父の心

2020年2月2日主日礼拝

メッセンジャー:佐々木俊子姉

テーマ「父の心」/中心聖書箇所:詩篇65:1~4

「神よ。あなたの御前には静けさがあり、

シオンには賛美があります。

あなたに誓いが果たされますように。

祈りを聞かれる方よ。

みもとにすべての肉なる者が参ります。

咎が私を圧倒しています。

しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を

赦してくださいます。

幸いなことよ。

あなたが選び、近寄せられた人、

あなたの大庭に住むその人は。

私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の

良いもので満ち足りるでしょう。」(詩篇65:1~4)

 

■みことばから

 今日のみことばは何か神々しいというのか、後ろから光が差してくるような、主の招きを感じさせられるみことばだと思います。以前もお話ししたかと思うのですが、私を救いに導いてくださったジョンソン先生がある時こう言われました。「俊子さん、心が傷ついている時には詩篇を読みなさい。」以前はそれほど詩篇を読んではいませんでしたが、それからは詩篇をよく読むようになりました。そして今は読むというより味わうと言った方がぴったりするような感じで詩篇に接しています。ひとつひとつの行を思い巡らし、主に思いを馳せる。ある牧師のことばを借りて言うなら、「そこには現実生活にはない麗しさがある。」と思います。この世の生活では得られないもの、聖なる宮の良いもので満ち足りるのです。

 今日はあえてみことばの解釈はしません。それぞれがこのみことばから直接受け止めていただきたいと思います。

■親の心

 麗しい詩篇のみことばを読んだすぐ後で、佐々木家の株を下げる話というのか、ちょっとした私と息子とのいざこざについてお話しさせていただきます。(本人の了解を得てあります。)

 もう4年くらい前のことですが、息子がちょうど大学院を卒業する春休みのことです。もうすべてのことが終わって、就職を前に息子はこの春休みを遊び切ってやろうと思っていたのではないでしょうか。KGKの全国大会やなんやらいっぱい計画を立てて、最初の2週間の旅に出ました。旅に出る前にかぜをひいていましたが、幸いにも良い薬を医者に出してもらっていてほとんど治った形で出て行きました。一方私には息子のかぜが移ってしまい、医者に行ったものの普通の総合感冒薬しかもらえないで、かぜが長引いたあげく肺炎になってしまいました。そして毎日寝て過ごしていたのです。2週間の旅を終えて息子は帰って来ました。でも、夜遅くに帰って来て次の日は教授の退官式だとかで一日中出掛けていました。そして夜遅くに帰って来たかと思ったら、次の日からはまた卒業旅行という1週間の旅に出ました。その頃はまだ同居していたので、持って帰ってきた洗濯物など洗っては次に持たせてやっていたと思います。私が病気で寝ている間は夫にいろいろと家事をしてもらったのですが、熱もあったのでつらかったです。

 1週間が過ぎて息子はまた夜遅くに帰ってきたと思います。私も息子が帰って来る度に地下鉄の駅まで迎えに行きました。これで3週間の間家を空けていました。次の日、今日は家にいるのかと思ったら、また友だちとスノボーをしに行くんだとか言うのです。「ええーっ!なんじゃそれは!」と思いました。「こんなに遊び歩いていたのに、まだ足りないのか!それはむさぼりというものだ!」と私は言いました。スノボーには行きませんでしたが、何か友だちと会うとかで、出かけていきました。でもまあ夜には一緒に晩ご飯が食べられるのかなあと思っていたら、いつもお世話になっている主人の姉夫婦に、就職祝にいっしょに食べに行こうと誘われているのでまた夜はいないというのです…。そこで私の中の何かがプッツンと切れました!堪忍袋の緒が切れるってやつです。私は言いました。「もうお前の顔なんて見たくないわ!」「○○さんちの子にしてもらえ!」24歳の子に向かって○○さんちの子にしてもらえ!って変なのですが、そう言いたくなるものがありました。いっしょに晩ご飯くらい食べたかったのです!私もやっと元気になってきて一緒に話がしたかったのです。

 それから私は4、5日息子と口をききませんでした。実は私はそういうことが一番嫌いで、人と喧嘩をして口をきかないなんてことはしないと決め、うちのルールにしています。どんなにひどい喧嘩をしても次の日まで引きずらない。次の日にはカラッとして「おはよう!」と言うことが我が家のルールです。それを決めた私自らがルールを破り、口をきかなくなりました。それぐらい腹が立ったというか、がっかりしたのです。大したことは望んでいませんでした。ただ一緒にご飯を食べたいと思っただけだったのに…。

 私たちの天の父もそうじゃないでしょうか。父は私たちがご自分の元に来てともに交わり、話をするのをいつも待っておられます。もちろん天の父は来ないからといって私のように怒ったりはなさらないでしょう。でもがっかりしたり、悲しんだりはされると思います。父はご自分のところに来て話してほしい、賛美の中で交わりたい、ことばを交わしてともに時を過ごしたいと思っておられるでしょう。先ほどの詩篇のみことばのように、あなたは「選び、近寄せられた人」なのです。「主の大庭に住む幸いな人」なのです。

■父との交わり

 『神を愛する』と聞くと私たちはすぐに神様のために何かをしなくては…と思ってしまいます。『神様に仕える』とか『神様に従う』とか『神様を喜ばせる』とかいうときにも何かしないと、と思ってしまいます。

神様を喜ばせるために私には何ができるだろうか、神様への愛を表すために私は何をすべきなのだろうか。

どの本の中に書かれていたのか忘れてしまったのですが、この秋ごろに読んでいた本の中に「神様は私たちが何をしたかではなく、どんな者であるかに興味をもっておられる。」と書いてあったのを覚えています。神様のために何かする。例えば礼拝の出席者を増やすとか、新しい教会を建てるとか、人々に主を証して教会に誘って来るとか、それぞれすばらしいことです。でも、そういうことよりも私たちが主のみ元に行き、主ご自身を喜び、主のみ心を尋ね求めることを望んでおられるということをこの著者は言いたかったのだと思うのです。人はすぐに目に見えることをしようとしますが、主はその人の心を見ておられるということでしょうか。

 私が時々きいているユーチューブのメッセンジャーのお話をこの前また聴いていたのですが、この方はご自分のことを「聖書オタク」と呼んでいて、聖書が大好きなようですね。しょっちゅう聖書を読んでいる。でもそれだけではなく、毎朝夜明け前に懐中電灯を持って、「プレーヤー ウォーキング」(祈りの散歩)に出掛けると言っておられました。私の信仰の友である79歳の方がおられるのですが、その方も富士山のふもとに住んでおられたとき毎日「プレーヤー ウォーキング」しておられて、私もその方をお訪ねした折にお供したことがありました。こういう方たちを見るときに、主を愛しているな、主をお喜ばせしているな、と思うのです。父なる神の心を汲み取っていると思うのです。主の思いに応えているのです。

「だからみんなでプレーヤー ウォーキングしよう!」と言っているのではありません。この方たちの姿勢を学びたいということなのです。私たちにはそれぞれに主と交わる交わり方があると思います。おひとりおひとりにご自分のスタイルがあると思います。プレーヤー ウォーキングする方もおられれば、朝早くにご自分の部屋で主をほめたたえられる方もおられます。私は朝が苦手なので、午後や夜に主と交わります。一日の中のどこかの時間、いえ、一週間の中のどこかの時間を主との交わりに使いましょう。そしてそれを確立していくことが大切だと言いたいのです。またそれを続け、深めていくことを主は望んでおられると言いたいのです。

■ママ・クアングのことば

 最後にもうひとつだけお分かちさせてください。私が20代の頃、日本にママ・クアングという方が来られました。この方は中国人の伝道者で、当時日本から中国語聖書を中国本土に持ち込むプロジェクトを遂行していた団体の招きで来日しておられました。私は名古屋でその方のお話を聞いたのです。もうすごい話で、あの時の感動を忘れることはできません。歌った讃美歌も覚えています。とても熱い集会でした。

 中国では1966年から76年までの10年間文化大革命と呼ばれる一般市民を巻き込んだ大きな革命がありました。高校生の人たちは世界史の中で習うと思いますが、これは2000万人の死者を出したと言われている歴史的な出来事で、首謀者は毛沢東という名の当時の国家主席です。最初は共産党内部での思想闘争(毛沢東の思想に合わない政治家たちを潰すためのもの)だったのが、一般の青少年たちを上手く洗脳して紅衛兵という組織を各地で作らせ、既存の文化、思想、風俗、伝統に逆らわせ、教師、知識人、芸術家などを殺し、文化財を破壊する運動に発展していきました。キリスト教もその中で凄まじい迫害を受けたのです。

 ママ・クアングは確か1000人の伝道師を束ねている伝道師のリーダーでした。ですから当然目を付けられる存在でした。ある日彼女が導いている教会は襲われ、ママ・クアングは連れて行かれるのですが、彼女の11歳の息子さんはその時殺され、教会は焼かれてしまうのです。おそらくひどい拷問とかに合われたと思うのですが、(その辺はもう覚えていません。)奇跡的にママ・クアングはその後ご主人と共にカナダに亡命されたということでした。

 ママ・クアングが来日された折に語られたことばを今回久しぶりに思い出しました。「みなさん、人はいろいろなことで競争します。そのどんな競争にも負けて構いません。どんなことでも負けていいんです。でも、イエス・キリストを愛することにおいては誰にも負けてはいけません!」「イエス様を愛することではだれにも負けてはならないのです!」

もちろん、イエス様を愛することは競争ではありません。でも、私たちひとりひとりがもっとも大切にすべきこととして心に刻んでいく必要があると思います。最後に聖書のみことばを読んで終わりにしましょう。

 

「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」

                                 (ルカ10:27)