおられるのなら、ご自身を表して下さ

  い。” と叫び呼びかけたのです。すると直ぐに途方もない衝撃と大きさ

  の光が私にやって来ました。それは、私がそれ以降  “ アルコール依存

  症更生会” という本で表現しようとしている何かなのです。

 

  私のアルコール依存からの解放は即時でした。その瞬間私は自由な人間

  だと知ったのです。

 

 ビルW と多くの人が呼んでいる彼は、アルコール依存症更生会の創生者の1人として働き始めました。組織は大きくなり、アルコール依存と戦う世界中の多くの人々を助けています。完全ではないにしても、この組織のメンバーは、多くの “ ビルの仲間達” が希望、力、幸せを見つける手助けをしてきています。そして最初から、組織は信仰を精神的な資質として頼っており、その多くの主要メンバーはキリストに従う者であり、基本原理を聖書の教えから得ているのです。全てが始まって、続いているのは、ただ真摯な祈りで神様に助けを求めているからです。

 

 私達がキリストに従う者としてよって立つ良い知らせは、私達は賢明に働いて私達が必要とする全てを自身で得るということではなく、神様ご自身が私達がどのような状況にいても喜んで助けることがおできになるということです。私達の希望は私達自身の良い行いではなくキリストご自身に置かれているのです。ローマ人への手紙5章6〜8節には次のようにあります。

 

  6 私達がまだ弱かった時、キリストは定められた時に不敬虔な者のため

  に死んで下さいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどあり

  ません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょ

  う。8 しかし私達がまだ罪人であった時、キリストが私達のために死ん

  で下さったことにより、神は私達に対するご自身の愛を明らかにしてお

  られます。

 

 

 皆さんは今、人生においてどこに神様の助けを最も必要とされていますか? 今日そのことで神様の助けを求めるたらどのようになるでしょう?

“ 神様、この依存に打ち勝つにはあなたの助けが必要です。”  “ 神様、恐怖の力から自由に生きることを学べるように助けて下さい。”

 “ 神様、私には健康上の問題があって、それは私には大きすぎます。今それを取り去っていただきたいのです。でももし、それが神様の最も良い計画でないのなら、いつの日か私をそれから解放して下さるまで、困難な時を通って行くことができる力を下さい。”  “ 神様、こんな酷い考えが心から離れられません。そのことから自由にして下さい。あなたでこの心を満たして下さい。” 神様、長い間喜びの内に生活していません。どうしたら再びそのように生活できるか学べるよう助けて下さい。” 

 

 どのような祈りであっても、皆さんは祈る必要があるのです。私は今。皆さんにその事を祈るようにお勧めします。そしてもし誰かに祈って頂きたいと思われるなら、佐々木牧師や私、又はここにいる他の人達にそのように言って下さい。又は、お一人で、静かに心から神様に語りかけて下さい。神様は言うべき事を導いて下さいます。神様は聞いておられます。神様は聞いて下さり皆さんが最も必要な方法で最も必要な時に答えて下さいます。神様は助けることができますし、喜んで助けて下さいます。神様は自分自身を助けることができない人々を助けて下さるのです。神様はそうできない人々を助けて下さり、またその事を知っていて下さいます。ですから神様に助けを求めましょう。私と共に皆さんご一緒にそのようにするようお招きします。祈りましょう。

 

 愛する神様、私達はあなたの招きによってあなたの御下へ行きます。あなたはイエス様を通して、” 全て疲れて重荷を負っている者は私の下に来なさい。私があなた方を休ませてあげよう。” (マタイ11章28節前段) と言われました。私達はあなたが働かれる方法についてあなたが語られた言葉の知識を持ってあなたのみ前に行きます。” 武力によらず、権力によらず、我が霊による。 “ (ゼカリヤ書4章6節後段) 。

 私達を私達のプライドから、自分で自分の面倒を見ることに固執する頑固さから自由にして下さい。ガイダンス、サポート、知恵を求め見つけること、あなたの子供としてあなたが私達に与えたいと思われる全ての事、これらを押し止める全ての事から解放して下さい。私達が心から、” 私が持っているものは、神様が下さったもの。” “ 私が私であるのは、神様がそう作られたから。” 私が知っていることは、神様が教えて下さったこと。” “ 私がいるところは神様が連れて来て下さったところ。” と言える決心を私達の心に入れて下さい。あなたは優しく慈悲深い神様で、これらの単純な真実を理解する者達を祝福し喜んで下さいます。私達の前にあるそれぞれの日々を過ごす上で私達が心から、それらが私達の告白になるよう助けて下さい。私達は私達自身を再びあなたの愛に溢れた力強い御手に委ねます。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

 

参考

 

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Dickens, C. (1843). A Christmas Carol. In Prose. Being a Ghost Story of Christmas.

 

      Chapman and Hall. Retrieved February 9, 2020 from <https://www.page    bypagebooks.com/Charles_Dickens/A_Christmas_Carol/Stave_3_ The_Second_of_the_Three_Spirits_p5.html>

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Mohler, A. (June 29, 2004). The Scandal of Biblical Illiteracy: It’s Our Problem. Christian Headlines. Retrieved February 9, 2020 from https://www. christianheadlines.com/columnists/al-mohler/the-scandal-of-biblical- illiteracy-its-our-problem-1270946.html

Ortberg, J. (June 9, 2019). “God Helps Those Who Help Themselves.” I didn’t say that. Menlo Church. Menlo Park, California. Retrieved February 9, 2020 from https://menlo.church/series/i-didnt-say-that#/modal/message/5263/ mlo

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